第6話 南冥のカッサンドラー(1/3)

 その島にいる限り、だるような暑熱と湿気から逃れることはできない。その日の天候も、残酷なまでに雲一つない快晴だった。


 島の各所から、爆発音が連続している。爆発音は鬱蒼とした密林に木霊し、次第に吸い込まれていく。音が消えようとするその次の瞬間には、また新たな音が生まれる。密林に棲む動物や鳥たちは、当初こそ驚き慌てたが、既に爆発音に慣れ、まどろみを貪っている。


 爆発音は、石灰岩で構成された島の地面に穴を穿つための発破の音だった。ツルハシやスコップを人間の膂力りょりょくで振り下ろすだけでは、この島の硬い岩の大地に工事を施すことはできない。火薬の力に頼ることなしに、それを完遂することは不可能だった。


 何しろ、総数二万数千名にもなる将兵をまるごと収容するための陣地を作り上げようというのだ。それは全島を要塞化することを意味した。


 午前の最後の発破が終わったその時、護郎ごろうは、濛々と巻き上がる土煙を見やりつつ、額に流れる汗を手で拭った。彼は刈り込まれた黒い髪の上に略帽を被り、伍長の襟章が付いた薄手の生地の防暑衣に身を包んでいた。彼はやや小柄で、同僚たちと比べると頭一つ分背が低かった。


 それでも際立っていたのは、護郎の目つきだった。それは、その体格に比して異様なまでに鋭かった。いや、彼だけではない。彼の周りにいる同僚たちも、同じように烈しい光を放つ目を持っていた。軍人という種族だけが持ち得る眼光だった。


 発破の煙が晴れた時、そこには大きな横穴が出来上がっていた。山腹に整然と並んだいくつもの横穴は、中から地虫が這い出てくるのではないかと思われるほど、どこか艶めかしかった。


 護郎の隣にいた中隊長はそれらを眺めつつ、煙草に火を点けて悠然と一服してから、満足げに言った。


「よし、これで最低限の退避壕は出来上がったというわけだ。これで俺たちの戦車を艦砲射撃と空襲から守れるだろう。まったく、最初にこの島に来た時はどうしたものかと思ったが……」


 護郎は後方に目をやった。そこには彼の部隊が装備する魔力戦車が、これから観閲を受けるかのように、規則正しい間隔を置いて並べられていた。濃緑色を基調とした、黄土色や茶色の帯で細かな迷彩塗装が施された魔力戦車は、ちょうど中天に差し掛かろうとする太陽の凶暴な光を受けて、鈍い輝きを放っている。


 壮観だ。護郎はそう思った。流石は帝国陸軍の最精鋭部隊である、俺たちの魔力戦車部隊。これだけの数がいて、これだけの優秀な乗員が揃っていれば、必ずや敵と面白い戦争ができるだろう。


 そうでなければ、あの酷寒の大地から、わざわざこのような南の海の果てに来た甲斐がない。護郎も中隊長に倣って、煙草に火を点けた。一仕事を終えた後の一服はやはり美味く感じられた。敵を倒した後ならば、きっと格別な味わいがあるだろう……護郎はまだ、敵と戦ったことがなかった。


 護郎が煙草の煙を吐き出していると、中隊長が軽やかな身のこなしで戦車の上に跳び上がり、腰に両手をやって、自らの部下たちに声をかけた。


「よし、これより昼食。午後は出来上がった壕に早速戦車を入れるぞ。細かな作業は残っているが、とりあえずそれで作業は一段落だ。夜は外出を許可する。久々にガラパンの街で遊んで来い。だがくれぐれも、伝統ある帝国の戦車部隊の名誉に傷をつけるような真似はしないように……」


 外出という言葉を聞いて、隊員たちの間に喜びの気配が満ちた。「ビールを飲むぞ」「酒の後は女だ」という声が口々に発せられる。しかし護郎は、あまり面白いとも思わなかった。彼はまだ未成年で酒が飲めなかったし、女にも興味はなかった。


 夜はどのように過ごそうか。彼は自分が、仲間たちが出払って空っぽになった宿舎の中でひっそりと、アンペラで編まれた寝床に横になって時間を潰している光景を想像した。そして、それならばいっそ街に出て、酒は飲めないにしても、歓楽街が発する悦楽の空気を味わってみようかと思った。


