◆新しい命◆


もうすぐ俺に弟か妹ができるらしい。

綾さんからその話を聞いたのは半年ほど前の事だった。


◆◆◆◆◆


美桜と一緒にまったりと過ごしていた休日のある日。


それは1本の電話から始まった。

テーブルの上に置いてあった俺のケイタイが音を発した。


俺より先にケイタイに手を伸ばした美桜が

「あっ!!綾さんからだ!!」

嬉しそうにケイタイを俺に差し出す。

満面の笑みを浮かべている美桜とは対照的に俺は嫌な予感がしていた。


……なんだよ、せっかくの休日に……。

そう思いながらケイタイを耳にあてると


『蓮?あんた今ヒマでしょ?』

電話の相手は開口一番そう言い放った。


「おい、てめぇは常識ってもんをどこに置き忘れてきたんだ?」

『は?そんな物は母親のお腹の中に置いてきたわよ』

「……やっぱりな、どうりでてめぇの行動には常識ってもんがねぇって思ってたんだよ」

『あはは!!あんた、なかなか上手い事を言うわね』

綾さんは電話の向こう側で大爆笑していた。


……おいおい、そこは笑うところじゃねぇだろ……。

そう思ったけど、わざわざ突っ込むのが面倒だった俺は、あえてそこはスルーする事にした。


「……てか、用件はなんだ?30秒以内にまとめて話せ」

『は?なんで30秒なのよ?』

「俺があと30秒で電話を切ろうとしてるからに決まってんだろ」

『は!?』

「早くしねぇともうカウントは始まってるぞ」

『え!?ちょ……ちょっと待ってよ』

「5秒経過」

『もう、5秒!?』

「10秒経過」

『冗談は止めてよ!!てか、あんた私の話なんて聞く気がないんでしょ!?』

「15秒経過。残り僅かだぞ」

『……』

「5」

『……』

「4」

『……』

「3」

『……』

「2」

『……』

「1」

『は……話があるの!!』


……この女……。

なにをテンパってんだ?


「……あぁ、そうだろうな。だから電話してきたんだろーが」

『……』

「俺が聞いてんのは、その話の内容だ」

『う……うん、そうよね。ごめん』


はあ!?

今、『ごめん』って謝らなかったか?

