第3話 魔族少女のリデンプション(1/4)

 火崎ひざきリツが守備隊参謀に連れられて向かったその建物は、山の中腹にあった。かつて食糧庫として使用されていた建物は、鉄筋コンクリート製の堅牢な造りをしている。潮風と日差しによって退色しているが、濃緑色をした帯状の迷彩模様は遠くからでもはっきりと目にすることができた。


 その日も猛暑だった。ちょうど昼過ぎで、凶悪な太陽光は空高くから何はばかることなく島に降り注いでいる。揺らめく陽炎の中には鳥の影すら見えず、ただ、波の音と唱和するようにセミの鳴き声だけが響いていた。


 建物までの道は一キロにも満たない。だが、通い慣れたはずのその短い道が、今のリツにとっては非常に長く感じられた。暑さのせいばかりではなかった。それは彼女の内心でうごめく、単なるざわめきというにはやや激し過ぎる、のたうつような葛藤のせいだった。


 リツはまだ若かった。数か月前に十七歳になったばかりだった。小作りな顔、澄んだ赤い瞳と涼し気な印象を与える高く細い鼻梁、桜色の唇。それらは彼女が成熟した際に醸し出すであろう、魔族特有の妖艶さと美しさを暗示していた。それでも、彼女の短く切った藍色の髪の中から生えている、水牛のような尖った二本の角は未だに伸び切っていなかった。


 リツの隣を行く参謀が、ふと歩みを止めた。ちょうどそこには、青々と葉を繫らせた一本の木が、大きな黒い影を作っていた。参謀は豊かに盛り上がった胸元から銀のシガレットケースを取り出すと、その島ではすでに貴重品となっている、真っ白で真っ直ぐな煙草を二本抜き取った。


 参謀は一本を咥えて火を点け、もう一本をリツに向かって差し出した。ふっと紫煙を吐き出すと、参謀は、知的な艶のある声で言った。


「火崎、ちょっと休憩しようじゃないか。こう暑くてはやり切れん」


 吐き出された煙が炎熱の如き大気へと細く溶けていく。リツは煙草を好まなかったが、恭しい態度で参謀からそれを受け取った。一滴の大粒の汗が巻紙に落ち、黒い点を作ったが、しかしそれもすぐに乾燥して消えてしまった。


 ぎこちない手つきで煙草を吸うリツを、参謀は目を細めて眺めていた。額から生えている一本の長い黒い角が、日差しを反射して輝いている。


「火崎、お前はあまり煙草を吸わないのか」

「はい、父が『煙草は吸うな』と」

「そうか、父の言葉か……」


 しばらく、沈黙が辺りを包んだ。リツは、頭の角と腰から提げた軍刀が、いやに重く感じられた。煙草のまとわりつくような煙と香りのせいも相まって、彼女は自分の意識が、暑熱の中へと溶けていくかのような錯覚に捉われていた。


 どうにも、ここが現実の世界とは思えない。リツはぼんやりとそう感じた。この島に来てから、いや、そもそもあの事件が起きた時から、ずっと夢を見ているような気がしている。息苦しくて、蒸し暑い、焦点の定まらない夢。自分ではない自分が勝手に動いているのを、どこか遠くから、なす術もなく眺めているような感覚……


「それにしても火崎、あの時はお手柄だったじゃないか。敵機撃墜とはな」


 突然耳に飛び込んできた参謀の声に、リツの意識は現世へと引き戻された。指に挟んでいる煙草から、細長い灰が地面へと零れ落ちていくのが見えた。彼女は、反射的に姿勢を正すと、参謀に答えた。


「はい、ありがとうございます」


 リツの返事に、参謀は軽く頷いた。そして、短くなった煙草を道の脇に無造作に投げ捨てると、リツに向かって先へ進むよう顎で示した。二人はまた激しい陽光を浴びながら、建物へ向かって歩き始めた。


 参謀は独り言のように、リツに向かって口を開いた。


「……尋問によると、あの艦上機は空母『龍驤りゅうじょう』から発艦したらしい。龍驤と言えば開戦時にこちらの軍港を奇襲した艦だし、三月の市街地大空襲でも主力を担っている。お前は間接的にその仇を討ったことになるな」

