第6話 南冥のカッサンドラー(2/3)

 故郷の足柄県あしがらけん、その山深い村の小さな農家に、護郎は五男として生まれた。初等学校での学業成績は優秀で、その上身体頑健で腕白だった護郎は、村の子どもたちのリーダー的存在となっており、ありとあらゆる悪戯で大人たちを困らせたものだった。


 そんな護郎を叱りつけられる人物といえば、父親と母親と、それからイヨだけだった。彼よりも十歳ほど年上のイヨは神社の宮司の一人娘で、女学校にこそ通っていなかったが、知性と思いやりを兼ね備えた性格で村の者たちから愛されていた。そんなイヨに穏やかな口調でいたずらを咎められると、護郎の荒ぶる幼心は一気に静けさを取り戻すのだった。


 だが、イヨは村の者たちから愛されると同時に、恐れられてもいた。彼女にはある特殊な能力があると、村の者たちは盛んに噂していた。


 イヨには、予知能力があった。それもただの予知能力ではなかった。彼女はしばしば奇妙な予言をした。


 護郎が六歳の頃のある秋、大暴風雨が村を襲った。幸いなことに、さしたる被害はなかったが、その翌日イヨは巫女装束のまま村の往来の真ん中に出て来て、道行く人々にあることを告げて回った。


「隣村とこの村を結ぶ山道で、三日後の午後一時に、大きな山崩れがあります。どうかその日はその道を通らないようにしてください」


 妄言とも言えなかった。確かに、雨水を大量に含んだ山肌は、時間が経ってから一気に崩れ落ちることがある。しかし、村人たちは笑ってその言葉を聞き流した。「三日後の午後一時に」という、奇妙なまでに具体的な時間への言及が、却って信憑性を薄めていた。


 だが、イヨの予言は的中した。三日後、まさに彼女が言ったその時間に山崩れが起きたのだった。幸い村から死者や怪我人は出なかったが、隣村の住人が何人か巻き込まれて死んでしまった。


 村の人々は不思議なこともあるものだと思ったが、その時は「これは単なる偶然だ」ということで結論付けた。しかし、その後も似たようなことが頻発した。


 ある時は村長の娘の急病と死を。またある時は魔法生物の出現を。別の時には倉庫の火災を。イヨはそのいずれにおいても正確な日時と出来事の詳細を予言し、的中させた。


 そして、最も奇妙なことは、相次ぐ事件を経るにつれてイヨの予知能力の正確さを理解するようになっていながらも、村人たちがその時その時では「なぜか」イヨの予言を信じないということだった。


 次第に、イヨは気味悪がられるようになった。彼女はなお愛されてはいたけれども、村人たちは近寄らなくなった。そして、あれは予知能力なのではなく、イヨが何らかの力で事件を起こしているのではないかとまで言われるようになった。


 そんな中でも、護郎はイヨとの交流を欠かさなかった。成長するにつれて乱暴な性格が落ち着いてきた彼は、学校が終わるとすぐにイヨの元へ行き、日が暮れるまで神社の中で遊んでいた。


 ある日、イヨはどこか思いつめたような顔をして、護郎に言った。ちょうどその前日、村一番の働き者が彼女の予言通りに急死したところだった。


「ねえ護郎ちゃん。護郎ちゃんは私が怖くないの?」


 護郎は不思議そうな顔をしてイヨを見つめた。


「怖くないよ。イヨ姉ちゃんは優しいし、いつも遊んでくれるから」


 イヨは身を屈めて護郎と同じ目線に立つと、彼の手をそっと握ってから言った。


「それじゃあ、私の『予知』能力は? みんな私の予知を気味悪がっているけど、護郎ちゃんは怖くない?」


 護郎は激しく首を左右に振った。


「怖くないよ。みんなはどうしてかイヨ姉ちゃんの予言を信じないけど、僕は信じているから」


 それを聞いて、イヨは儚げな笑みを浮かべた。


「ありがとう、護郎ちゃん。じゃあこれからは、護郎ちゃんのためだけにこの『予知』能力を使うことにするわね。護郎ちゃん、これから何か知りたいこと、予め分かっておきたいことがあったら、いつでも私に言ってね……」