……イヤ、そんなはずはねぇ。

綾さんが謝罪の言葉なんて口にするはずがねぇ。

きっと空耳だ。

……もしくは、また何かを企んでるとか……。


「何を企んでるんだ?」

『えっ?』

「どうせまた何かを企んでるんだろ?」

『ちっ……違うわよッ!!』

「はいはい、下手な演技はいいからさっさと用件を言えよ」

『だ……だから話があるんだってば!!』

「話があるってのは分かったから,その内容を話せよ」

『……ない……』

「あ?」

『電話なんかじゃ話せないわよ!!』


……おいおい。

下手な演技の次は逆ギレかよ……。


盛大な溜め息を吐いた俺は

「……じゃあ、なんでてめぇは電話なんかしてきたんだ?」

そう尋ねるしかなかった。


『ちょっと家に来てもらおうと思って』

「あ?」

『どうせヒマなんでしょ?』

「は?」

『だから美桜ちゃんと一緒に来てよ』

「……」

『それじゃあ、待ってるから!』

綾さんはそれだけ言うと一方的に電話を切った。


……何なんだよ、一体……。

愕然とケイタイを眺めていると


「蓮さん、綾さんは何だって?」

美桜が俺の顔を覗き込んだ。


「話があるらしい」

「え?お話?」

「あぁ」

「なんのお話?」

「さぁ?」

「さぁ?って……」

「なんか電話では話せないらしい」

「は?なんで?」

「分かんねぇ」

「それってとっても大事なお話って事なのかな?」

「そうかもしれねぇな」

「それで、綾さんはなんて言ってたの?」

「家に来て欲しいらしい」

「そっか。だったら蓮さん早く行ってあげなよ」

「別に急ぐ必要はねぇだろ?」

「は?」

「また、ろくでもねぇ事を企んでるかもしれねぇし」

「でも、綾さんはお話があるって言ってたんでしょ?」

「まあ、そうだけど……アイツの言葉を簡単に信用すると後々面倒くさい事になったりするからな」

俺は、そう言ってタバコの箱に手を伸ばした。


その瞬間

「蓮さん!!」

キレ気味な美桜の声が聞こえて、俺の手の中にあったタバコの箱は奪い取られてしまった。


「美桜!?」

美桜の豹変ぶりの理由が全く分からない俺は,ただ呆然とするしかなかった。


「綾さんが待ってるんだから、早く行ってあげて!!」「……」

「蓮さん!!」


……恐ぇ……。

美桜の迫力に圧到された俺がタバコを諦めた事はいうまでもない。


それから俺は渋々と立ち上がり着替える為にクローゼットに向かおうとして、ソファから動こうとしない気配に足を止め振り返った。


「……美桜?」

「なに?」

「お前は準備しなくていいのか?」

「は?なんで?」

「綾さんの所に行かねぇのか?」

「うん、行かない」

「なんで行かないんだ?」

「なんでって……綾さんは蓮さんに話があるんでしょ?」

「いや」

「……?」

「綾さんは、俺とお前に話があるらしい」

「は?」

「あ?」

「……」

「……」

「……ねぇ、蓮さん」

「ん?」

「私達、何か悪い事したっけ?」

「悪い事?」

「うん、綾さんに叱られるような事したっけ?」

「いや、別になんもしてねぇだろ」

「じゃあ、なんでお説教されるの!?」

「は?説教?なんの話だ?」

「ヘっ?お説教じゃないの?」

「説教はされねぇと思うけど」

「じゃあ、なんで2人で呼び出されるの?」

「いや、だから話があるって……」

「その話ってお説教じゃないんだよね?」

「あぁ、違うと思う」

「良かった」

美桜は安心したように大きな溜め息を吐いた。


……説教って……。

一体どう考えたらそんな結果が出るんだ?

……一度こいつの頭の中を見てみたい……。

俺は苦笑してしまった。


◆◆◆◆◆


準備を整えた俺達はすぐに綾さんと親父が住む実家へと向かった。

俺は『そんなに急がなくても大丈夫だ』って何度も言ったのに……。

美桜が俺の言葉を聞く事はなかった。

いつもは出掛けるっていうと、準備にとてつもなく時間を掛ける美桜が、今日に限っては素晴らしい動きで20分弱で準備を終えた。

部屋着にスッピンだった美桜が20分後には完璧なお出掛けモードに変身していた。

「蓮さん、まだ?」

いつもは俺が美桜に言う言葉を今日は美桜が俺に言っていた。

俺の準備が終わった時、美桜はすでに車のキーを手に玄関に立っていた。

……いつもこのくらいの素早さで準備してくれればいいのにな……。

そう思ったけど……。

俺にはその言葉を口にすることは出来なかった。


◆◆◆◆◆


美桜を助手席に乗せて訪れた実家。

今日は、事務所じゃなくて住居の応接室へと向かう。

美桜を初めてここに連れて来た時に通された部屋。

今でもあの日の美桜の緊張っぷりを思い出すと笑いが込み上げてくる。

それと同時に親父の目をまっすぐに見て俺と一緒にいる事を選んでくれた美桜をわせれることが出来ない。

応接室の前にはマサトがいた。

「お疲れ様です」

キビキビと頭を下げるマサトは仕事モードの証拠。

そんなマサトに美桜は

「こんにちは、マサトさん」

満面の笑みを浮べた。

「こんにちは」

美桜の笑顔を見たマサトが嬉しそうに表情を崩した。

それからマサトは俺に視線を移すと

「親父と綾姐さんがお待ちです」

と応接室のドアを開けた。

マサトの言葉通り、応接室には親父と綾さんの姿があった。

休日モードの親父といつも同じように派手目な綾さんが並んでソファに座っている。

先に室内に足を踏み入れた美桜が

「お父さん、綾さん、こんにちは!!」

2人に向かって頭を下げた。

そんな美桜に

「こんにちは、美桜さん」

嬉しそうに鼻の下を伸ばした親父と

「美桜ちゃん座って、座って!!」

やっぱり嬉しそうに自分の真向かいのソファを指差した綾さん。

……こいつら……。

話があるって言いながら実は美桜に会いたかっただけじゃねぇだろーな?