 本当は、思う存分戦車を乗り回したいのだが。護郎はまた汗を拭うと略帽を被り直し、仲間たちと共に食事へ向かった。



☆☆☆


 

 帝国首都から二千四百キロ離れた南の大洋に、この世から見捨てられたようにひっそりと浮かんでいるその島の名前は、ススペ島という。帝国の南洋委任統治領レウコネシア諸島の中でも最大の面積を誇るススペ島は、サトウキビ生産の一大拠点であるだけではなく、他の委任統治領の島々との交易の中継地点でもあった。


 極彩色の花々に、樹々から零れんばかりに実る甘味豊かな果実の数々。極楽鳥に小さなサルに野ブタたち。年間を通して変わらぬ酷暑と、日に数回訪れる肌を刺すような激しいスコールを除けば、ススペ島はこの世の楽園と言っても良かった。


 その島の状況が一変したのは、その年に入ってからだった。


 戦局は悪化していた。帝国が、大洋の向こう側にある巨大民主主義国家に奇襲攻撃を加え、華々しい戦果と共に開戦の狼煙を上げたのが既に三年前だった。敵は緒戦での大損害から次第に立ち直り、今では大艦隊を整備して、次々と南洋の島々を帝国から奪い取っていた。帝国側の守備隊は例外なく全滅し、世界最強を誇った海軍はじりじりとその保有戦力を失い続けている。


 ススペ島を奪われれば、帝国本土は直接攻撃に晒される。島を奪われ、飛行場を占領されれば、そこに大型爆撃機が配備されることになる。爆撃機は大編隊を組んで帝国の中枢を直撃し、経済・工業地帯を焼き払い、戦争遂行能力を根絶させるだろう。


 帝国の最高指導部は以前よりその可能性に気付いてはいたが、対応は後手後手に回っていた。ようやくススペ島を絶対国防圏の最重要拠点とし、決戦のため戦力と資材を大量に送り込むことを決定したのが、その年の二月になってからだった。


 既に六月になろうとしている。敵はすぐそこまで迫っており、今は息を潜めているかのように大規模な活動こそ見せていないが、おそらく一ヵ月も待たずしてススペ島に来寇らいこうするものと予測された。


 それに対して、ススペ島の防衛体制は充分とは言えなかった。兵力の頭数はなんとか揃えることができ、島に二万数千もの兵員を送りこんだが、防御陣地の設営は遅々として進まなかった。武器弾薬の備蓄も充分ではなく、また燃料も少なく、陸戦の要である魔法生物兵器に至っては一頭たりとも配備されていなかった。


 それというのも、輸送船が片っ端から攻撃され、沈められたからだった。海は既に敵の手に落ちていた。穏やかな海面の下には、暗く冷徹な殺意を秘めた潜水艦が群れをなしており、一撃必殺の魚雷を磨きつつ獲物を待ち構えていた。


 護郎が所属する戦車部隊は、一番幸運な部類に属していた。彼らはもともと大陸の酷寒地帯で国境線を守っていたのだが、急遽ススペ島を防衛するために南洋に送り込まれることになった。輸送船の乗員たちは護郎たちに向かって盛んに潜水艦の脅威を吹聴し、「沈められた時は急いで船から離れろ、渦に巻き込まれて死んでしまうぞ」などと言っていたが、幸いにも彼らの船団は一隻の損害も出さなかった。


 島に到着し、五十両あまりの魔力戦車部隊は港からガラパンの街の中心部へ堂々の分列行進を行った。それを眺める将兵と一般住民たちの目には、歓喜の色が滲み出ていた。戦車の操縦席からその様子を見た護郎は誇らしさで胸が一杯になったが、戦車長が言った言葉に愕然とした。


「あーあー。こんなに喜ばれるとはなぁ。責任は重大だぞ。聞けば、輸送船が沈められて魔法生物兵器は全部コンテナごと海の底らしいし、重砲も半分しか届かなかったらしい。弾薬も濃縮混合エーテル液もこっちには全然備蓄がないとか……今や俺たちがこの島の中核戦力というわけだ」


 このまま敵を迎え撃って、果たして敵を海に追い落とすことができるのか。不安げに呟く戦車長に、護郎は内心で軽く苛立ちを覚えた。なんの、俺たちは帝国陸軍の精鋭だ。兵器や物資がなくとも、敵を撃滅することなど容易いことだ。そのために訓練を積み、ここまで腕を磨いてきたのだから……