 それからのイヨは護郎に言ったように、予言をしなくなった。時間が経過するにつれて村人たちの恐れは消えていき、彼女の日常はまた平穏を取り戻した。


 一方、護郎はイヨに予言を求めることはあえてしなかった。しかし一度だけ、彼女に予言を求めたことがあった。それは彼が小学校上等科を修了して、軍に入って少年飛行兵になるかそれとも少年戦車兵になるか、迷っていた時だった。


 問われたイヨはしばらく目を閉じて、じっと何かを考えるようだった。いや、考えるというよりも、彼女は目に見えない何かを、閉じられた瞼越しに見ようとしているようだった。


 しばらくしてから、彼女は言った。


「護郎ちゃん。あなたが戦車兵になったら、護郎ちゃんはあまり活躍できないけど、生きて帰ることができるわ。でも飛行兵になったら、たくさん活躍するんだけど、結局は……その……死んでしまうみたい。護郎ちゃんはどっちが良い?」


 護郎は迷った末、戦車兵になることにした。もちろん飛行士として活躍はしたかったが、両親から「軍隊に行くことは死ぬことを意味する」と反対されていたこともあり、それならば生きて帰れる戦車兵のほうが良かろうと、素朴に考えたからだった。


 護郎はイヨのいる村から離れ、十四歳の時に少年戦車兵として帝国陸軍に入営した。以後休むことなく猛烈な訓練を続け、ついに精鋭たる魔力戦車部隊の一員となった。


 その間、護郎はイヨのことを時折思い出し、彼女の奇妙な能力について考えることがあった。


 あの予言だが、能力というものではないだろう。帝国には超能力者部隊が存在するが、未来を予知する力など聞いたことがない。きっとイヨ姉さんには、何らかの直感が備わっていただけだろう。思えばあの時の相談も、戦車兵ならば死なないという予言を姉さんがしたのは、飛行機というものは必ず落ちるものだと彼女が思っていたからに違いない……


 そのイヨ姉さんが、なぜかこの島にいる。敵の潜水艦によって完全に孤立させられた、絶対国防圏の中核とは名ばかりの、張り子の虎のようなこの島に。護郎はそのことについて尋ねようとしたが、しかしイヨはその機先を制するように、彼に向って口を開いた。


「なんで私がこの島にいるのか、不思議でしょう? でも、不思議でもなんでもないのよ。実はね、護郎ちゃんが軍隊に行った後、父さんが死んじゃって……神社には新しい宮司さんが来ることになったんだけど、私、どうにもその人が気に入らなくてね。変な目で私を見てくるから……だから、思い切って内地から飛び出すことにしたの。ちょうど南洋本庁が神職補助員の募集をしていたから、それに応募したらすぐに通っちゃって。だからここに来たのよ。もう三年になるわ。この島に来た直後に戦争が始まったから」


 護郎はその言葉に驚いた。彼は少年戦車学校に入った後、一度として故郷に帰ったことがなかった。学校の教育方針は苛烈の一言で、迫りくる戦争のために休暇と休日を返上して少年たちに訓練を施していた。学校を終えるとすぐに彼は大陸の実戦部隊に配属されてしまったため、結局今日になるまで故郷について、時折両親から来る手紙を除いては何も知ることができないでいたのだった。


 イヨは、言葉を続けた。


「それにね、ここに来るのは父さんの願いでもあったのよ。父さんは亡くなる前から、『もう一度南の島に行ってみたい』とずっと言っていたの。前の戦争の時、軍艦に乗ってこのススペ島を占領する作戦に参加したことを、父さんはいつも懐かしんでいた。だから、父さんをここに連れてきてあげようと思って……お墓はあの村にあるけど、遺骨の一部はここに持ってきてあるわ。ほら、これよ。私のお守りにしているの」