超ご機嫌な親父と綾さんにそんな疑惑を抱きつつ、俺は美桜の隣に腰を降ろした。

「美桜さん、学校は楽しいかい?」

「はい!!とっても楽しいです」

「そうか。それはよかった」

いつもと同じようにほのぼのとした雰囲気を醸し出す美桜と親父。

そんな親父と美桜を眺めていた俺は、異変に気付いた。

……なんでこいつはソワソワしてんだ?

ついさっきまで嬉しそうに美桜を出迎えていた綾さんの様子がどうもおかしい。

いつもなら親父を差し置いて、機関銃の如く美桜に話しかける綾さんが今日は2人のやり取りに参加すらしようとすらしない。

それだけでも十分におかしいのに……。

キョロキョロと視線を動かしているかと思えば、突然自分の膝に視線を落として何かを考えているような素振りを見せてみたり……。

綾さんのその動きは明らかに挙動不審人物だった。

不思議に思った俺は美桜と親父のやり取りよりも綾さんの方が気になって仕方がなかった。

……なんだ?

なんでこいつはこんなに挙動不審なんだ?

……。

……あっ、あれか?

悪いもんでも喰ったとか?

だから腹が痛ぇとか?

綾さんの挙動不審な原因を腹痛だと推理した俺は綾さんにトイレに行く事を勧めようかと思った。

でも、その時

『失礼します』

タイミング悪くお茶を持ったマサトが応接室に入ってきた。

別にマサトの前で綾さんに『腹が痛ぇなら我慢しねぇで出すもん出してこいよ』って言っても全然いいんだけど……。

さすがに綾さんの立場ってモンを考えるとその言葉を口に出す事は出来なかった。

神宮組の現役“姐さん”が腹痛でトイレを我慢してるなんてさすがにかっこつかねぇしな。

大体、俺がそんな事を言えばマサトだってどう対応していいかわかんねぇだろーし。

ここは、優しい俺が気を利かせてマサトが退室してから声を掛けてやろう。

そう思った俺は喉まで出掛かっていた言葉を一旦飲み込んだ。

トレーを持ったマサトが慣れた手付きでみんなの前にティーカップを置いていく。

親父と俺の前にコーヒー。

美桜の前にはミルクティー。

そして、綾さんの前にはなぜかグラスに入ったフルーツジュースが置かれた。

俺はそこにも違和感を感じた。

無類のコーヒー好きな綾さん。

こんな時はいつもコーヒーを飲むのに……。

なんでジュースなんて飲むんだ?

……。

……やっぱり腹の調子が悪いのか?

そういえば、顔色も少し悪いような気がする。

でも、綾さんの体調が悪いなら親父が1番に気付いて心配するだろーし……。

相変らず親父は美桜と楽しそうに談笑中。

……って事はやっぱり俺の気のせいか?