 そんな護郎を待っていたのが、穴掘りだった。戦車部隊には優先的に工事用の資材が割り当てられ、作業は順調に進んだが、そのために時間を割かれてしまい、魔力戦車を乗り回すことはまったくできなかった。そもそも燃料がなかった。部隊全体で演習を行ったことなど、上陸後一週間目に一回行ったきりで、実弾射撃訓練もしていない。


 徐々に護郎も、薄い不安を覚え始めていた。このままで良いのだろうか。敵が来た時、存分に戦えるのだろうか。落ち着かない気持ちを紛らわせるために、彼は毎晩ひそかに宿舎を抜け出し、自分の戦車の中に入って、レバーとフットペダルに手足を添えるのだった。


 敵が来たら俺の戦車で踏み潰してやる。逃げ惑う敵兵を追い伏せ、追い散らし、機関銃で薙ぎ払って、砲弾を撃ち込み……そんなことを妄想するのが、彼にとっての一番の慰めとなっていた。



☆☆☆



 午後、壕は無事に完成した。護郎たちは横穴に収められた魔力戦車の点検と整備を手早く終えた。そして彼らは待ちかねたと言わんばかりに、油とエーテル液で汚れた軍服を着たまま、ススペ島最大の街ガラパンへと、夕暮れの迫る空の下トラックに乗って繰り出した。


 トラックは荒々しい運転で、凸凹道をひた走った。揺れる荷台の上で、護郎の向かい側に座っていた軍曹が、思い出したように口を開いた。


「なあ、みんな、知ってるか? この島の神社にはすげえ美人がいるらしいぞ」


 その言葉を聞いて、仲間たちの視線が軍曹に集まった。誰かが言った。


「へえ、美人か。それはちゃんとした帝国人だろうな? 現地人ではなくて」


 軍曹はにやりと笑みを浮かべて答えた。


「そうらしい。ガラパンの街の外れの小山の上にある、素須辺香取神社すすぺかとりじんじゃで巫女をやってるらしいんだが、とにかく目の覚めるような女だって話だ」

「ふーん、一度お目にかかりたいものだな。こっちにきてからというもの綺麗な女をまったく見ていない。南の楽園と聞いていたのに、落胆していたところだ」


 溜息まじりの誰かの言葉に、軍曹はやれやれというふうに頭を振った。


「それがな、その巫女を見た奴は誰もいないって話なんだ。島民たちはよく知っているらしいんだが、兵隊たちでその女を見た奴は誰もいない。どうやらここ最近、ずっと神社の奥に籠っているらしい」

「そりゃまた奇妙だな。どういうことだ」

「分からん。まあ巫女だからな。宮司と一緒に戦勝祈願でもしてくれているんじゃないか。まあとにかく、会いに行っても無駄足だろう。それに、街には他に女もいる。まずは酒でも飲んで、それから女たちのところに行こうじゃないか……」


 その話を横から聞いていた護郎の心の中に、ふとある記憶が蘇った。


 故郷のお姉さん、あの村の外れの森の中にひっそりと建っていた神社で巫女をしていたお姉さん、彼女は元気だろうか。俺が少年戦車兵として軍隊に入る時も、あの人はそっと手を握って静かに励ましの言葉を投げかけてくれたっけ……


 護郎が思い出に浸っている間に、トラックはガラパンの街に到着していた。今回の外出は、外泊が許されている。集合は明朝七時だった。仲間たちは二人連れ、三人連れになり、思い思いにそれぞれが目指す店へ向かって歩いていった。面倒見の良い快活な性格の、中隊長車の砲手を務めている曹長が、護郎に「一緒に行かないか」と誘いの言葉をかけた。しかし護郎はそれを断った。


 彼の足は自然と、街の外れへと向かっていた。先ほど車内で軍曹が言っていた、素須辺香取神社。あそこへ行ってみたいと思った。確固たる目的があって行くわけではないが、飲めない酒を無理に飲んだりするよりは意味があることだろう。幼い日の記憶を少しでも取り戻せば、日頃の単調な作業で疲れ切った心を少しでも癒せるかもしれない。