 そう言うと、イヨは袂から小さな袋を取り出した。金糸で細かな刺繍が施された、紫に染められた絹の袋だった。そして、彼女は護郎を見てにっこりと笑った。


「戦争が激しくなったら、この島から出られなくなるのは分かっていたわ。でもね、私は何も怖くなかったの。だって、護郎ちゃんが戦車に乗って、この島に来てくれると予知できたから。今日この晩に護郎ちゃんがこの神社に来るのも、全部分かっていたのよ……」


 護郎は黙って彼女の言葉に耳を傾けていた。その間にも、彼の心の中にはある一つの問いが膨れ上がっていた。


 果たして、俺たちは敵に勝てるのだろうか? イヨ姉さんを守れるだろうか?


 しかし、彼はそれを口に出すことはなかった。訊いたところで何になる。もし負けるという予言をイヨがすれば、自分は帝国軍人としてそれを不快に思うだろうし、信じることもないだろう。だが、信じないとすればそれは幼い日のあの約束を破ることになる。


 ここは、訊かないでおくほうが良いのだ。彼は思いをぐっと胸の奥深くへ押し込むと、強いて明るい顔を作って、イヨに話しかけた。


「イヨ姉さんとここで会えて、本当に良かったよ。大丈夫、敵は全部俺たちの魔力戦車でやっつけるから。知ってますか、俺たちの魔力戦車は世界水準以上の非常に優秀な性能をしていて、開戦時には連合軍の戦車や装甲車を一方的に破壊したほどなんです。だから、敵が来ても一網打尽にして、海に蹴落としてやりますよ……」


 彼の言うところを聞きながら、イヨは静かに、しかしどこか壊れてしまいそうなほど繊細な笑みを浮かべていた。


 最後に、護郎は締めくくるように言った。


「イヨ姉さん、敵が来たらすぐに防空壕に避難してください。神社を守ろうだなんて考えちゃいけませんよ。敵は我が国の宗教なんて、邪教だとしか思ってないのですからね。良いですか、ここからほど近いタポチョ山には大きな洞窟があって、そこは地方人(※民間人のこと)が避難できるように整備されています。食料と水も備蓄されているんです。俺たちが敵をやっつけるまで、そこにいてください。大丈夫、必ず敵はやっつけますから……」


 しばらく、沈黙がその場に満ちた。ややあって、イヨが呟くように言った。


「護郎ちゃん、予知能力っていうのは、なんて残酷な力なのかしら。どんなに正確に未来を見通すことができても、誰にもそれを信じてもらえない。信じてくれる人がいたとしても、果たしてその未来を教えることが、その人にとって本当に幸せかどうか分からない。ほら、あなたは知ってるかしら、あのヘラスの神話のカッサンドラーを。彼女は絶対に的中する予言をする力がありながら、誰にもそれを信じてもらえないという呪いがかけられていた。私も、あるいはカッサンドラーなのかしらね。この南冥の世界にたった一人のカッサンドラー……」

「そんなことはない! 俺は、イヨ姉さんを信じてますよ!」


 半ば反射的に答えた護郎に対して、イヨは見る者を陶然とさせるような微笑みを返した。小説によく出てくる「ミステリアスな人物」というのは、こういう人のことを言うのかもしれないなと、護郎は場違いな感慨を抱いた。


 その晩、護郎は社務所に泊めてもらった。別の一室に布団を敷いてもらい、護郎はそこに疲れた身を休めた。イヨは、別室で寝るとのことだった。神社の宮司は所用でススペ島から八キロ離れたところに浮かぶテイニアン島へ出かけていて不在だった。