俺の視線にすら気付いていないらしい綾さんはマサトに『ありがとう』と言うと目の前のグラスに手を伸ばした。

そんな綾さんを眺めていた俺はマサトが運んできてくれたコーヒーを飲もうとティーカップに視線を落とした。

その時だった。

派手な音が響き、綾さんの手の中にあったはずのグラスがテーブルの上でひっくり返っていた。

「きゃっ!!」

短い悲鳴のような驚きの声を上げた綾さん。

「あ……綾さん、大丈夫ですか!?」

親父との会話を中断した美桜が焦った声で尋ねた。

「う……うん。ちょっと手が滑って……」

綾さんが苦笑いを浮べながら答えた。

アタフタと布巾に手を伸ばした綾さんは、テーブルの上に広がっていくジュースを拭き取ろうとした。

……でも、勢い良く布巾をテーブルに置いたせいで飛沫が跳ねた。

「きゃっ!!」

その飛沫が自分の顔に飛び、またしても短い悲鳴を上げた綾さん。

「綾姐さん、自分がやりますよ」

不運続きの綾さんに声を掛けたのはマサトだった。

柔らかい笑みを浮べたマサトは綾さんに手を差し出した。

「……ごめんね、マサト」

マサトに布巾を手渡した綾さんはガックリと肩を落としていた。

そんな綾さんに美桜は驚き、親父はなぜか苦笑していた。

慣れた手付きでテーブルの上を片付けたマサトは、新しいジュースを綾さんの前に置いて応接室を出て行った。

その間も俺は綾さんから視線を逸らせなかった。

……やっぱり、おかしい……、。

電話が掛かってきた時に感じた違和感。

そして、ここに来てから目の当たりにした綾さんの挙動不審っぷり。

しかも、さっきマサトに『ごめんね』って言ったよな?

恐怖の女王を通り越して魔女疑惑まである綾さんが『ごめんね』って言ったんだぞ。

……間違いねぇ……。

これは絶対なんかある。

腹痛だと思ってたけど……。

実は重病とかじゃねぇのか?

余命があと僅かだから気持を入れ替えてみたとか?

……。

わざわざ休日に話があるって人を呼んだんだ。

……まさか、それを打ち明けようとしてんじゃねぇだろーな?

いつもとは違う綾さんの言動に俺は完全にテンパっていた。

「綾さん」

「なぁに?美桜ちゃん」

「体調が悪いんですか?」

綾さんの異変に気付いたらしい美桜が俺より先に尋ねた。

どう話を切り出していいか分からなかった俺にとって美桜の質問はありがたいものだった。

「えっ?」

美桜に尋ねられた綾さんは驚いたような表情を浮かべ親父と顔を見合わせた。

困ったような表情で親父を見つめる綾さん。

そんな綾さんを親父はいつもと同じように優しい瞳で見つめていた。

それから、親父は綾さんから俺に視線を移すと

「蓮、お前に妹か弟ができるらしい」

嬉しそうな笑みを浮べた。

……は?

妹か弟ができる?

それは一体どういう意味なんだ?

俺には親父の言葉の意味が理解できなかった。

嬉しそうな笑みを浮べている親父と真剣な表情の綾さん。

2人に見つめられても、俺は言葉の一つも発せなかった。

流れる沈黙。

その沈黙を破ったのは美桜だった。

「……もしかして……」

そう言った美桜に親父と綾さんは小さく頷いた。

それを見た美桜は

「おめでとうございます!!」

パッと表情を輝かせた。

……おめでとうございます?

一体、何の話だ?

美桜に祝いの言葉を貰った2人はどことなく照れくさそうだった。

そんな3人を他所に俺だけが話についていけてなかった。

そんな俺の手を美桜が掴んだ。

「良かったね、蓮さん!!」

「……?」

なぜか嬉しくて堪らないって感じの美桜を俺は首を傾げて見つめる事しか出来ずにいた。

そんな俺を見て苦笑している親父と綾さん。

俺は2人に尋ねた。

「……一体、何の話だ?」

「だから、あんたに妹か弟ができるんだってば」

そう言い放った綾さんにさっきまでのソワソワ感はなかった。

「……妹か弟?」

「うん、そう」

「……いや、意味が全然分かんねぇんだけど……」

俺の言葉に綾さんは大きな溜息を吐いた。

「あんた、いつもは気付かなくていいことまで気付くくせに……こういう時は本当に鈍いのね」

「……」

呆れ果ててるって感じの綾さん。

鈍い?

それって俺のことか?

……てか、なんで俺が貶されねぇといけねぇんだ?

再びでけぇ溜息を吐いた綾さんが

「……妊娠したの」

驚きの発言を口にした。

「……妊娠!?」

「そう」

「誰が?」

「誰がって私に決まってるじゃない」

「……」

「……」

「……それって親父のガキって事だよな?」

「他に誰がいるのよ?」

「……だよな」

……綾さんが妊娠……。

……妊娠……。

……妊娠!?

