幻光舞

『今日当たり見られるかもしれない』と言う主人の言葉に従って宿を出たのは早朝の事。さして期待する事無く歩き出せば、徐々に同じ道行きを辿る人々が増え始める。目指した海岸は常青の地にあるにも関わらず、凍てつくような冷気を漂わせ始めていた。


 本来北の最果て、極寒の地でしか生じえない『それ』が内海に面した温暖湿潤な地域で見る事が出来るのは、かつての大戦の名残で内海上空の空間と時間が複雑奇怪なまでに入り混じってしまったからだと言われる。入り混じった空間と時間は酷く気まぐれで時に想像もしえないような遙彼方時間の終焉を見せもする。しかし、多くは人が容易には辿りつく事の叶わない最果ての地、その光景を映し出すのだ。


 何処からか低くしかし澄んだ鐘の音が響き始め、それを合図としたかのように空が淡い闇を招き纏った。この一時だけは太陽も姿を隠し、海は極寒の暗蒼に染まる。吹きつける朔風を受けながらも、居合わせた者の顔には期待に満ちた笑みが浮かび、それは静かに現れた。はじめに感嘆の声を上げたのは私だったのか、それとも隣の誰かだったのか。

 暗紫の空の一点が綻び色彩が溢れ出す。瞬く間に帯となり、光を放ちながら全空に広がる。

 息する事さえ忘れて魅入る観客の目の前で、色彩は移ろい姿さえも変容する。時に激しく煌き、かと思えば儚いほどに弱く瞬く。

 その美しさと気紛れさに誰もが息を吐き、時さえ忘れて魅了される。

 やがて空は本来の自分を思い出す。冷たい風は温かさを覚え、蒼ざめた空は失った色彩を取り戻す。全てが幻だったかのように太陽が柔らかな日差しを投げて寄越すが、瞳に焼き付いたあの光景は決して幻影などではない。

 その証に、空の一角、薄闇の消えきらないその場所で色彩が舞っている。

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