 まんじりともせず、護郎は夜を過ごした。ある予感に胸をときめかせ、いやそのようなことを望んではならないと思いつつ、彼は冴えた目を強いて閉じさせようと苦心した。


 彼がようやくまどろみの中に落ちそうになったその時、襖が音もなく開かれた。そこに立っているのは、どうやらイヨのようだった。彼女はそっと護郎が眠る布団に近寄ると、跪いた。


 イヨは、寝たふりをしている護郎の頭を優しくそっと撫でた。愛おしむように、また懐かしむように彼の頭を撫でるイヨの手は、熱を孕んだ南洋の夜の大気とは対照的に、どこまでもひんやりとしていた。


 護郎はその優しい愛撫によって、次第に意識が遠のいていくのを感じた。そして、完全に眠りに落ちる直前に、イヨ姉さんはきっと予知によって俺が寝ていないのを知っているのだろうな、と彼は思った。


「かわいい護郎ちゃん……大丈夫、護郎ちゃんはきっと生きて帰れるわ……でも、私は……」


 そんな言葉が、彼には聞こえたような気がした。



☆☆☆



 最後の逆襲は失敗した。ススペ島守備隊は壊滅的打撃を被り、戦闘能力を完全に喪失した。


 深夜、護郎は密林の中を彷徨っていた。仲間は他に三人しかいなかった。ボロボロになった軍服、破れかけた水筒、乾パンがいくつか入っているだけの雑嚢ざつのう。武器は銃剣と、戦車から取り外した機関銃が一丁。弾倉は二つのみ、弾は六十発しかない。


 急斜面を登ろうと、護郎は目の前の蔓草へと手を伸ばした。すると、何か大きくて重たいものが音を立てて滑り落ちてきた。すんでのところでそれを避けた護郎は、それが死体であることに気が付いた。頭と足を失い、既に腐敗して膨れ上がったその死体は、彼と同じ帝国陸軍の軍服を着ていた。


 彼は辺りを見渡した。薄い月明りに照らされたその森の中には、そこら中に死体が積み重なっていた。味方の死体もあれば、敵の死体もある。いずれも原型を留めているものはほとんどなく、一部白骨化しているものもあった。


 残っているのは、何人だろうか。護郎はぼんやりとそう考えた。つい数時間前に行われた最後の突撃で、生き残りは玉砕したに違いない。二万数千名の兵力が、わずか一週間ほどの戦闘で文字通りこの世から消滅したとは、最初から最後までその渦中に身を置いていた彼にしても信じられなかった。


 敵が上陸してきたのは一週間前のことだった。その朝、海上に日が昇るのと同時に、空を埋め尽くさんばかりの敵艦上機の大群がススペ島に襲い掛かった。敵機はガラパンの街に爆弾とロケット弾の雨を降らせ、飛行場周辺の対空火器を一掃し、海岸線のトーチカ群を破壊して回った。


 続いて、敵の艦隊が島周辺に押し寄せた。海は敵艦船に覆い尽くされており、あたかも艦船の中に海水がちらほらと姿を覗かせているかのようだった。堂々たる艦容をこれでもかと誇示しつつ、敵艦隊は島に大口径艦砲弾の雨を降らせた。戦艦と巡洋艦から放たれる無数の巨弾は、まさに鉄の暴風だった。海岸線の陣地と、隠蔽が不十分だった防御設備はすべて破壊された。


 苦心して作り上げた横穴の退避壕は、魔力戦車部隊を完全に守ってくれた。その中で護郎は、果たしてイヨ姉さんは無事に避難できただろうかと考えていた。聡明な彼女のことだから、きっとすぐに山の防空壕へ行ったに違いない……彼は気を落ち着けるために、むやみに煙草を吸った。


 島を舐め尽くさんばかりに入念に行われた艦砲射撃の後、敵は何百隻もの上陸用舟艇に乗って、島に殺到して来た。艦砲射撃から生き残り、海岸線を防備していた部隊は最後の一兵まで戦い、敵に出血を強いた後、打ち破られて脆くも全滅した。