「……はぁ!?妊娠!?」

綾さんの言葉の意味を理解した俺は心底驚いた。

「やっと話が通じたみたいだな」

「本当ね」

苦笑気味の親父と綾さん。

一方、美桜は俺の横でニコニコと笑みを零している。

「ねぇ、蓮」

「あ?」

「正直に言って欲しいんだけど」

「……?」

「ぶっちゃけイヤじゃない?」

「は?」

「もし、あんたがイヤなら生まないっていう選択肢も……」

またしても挙動不審ぷりが再発した綾さん。

真剣過ぎて余裕のないその表情は俺が初めて見るものだった。

……綾さんも親父も新しいその命を授かって嬉しくて堪らないはずなのに……。

この2人は誰の目から見ても“仲のいい夫婦”だ。

結婚して10年以上が経つのにお互いを愛する気持ちが薄れる事はない。

それどころか寄り添う時間が経てば経つほどにその気持ちは大きく成長している気がする。

そんな2人に今までガキが出来なかったのが不思議なくらいなのに……。

もし、俺が美桜と出逢ってなかったら……。

こんな時どんな返事を返したか分からない。

でも、今なら……。

俺は迷う事無くこう答える。

「……別に反対なんてしねぇよ」

「えっ?」

「前にも言っただろーが」

「……?」

「それはあんた達夫婦の問題だって」

「……」

「俺に変な気を遣ってんじゃねぇよ」

「……」

「生みたいんだろ?」

「……うん……」

「だったら生めばいいじゃん」

「……うん……」

俺は知っている。

人を愛する気持ちを……。

そして、その気持ちが大きくなれば自然と“結婚”や“妊娠”を望む事を……。

だから綾さんと親父にガキが出来た事だって自然な事なんだ。

2人が素直に喜べなかったのは俺の所為。

俺に気を遣い遠慮したに違いない。

……だからあんなに挙動不審だったんだな……。

ようやく謎が解けた俺はスッキリとした気分だった。

「……まぁ、1つだけ言わせてもらうなら……」

「……?」

涙を浮べた綾さんが俺に視線を向けた。

「元気のいいガキを生めよ」

「……蓮……」

「……まぁ、あんたのガキだからそんな心配なんてしなくても十分元気だろうけどな」

綾さんの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。

そんな綾さんの背中を親父は優しく撫でていた。


◆◆◆◆◆


綾さんから妊娠の報告を受けてからもう半年が経つ。

最近では、腹も大きくなり誰の目から見ても妊婦の綾さんは先日、臨月に突入した。

病院の検診でも順調との太鼓判を貰ったらしく、もうすぐ迎える我が子との対面の日を心待ちにしている。

ちょうど俺と美桜に妊娠の報告をした頃が悪阻のピークだったらしく、食事すら出来なかったらしい綾さんも最近では膨らんだ腹さえ見なければいつもの綾さんに変わりはなく恐怖の女王っぷりも魔女っぷりも健在中。

妊娠前と至って変わりない綾さん。

相変らず、周りの人間は綾さんに振り回されっぱなしだったりする。

ついこの間も俺が事務所で仕事をしているとなにやら大騒ぎしているこえが聞こえた。

……なんかあったのか?