「はい」


 何を今更、そのような分かり切ったことを言うのだろう。内心そう思いつつ、ごく簡潔な返答をするリツに、参謀は振り返ることもなく言葉を続けた。


「嬉しいだろう、この監獄のような島から抜け出せる機会を得て。ようやく『流刑るけい』もおしまいというわけだ」


 リツは一瞬、返答を躊躇った。その次に口から出て来たのは、ごく当たり障りのない言葉だった。


「いえ、敵機を撃ち落としたのは嬉しく思いますが、御奉公の機会を失うのは残念なことです」


 参謀はにやりと笑みを浮かべた。いつの間にか、二人は山の麓に辿り着いていた。


「はは、健気なことだな。それでこそ私の姪だ。まあそれも、しっかりと『アレ』を果たしてからのことだが……どうだ、斬れそうか?」


 その問いは、予想出来ていた。リツは今度こそ、はっきりと即答することができた。


「はい、斬ります」


 見張り所に立っている、機関短銃を抱えた哨兵が敬礼した。それに軽く手を上げて応えつつ、参謀はリツに向かって頷いた。


「そうだ、その意気だ。その意気さえあればいつも通り、問題なく斬れるだろう。それに、斬ってもらわなければこちらがお膳立てしてやった意味がない。お前は、この島から出なければならないのだからな……」


 急な斜面を数分間登った後、二人は建物の中に入った。建物の中は薄暗く、茹だるような湿気がこもっていた。見張りの兵の「異常ありません」という言葉を後目に、二人は奥まった一室へと足を踏み入れた。


 その部屋の中央部には、一つの金属製の大きな檻があった。猛獣を捕らえるのに用いる、非人間性の象徴のような檻だった。その中には一人の男が座り込んでいた。汗で黄ばんだシャツに、破れかかった茶色の飛行ズボンを履いている。血の滲んだ包帯が巻かれた黒髪の頭に、角は生えていない。ちょうど食事を終えたところのようで、盆の上の椀と皿には何も入っていなかった。


 俯いていた男は、参謀とリツが部屋に入った音を聞いて顔を上げた。リツを見て、男は薄く驚きの表情を浮かべた。


 心もち胸を逸らせた参謀が、眼光も鋭く、冷たく言い放った。


梨本なしもと少佐、貴官の処刑が決まった。斬るのは、ここにいる火崎リツだ。処刑は三日後の払暁ふつぎょう。それまでにせいぜい覚悟をしておくことだ」


 言葉を聞いて、男はその両目を大きく見開くと、ぶるっと体を震わせた。しかし数秒後には元の平静さを取り戻して、今度はリツを見つめ始めた。


 黒い、濁り一つない綺麗な瞳だった。リツは思わず顔を背けたくなるのを必死にこらえた。


 男は視線を逸らすことなく、リツに向かって口を開いた。


「そうか、君が私を斬るのか。少し残念な気がしないでもないが、君に斬られるのならば文句はない。君は私が得た、最後の友人だからな」


 友人という言葉を聞いて、参謀はリツに怪訝そうな顔を向けた。リツは即座に言った。


「お前は私の友人ではない。お前は敵で、ただの捕虜だ」


 男は、何かを察したように頷いた。


「そう……そうだったな。私は捕虜で、君は敵だ。そう、それだけの関係だった。ここではそう言っておこう。ところで参謀殿、煙草をもらえないか。重大なことを聞かされたせいか、どうにも今だけは、吸いたい気持ちが抑えられなくてね……」


 参謀が火を点けた煙草を檻の隙間から差し込むのを見ながら、リツはぼんやりと思考を巡らせていた。そうだ、彼の言うとおりだ。彼は捕虜で、私は彼の敵。これが正常な関係なのだ。やましいところは何もない。軍律に則って処刑するだけだ。


 だから、いつもと同じように、問題なく斬ることができるはずだ。言い聞かせるように、リツは腰の軍刀のつかをそっと撫でた。



☆☆☆



 その島の名前は多禰島たねじまという。筑紫国つくしこく本島から南方へ百キロほど離れた海上に位置する多禰島は、漁業と小規模な農業の他にさしたる産業もない、小さな平凡な島だったが、しかし古くから罪人の流刑地として知られていた。


 重犯罪者や政治犯が船で送り込まれ、監視を受けながらひっそりと一生を終えるという、それだけの島だった。近代に入って流刑そのものが廃止されてからは、それも歴史の一幕でしかなかった。そんな島がにわかに重要性を増したのは、戦争が始まってからだった。


 敵は、宣戦布告と同時に筑紫国に攻撃を加えた。神籠島かごしま湾の軍港を空母機動部隊で以て奇襲攻撃した敵は、筑紫国の主力艦三隻を瞬く間に葬り去り、その勢いのままに上陸部隊を繰り出してきた。