 司令部は、即座に魔力戦車部隊に逆襲を命じた。戦車部隊指揮官の大佐は、これまで訓練を積んできた通り、薄暮に戦車部隊単独での攻撃を主張した。しかし司令部は、歩兵との共同攻撃をすべきであると反論した。議論の末、結局は司令部の主張が通った。


 護郎たちは口々に不満を漏らした。


「何を馬鹿な! 司令部は戦車の戦い方について何も知っちゃいないんだ!」

「これまで一緒に訓練もしたことがないのに、ぶっつけ本番で戦えるわけがない。歩兵は却って足手まといになるだけだ」

「それに、歩兵たちが集まるまでには夜中になっちまう。それまでには敵も防御を固めているだろう……」


 隊員たちの危惧は、現実のものとなった。魔力戦車部隊が、それぞれの車両に歩兵を数人ずつ乗せて出撃したのは、結局夜中の一時を回ってからのことだった。


 攻撃目標は、海岸近くのオレアイの村にある敵無線局、および敵砲兵陣地だった。参加兵力は、十五トン級の中戦車が二十両に、八トン級の軽戦車が十両。規模としてはこの戦争でも類を見ないほどの大部隊での戦車攻撃だったが、護郎たちは暗い予感をひしひしと覚えていた。必勝の信念と死の不安が、矛盾することなく彼らの心の中を満たしていた。


 魔力戦車は、排気管から青紫色のエーテル燃焼炎を吐き出しながら、二列縦隊で前進した。本来ならば、戦車部隊は二列横隊で前進するのが戦術的な常識であるのだが、密林に囲まれた狭い道路を進むには縦隊になるほかなかった。


 三十両にもなる大部隊の立てる走行音は、島中に響き渡るほど大きかった。護郎は、きっと敵はもうこちらの動きに気付いているだろうと、操縦席でレバーとフットペダルを休むことなく動かしながら思った。


 先頭を進む大佐の戦車が敵の前線に到達したその瞬間、敵陣から夜空へ向かって一斉に、数えきれないほどの照明弾が打ち上げられた。人工の銀河が島を照らし出した。昼間のように明るくなった戦場に、護郎たち戦車部隊は脇目も振らずに突入していった。


 敵はすでに対戦車砲と、歩兵用の小型対戦車火器を多数揚陸していた。装甲の薄い魔力戦車は次々と被弾して、弾薬が誘爆する紅蓮の炎と、混合濃縮エーテル液が爆発する青紫色の炎を活火山のように噴き上げた。それでも鍛え抜かれた戦車兵たちは敵の火点を捕捉し、正確に射撃を加え、一線、また一線と、味方の損害に構わず敵の陣地を踏み越えていった。


 護郎が操縦する軽戦車は、いつしか孤立していた。戦車長は「前へ! 前へ!」と連呼しながら、さかんに砲を操作して敵に射弾を送り込んでいる。護郎の隣に座る機銃手も、手当たり次第に敵兵に向かって銃弾を撃ちまくっていた。


 すると突然、彼の戦車に大きな衝撃が走り、数秒後には車内に焦げたような臭いが満ち溢れた。戦車長が絶叫した。


「機関部に被弾した! このままだと爆発するぞ! みんな脱出するんだ!」


 護郎はハッチを開けて、転がり落ちるようにして車外へ出た。機銃手も脱出しており、手には取り外した機関銃を持っている。戦車長は最後に車外へ出て来たが、彼は腰に提げた軍刀を抜くと、それを上段に掲げて、敵陣へ向かってまっしぐらに突撃していった。


 隣を見ると、そこには中戦車が疾走していた。見る間にその戦車は敵の集中砲火を浴びて、搭載していた弾薬が爆発し、砲塔を空中へ高々と吹き飛ばされた。弾け飛んだ機関銃弾がぴゅんぴゅんとどこか滑稽な音を立てている。エーテルが燃える甘い臭いが護郎の鼻をついた。