 護郎は道中で何回か住民に道のりを尋ねつつ、神社へ向かって歩を進めていった。急な階段を登り、ようやく朱色の鳥居の前に立った時には、既に日は完全に海へと没し、夜空には真円に近い大きな月と、煌めく星々が強烈なまでの輝きを放ち始めていた。


 彼を除いて、周りには誰もいない。遠くの方から、歓楽街のにぎやかな音が聞こえてくる。神社の社殿は樹々の中で、暗く不明瞭なシルエットをぼんやりと浮かび上がらせていた。


 辺りを見回して、護郎は胸の中が何やら温かいもので満たされるのを感じた。南の島の神社ということだから、その外見と雰囲気は内地のそれとは異なっているだろうと彼は予想していたが、この神社は内地のそれとさほど変わらない。懐かしい内地の湿り気を帯びた空気が、彼の乾いた心に幾分かの潤いを与えたようだった。


 手水鉢で手と口を清めた後、護郎は略帽を小脇に抱えつつ、恭しい態度で参道を進んだ。拝殿の前で歩みを止め、賽銭箱に五銭銅貨を投げ入れると、彼は二回礼をし、二回拍手をして、一瞬「何を祈願しようか」と考えたが、即座に戦いに勝つことと敵軍撃滅のことを祈り、そしてまた頭を下げた。


 その時、彼は背後に誰かの気配を感じた。振り向こうとした瞬間、声がかけられた。それは懐かしい、聞き覚えのある声だった。


「……護郎ちゃん? あなたは、護郎ちゃんよね?」


 振り向き、その声の主に顔を合わせた瞬間、護郎の心臓は早鐘を打った。彼の目の前で静謐な雰囲気を纏いつつ立っている女性は、記憶の中の姿そのままだった。流れるような、美しい長い黒髪が夜風に軽く靡いている。白い小袖に緋袴を着用した、女性にしてはやや長身の、ほっそりとした優美な肢体。どこか眠たげな、しかし深い知性と慈しみを感じさせる目が印象的な、怜悧な顔立ち。


 まさか、いや、しかし……この人は……護郎の思考は素早く働いた。


「まさか……イヨ姉さん?」


 かすれ声でなされたその問い掛けに、イヨと呼ばれた女性は笑みを浮かべた。彼女はしずしずと音を立てずに護郎の傍へ歩み寄ると、頭を下げてから、おもむろに口を開いた。


「うふふ、やっぱり、護郎ちゃんね。ここに来てくれると『分かっていた』わ。ねえ、せっかく会えたのにここでお話をするのも面白くないし、社務所の方へ行きましょう。積もる話もあるでしょうし……」


 数分も経たずに社務所に二人は着いた。護郎とイヨは一室で向かい合って正座をしていた。社務所は住居も兼ねているようで、床には畳が敷かれていた。黄色い電灯の光が、畳の薄緑色の表面を照らしている。護郎は久々の畳の感触を味わうこともなく、目の前のイヨを呆然と見つめていた。


 護郎は、イヨの肌の白さに見とれていた。きめの細かい、透き通るような白い肌は、この南国においては酷く場違いで、美しすぎるもののように思われた。この島に来た人間は例外なく真っ黒に日焼けするものだが、イヨはどういう手段によるものか、日差しを避けることができているようだった。


 しばらく、二人は何も話さなかった。弱弱しい電灯に一匹の蛾が体当たりを繰り返す音だけが、部屋の中に響いていた。


 静けさに堪えかねたように、護郎が先に言葉を発した。


「こんな南の島でイヨ姉さんに会えるとは思いませんでした。てっきり、故郷の足柄県あしがらけんの神社にまだいるものと……」


 そう言う護郎を、イヨは穏やかな目つきで見つめていた。


「あら、私は護郎ちゃんとここで会えると『知っていた』わ。だから私は別に驚かない。でも、会えて嬉しいのは確かだけどね」


 護郎はその彼女の言葉に、少しばかり眉をひそめた。


「姉さん、その『知っている』というのは、また例のアレですか」

「ええ、その通りよ。私の『予知』能力」


 イヨはクスクスと笑った。そんな彼女の様子を見て、護郎の眉間の皺の険しさが更に増した。


 この人は、まだそんなことを信じているのか。自分に予知能力があるということを……(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る