不審に思った俺は声がしている所へと向かった。

事務所から住居に繋がる階段。

そこに綾さんと数人の組員の姿。

『姐さん、そんな事は自分がやりますから!!』

『大丈夫だってば!!』

『いや、そんなことをしててもしお身体になにかあったら……』

『別に何もないわよ』

『いや……でも……』

雑巾で階段を拭いている綾さんと、そんな綾さんを必死で止めようとしている組員。

どうしても言う事を聞こうとしない綾さんに組員も困り果てていた。

「……おい。なにやってんだ?」

「頭!!」

俺の声に振り返った組員がホッとしたような表情を浮べた。

「……ったく。てめぇはデカイ腹を抱えて何をやってるんだ?」

「は?見てわかんないの?拭き掃除よ」

「なんで突然そんな事するんだ?みんなが心配するだろーが」

「なんかね、妊娠中に拭き掃除やトイレ掃除をすると可愛い赤ちゃんが産まれてくるんだって」

「は?」

「まぁ、私と響さんの子供なんだから可愛いに決まってるんだけどね」

「……だったら必要ねぇだろ。大人しくしてろよ」

「大人しくなんてしてたら身体が鈍っちゃうじゃない」

「……」

「出産は体力勝負なんだから」

「……」

「これが終わったらランニングでもしに行こうかしら」

「……せめて散歩ぐらいにしとけよ……」

こんな感じで周りの人間を振り回す綾さん。

その後、帰ってきた親父にトイレ掃除と拭き掃除と散歩は許可してもらったけど、ランニングだけは禁止されていた。


◆◆◆◆◆


「もう、そろそろだね」

「ん?なにが?」

「綾さんの出産予定日」

美桜の視線の先には壁に張ってあるカレンダー。

そのカレンダーの日付にデカデカと赤のペンで書かれた花丸の印。

そして、その下には少し癖のある文字で“出産予定日”書かれていた。

それを眺めながら俺は呟いた。


「あと1週間か」

「うん、もうすぐ会えるね」

そう言った美桜はまるで自分の事のようにとても嬉しそうだった。


「なんか……」

「うん?」

「すげぇ嬉しそうだな」

「うん、すごく嬉しいし、楽しみだよ。蓮さんも同じでしょ?」

「同じ?」

「弟くんか妹ちゃんにもうすぐ会えるんだよ?」

「あぁ、そうだな」

「嬉しいし、楽しみでしょ?」

「……」

「……?」

「全然、実感がねぇんだけど」

「えっ?」

「……てか、綾さんのあのでけぇ腹の中に赤ん坊がいるってのもなんかピンとこねぇし……しかも産まれてくるのが自分の弟か妹っていうのも実感がねぇ」

「……なるほど……」

神妙な表情で頷いた美桜は、何かを考えるように宙に視線を向けた。


しばらく、そのまま動かなかった美桜が突然

「そうだ!!」

何かを思いついたように表情を輝かせた


……?

「ねぇ蓮さん、ちょっと想像してみて」

「想像?」

「うん、あのね、可愛い女の子が蓮さんの後ろを『お兄ちゃん』って呼びながら着いてまわるの」

「それを想像すればいいのか?」

「うん、ちょっとしてみて」

「分かった」


美桜に言われた通り想像してみる。

可愛い女の子が「お兄ちゃん」って呼びながら俺の後ろを着いてまわる……。

……。

……。


「どう?」

「可愛いいな」

「でしょ?」

「あぁ」

「じゃあ次は、蓮さんにそっくりな男の子がなんでも蓮さんのマネをしたがるの」

「……」

「どう?」

「それも可愛いいな」

「ね?楽しみになってきたでしょ?」

「あぁ」

俺の答えに美桜は満足そうな笑みを浮かべた。


綾さんの出産を心待ちにしている人間がここにも1人。

その日を指折り楽しみにしている。

「……てか、美桜」

「うん?」

「そろそろ時間がやべぇんだけど」

俺の言葉に美桜の視線が時計へと移動し

「大変!!蓮さんが遅刻しちゃう!!」

慌てた様子で立ち上がった。

今日は土曜日。

もちろん美桜は学校が休み。

俺も3日前までは休む気満々だった。

3日前、親父のあの言葉がなければ……。

『蓮』

『ん?』

『悪いけど、綾が出産したら1週間程休みをとるから』

『は?なんで』

突然1週間の休暇宣言をした親父とその宣言に驚いた俺。

組の長である親父が1週間も休暇を取ると組内はかなりのパニック状態になることは必須だ。

その理由は簡単。

当然の事だが親父の1週間分の仕事量がそのまま誰かの肩に圧し掛かることになる。

親父の代理が出来る幹部クラスの人間の肩に……。

突然、“組長代理”という肩書きを無理矢理背負わされたそいつの仕事量は莫大なモノになってしまう。

普段の仕事プラス親父に押し付けられた仕事。

その莫大な仕事を1人でこなすのは無理なので、また下の人間で分担して……。

結局、組員全員が被害者になってしまうのだ。

……まぁ、親父が気を利かせて自分の仕事を前倒しして終わらせていれば話は別だが……。

『綾は生まれて初めての入院なんだ』

『……?』

『だから綾が入院中は俺も付き添っていようと思っている』

『……』

『それに生まれてくる子供とも出来るだけ一緒にいようと思ってな』

親父は嬉しそうに表情を崩した。

『……それは別にどうでもいいだけど……』

『……?』

『親父が休みの間の仕事はもう片付いてんのか?』

『……』

俺の問い掛けに親父は無言で不敵な笑みを浮べた。

『……?』

その笑みは……まさか終わってるとか?