 突撃していった戦車長に続こうと、護郎は伏せていた地面から起き上がろうとした。そこを、機銃手に止められた。


「作戦は失敗だ! このままだと犬死にになる! ここはいったん本部まで後退して、また新しい戦車に乗ろう! 予備車両がまだいくつかあったはずだ……」


 護郎は素早く考え、そして同意した。彼ら二人は時折現れる敵兵に向けて機関銃で応射しつつ、元来た道をじりじりと退却していった。無事に出撃地点に帰り着いた時には、既に夜は明けていた。


 戦場には、三十両の戦車の残骸が残された。爆発し、燃え尽き、燻ぶっている、鋼鉄の巨獣の亡骸。反撃は完全なる失敗に終わったのだった。出撃した人員百余名のうち、生きて帰って来たのは三分の一に満たなかった。指揮官の大佐も帰ってこなかった。


 それから二日後に護郎は、予備の軽戦車に乗って、仲間の八両と共に再度出撃した。だが、この攻撃も不成功に終わった。その頃になると敵は大量の戦車と野砲を陸揚げしていて、濃密な火力組織を構築していた。もはや数両の軽戦車でどうにかなる戦局ではなかった。


 車両を失った戦車部隊の隊員たちは、武器を持って密林に入り、二週間近く歩兵として戦った。護郎も機関銃を手にして、敵の歩兵と撃ち合いをした。


 初めて敵兵を撃ち殺した時、彼の心はまったく高揚しなかった。残り少なくなっている煙草に火を点けて一服しても、まったく美味くない。ここに来た時は、敵を殺したらさぞ格別な味がするだろうなどと、考えていたっけ……護郎は自嘲の笑みを浮かべた。


 徐々に戦線は縮小し、最終的にススペ島最高峰であるタポチョ山に守備隊は追い詰められていた。司令部は、もはやこれ以上の抗戦は不可能であると判断し、残存兵に最後の突撃を命令した。帝国陸軍は降伏を認めていない。敗北とは、すなわち玉砕を意味する。


 それは突撃ではなく、敵の手を借りた集団自殺だった。無論、護郎たちもそれに参加することになった。彼は、祖国から与えられた使命を果たせなかった以上、死んでお詫びするのが帝国軍人に相応しい最期だと思っていた。


 そのように覚悟していた護郎だったが、それでもイヨのことを考えずにはいられなかった。まだ彼女は生きているのだろうか。ここに来るまでの森の中で、一般住民たちの死体もたくさん見た。敵は見境なく殺しまくっている……もし本当に彼女に予知能力があるのだとしたら、あるいは、生きているかもしれないが……


 そうだ、祖国に詫びるのではない。第一に詫びねばならないのは、イヨ姉さんに対してだ。彼は頭を振って、考えを改めた。


 しかし、護郎は突撃に参加しなかった。集合した時、司令部の参謀が思い出したかのように「戦車部隊の生き残りはいるか」と声を上げた。彼と、他に五、六人ほどの仲間がそれに答えると、参謀は驚きの表情を浮かべ、次に、わざとらしく呆れたように言った。


「なんだ、それっぽっちしか残ってないのか……お前たち、ここに残って陣地を守っておけ」


 それが参謀の恩情であることに、護郎たちはすぐに気付いた。呆然とする護郎たちを置いて、傷ついた兵たちは足を引き摺りつつ、あるいは杖をつきながら出撃していった。空っぽになった陣地で護郎たちはしばらく相談をし、山で可能な限り遊撃戦をすることにした。


 最後の突撃は、敵に察知されていた。夜が明けた頃には、兵士五百名分の肉塊と骨片が戦場を覆っていた。総司令官とその幕僚たちは、夜が明ける前に自刃して果てていた。


 ススペ島守備隊は玉砕した。戦闘は掃討戦の局面に移行した。(続く)

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