 凄惨な地上戦が各地で繰り広げられた。それは、絶滅戦争の様相を呈していた。敵は、筑紫国の人間を「魔族」と呼んだ。頭に角を生やし、魔力を持ち、強靭な肉体を持つ住民たちは、敵にとって同じ人間ではなかった。姿形は異なれど、古くから相互に交流を持ち、同じ言語と風習を有し、共に歴史を育んできたという文化的な背景は、まったく無視された。男は言うに及ばず、老幼婦女子の別なく、敵は徹底的な殺戮を行った。


 海上での戦いでは遅れをとった筑紫国だったが、地上戦では辛くも拮抗状態へと持ち込むことができた。元来が肉体的能力に秀でた種族でもあった。敵は火力において優越していたが、筑紫国の魔族たちはそれをものともせずに接近戦を挑み、白兵戦で敵を圧倒した。


 敵は海に追い落とされ、それ以降は新たなる兵力を上陸させることもなかった。敵は艦艇と航空機によって筑紫国を包囲し、じわじわと締め上げる作戦に切り替えた。


 ここに至って多禰島たねじまは要塞となった。飛行場が整備され、レーダー基地も設置された。沿岸を警備する駆潜艇と小型潜航艇の補給拠点となり、防衛のための陸上兵力も増強された。


 敵の爆撃によって連日のように死傷者が続出する多禰島であったが、しかしこの島で任務に就くことを望む者は男女問わず多かった。特に、女性の志願者が多かった。それはとりもなおさず、この島が最前線であるからだった。この島に来れば、憎き敵に一矢を報いることができる。たとえ自分は死ぬかもしれないが、親兄弟を焼き殺した敵を道連れにできる可能性がある。


 だが、火崎リツがこの島に来たのは志願してのことではなかった。彼女は、昔の罪人のように、この島に流されてきたのだった。


 火崎家は代々、剣術によってその名を知られてきた家系だった。神籠島だけではなく、筑紫国本島全体に渡ってその名は轟いており、諸流派の全てを合わせて門下生は千名以上を数えた。リツの父はその一大派閥の当主であり、変幻自在の太刀筋と正確な間合いの読み方で、五百戦無敗の勇名を誇っていた。


 尚武の気風を尊ぶ筑紫国において、火崎家の社会的地位は高かった。リツの父は筑紫国最高指導者の個人的な剣術指南役を務めており、歩兵大佐の階級まで持っていた。神籠島かごしまにある広壮な屋敷には幾人もの使用人が立ち働いており、ガレージには何台もの外国製の自家用車がボディを鈍く光らせていた。


 毎日のように筑紫国の有力者や門下生たちが訪ねて来ては、こうべを垂れてリツの父に教えを乞う。リツはその光景を、誇らしげな顔をして眺めるのだった。


 しかしリツの父は、ある側面においてはそれまでの火崎家当主とは明確に異なっていた。それは彼が積極的に刑務所へ赴き、刑務官のみならず、犯罪者たちへも剣術の稽古をつけていたことだった。「剣によって悪心を断ち、剣によって善心を養う」という信念を持っていた彼は、道場よりもむしろ刑務所での指導のほうを好むほどだった。


 どのような罪を犯していても平等に、剣を学ぶ者として扱う。そのようなリツの父を、指導を受けた収監者たちは深く尊敬していた。出所した者たちは真っ先に火崎家の屋敷へと向かい、父に稽古を申し込むのが常だった。


 リツはたった一人の娘として何不自由なく暮らし、成長した。父から直接受ける剣術の稽古は厳しかったが、道場以外での父は優しく、愛情深かった。リツが欲しいと言ったものは必ず与えられ、行きたいと言った場所には必ず連れて行ってもらえた。彼女は、わがままというほどではなかったにせよ、恵まれた者にありがちな驕慢きょうまんを無意識のうちに心の中に宿しつつ、大きくなっていった。


 そして彼女自身、その驕慢に見合うほどの剣術の才能を有していた。同年代の中では負け知らずで、年上の男子に対してすら勝利を収めることもしばしばだった。


 彼女は相手の隙をつくことが上手かった。隙がなければ、それを作ることができた。彼女は生まれながらにそのような技巧を身につけているようだった。


 父はよく幼いリツを抱き上げると、「お前が男だったらなぁ」と溜息をついたものだった。リツの母は彼女がごく小さい頃に亡くなっており、父は後妻を娶ることがなかった。


 将来は、分家の男を婿として迎えることになるだろう。リツは、なんとなくそのように感じながらも、それに不満を持つことはなかった。それが天が自分に与えた運命なのだと、彼女は知っていた。(続く)

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