俺の儚い期待は

『終わってる訳ないだろ』

平然と言い放った親父によって崩されてしまった。


……そうだよな……。


この親父が前倒しまでして仕事を片付けるはずがねぇよな。

時間さえあれば綾さんとイチャつく事しか考えてねぇ親父にそんな期待をした俺がバカだった。


「……で?」

「うん?」

「仕事はどうするんだ?」

「仕事?だから1週間程休むつもりだが?」

何度も同じ事を言わせるなみたいな表情の親父。


「休むってのは分かった。その休んでる間の仕事は一体誰がするんだ?」

「……」

「……」

少しの沈黙の後、親父は再び不敵な笑みを浮かべた。


……。

……なんでこいつは笑顔なんだ?

親父の笑顔を見た俺はとてつもなく嫌な予感がした。


「そんなの決まってるだろ?J

「……?」

「俺の分の仕事をするのは……」

「するのは?」

「お前に決まっているだろ」

「……」


……やっぱりな……。

そう言われるような気がしたんだ。

……でも、なんで俺が親父の分の仕事まで押しつけられなきゃいけねぇんだよ?

大体、その休む理由はありえねぇだろ?

嫁が初入院だから仕事を休むなんて……。


しかも、こいつは組長だぞ?

絶対ありえねぇだろ?

ここは強めに言っておくべきだな。


「なんで俺が親父の仕事までしなきゃいけねぇんだ?残念ながら俺は自分の仕事だけで手一杯だ。人の仕事まで片付ける余裕なんてねぇよ」


……よし、これくらい強く言えばいいだろう。

そう思った俺が甘かった。


「……おい、蓮」

「なんだ?」

「ウチの組の若頭は誰だ?」

「は?」


……なに言ってんだ?このジジィは……。

とうとうボケたのか?


「神宮組の若頭は誰だって聞いているんだ」

「……俺だけど?」

「そうだよな」

「あぁ」

「じゃあ、若頭の主な仕事はなんだ?」

「組長の補佐だろ」

「あぁ、そうだ」

満足そうな表情で頷く親父。


「一体、何が言い……」

『何が言いたいんだ?』

そう尋ねようとして俺は親父の作戦に気付いた。


「俺がいない間、組の事は頼んだぞ若頭」

「……」

「あっ、それから他の組員にはそれぞれに仕事があるんだからくれぐれも迷惑を掛けるなよ」

「……」


こうして、親父が休暇を取る間、組は俺に任される事になった。組長分の仕事と共に……。


だから土曜日の今日も仕事になってしまったのだ。


「蓮さん、早くしなきゃ遅刻しちゃうよ!!」

美桜に促された俺は家を出た。


◆◆◆◆◆


「美桜ちゃん、おはよう」

「おはようございます、綾さん」

今日も元気な妊婦の綾さんは、いつもと同じように自宅の玄関で美桜を出迎えた。


「ねぇ、美桜ちゃん、今日はクッキーでも焼いて2人でティータイムでもしましょうか?」

「それ楽しそうですね」

「そうでしょ?」

「はい!!」

「じゃあ、早速キッチンに行きましょ」

「はい」

嬉しそうに頷いた美桜が

「蓮さん」

「うん?」

「クッキーができたら持っていくからお仕事頑張ってね」

「あぁ」

「それじゃ、いってらっしゃい」


美桜の笑顔に見送られて俺は事務所へと向かった。


美桜の笑顔と手作りのクッキー。

憂鬱でたまらなかった休日出勤に一瞬で楽しみができた。

……さっさと仕事を片づけて美桜と一緒に帰るか……。


この時の俺は今日という一日がとてつもなく長くなる事を知る由も無かった。


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