第2話 エーファの葬列(3/4)
彼女がそろそろ十七歳になろうかという、春の半ばのことだった。
状況の変化は、やはりエーファ自身の行動によってではなく、エーファの外部からもたらされた。ある日、彼女の小屋に一人の男がやって来た。男は十七歳で、キーアンという名だった。短い黒髪で、ややハンサムな顔立ちをしており、やせ型の体型だった。
彼は村においては例外的な存在で、エーファに対して中立的な態度を保持していた。悪童たちがエーファの小屋に石を投げるのを止めることはしないが、自分自身は石を掴んで投げることはしないという、そういう消極的な中立を示していた。
キーアンはエーファに会うなり開口一番、どこか浮ついた声で言った。
「エーファ、君は僕の妹だ」
驚くエーファに、彼は言葉を続けた。彼の母親がキーアンを胎内に宿している時、キーアンの父親はエーファの母親と関係を持ったのだと言う。父親にとっては単なる性欲の発散だったのだろうが、どういうわけかエーファの母親は彼に、一夜だけ体を許したようだった。
「父さんは村長の次男を嫌っていた。働きぶりが悪いと村のみんなの前で
キーアンの、つまりエーファの父親は、その後数年して死亡した。村から街へと収穫物を運ぶ途中で、盗賊に襲われたのだった。父親は少しだけ学があり、文字が書けたので、秘密の日記を残していた。そこにはエーファの母親との情交についても記録してあった。キーアンはそれを先日、家の中で発見し、読んで真相を知ったのだと言う。
キーアンは無邪気な顔をして、言葉を締めくくった。
「これからは僕のお家に一緒に住もう。僕と君は、兄妹なんだから」
エーファは言われるがままに居をキーアンの家に移した。それが自然の成り行きだと思ったからだった。キーアンが自分の兄だと明かされても、彼女は特に
しかし、家を移ってから状況は更に悪化した。キーアンの母親は、当然のことながらエーファに辛く当たった。キーアンは悪い人間ではなかったが、思慮が決定的に不足していた。エーファを家に連れてくるに当たり、馬鹿正直に全てを母親に打ち明けてしまったのだった。
キーアンの母親の目は、憎悪に歪んでいた。そんな母親にキーアンは意見をすることができなかった。来たその日に、エーファは半分崩れかけた物置小屋に押し込まれた。食事は、豚ですら敬遠するような粗末な食べ物が、数日に一回与えられるだけだった。キーアンが母親の目を盗んで運んでくる食べ物だけが、彼女の命を繋いでいた。
次第に、キーアンの母親は精神の均衡を欠いていった。元から夫を失ってより情緒が不安定だったのだが、この段階になってエーファという決定的な要因が遂にとどめを刺したようだった。母親は夜中になると裸足で外に飛び出し髪を振り乱して、狂ったように大声で、エーファが自身の夫と魔女との間に産まれた、不義の子であると言いふらすようになった。
そんなことが数週間続いた、ある夜のことだった。食事を運んできたキーアンが、決意を秘めた目つきをして、エーファに言った。
「エーファ、僕と一緒に村を出よう」
彼が言うには、村内でのエーファに対する悪感情は極限にまで達しており、ついに村長の一家までもが真相を知ってしまったらしい。村長一家は、次男に死をもたらしたのはエーファとその母であると、以前から憎しみの感情を隠さないでいた。そのエーファがキーアンの父の種によるものだと知って、今度はキーアン一家に対して憎悪を昂らせているというのだ。
「このままだと僕たちは村に居られなくなる。僕と一緒に村を出て、北の大きな街のベルファストへ行こう。ベルファストで船に乗って、海の向こうのササナの国へ行って、新しく人生を始めるんだ」
お母さんはどうするの? とエーファが尋ねると、キーアンは「置いていこう」とだけ言った。二人はその夜のうちに、密かに村を出た。道中の用意は、すでにキーアンが整えていた。
夜闇の中を走りながら、キーアンはエーファに言い聞かせた。
「これは君のためでもあるんだ。君はあの村で一生を過ごす存在じゃないんだ。新しい生活を始めて、楽しい毎日を過ごすべきなんだ」
その言葉を聞いても、エーファはあまり嬉しいとも思わなかった。新しい生活などというものに、彼女は何ら期待していなかった。また、村から出たことに関しても、あまり喜びはなかった。彼女はただ、キーアンにそう言われたから村を出たに過ぎなかった。彼女を取り巻く状況を決定し、彼女の行動を方向付ける存在がキーアンだと思ったから、彼に付いていくことにしたのだ。
夜が明け、陽が昇り、また日没を迎えた。二人は休むことなく歩き続けた。結局、追っ手は来なかった。疲れ果てていた二人は、とある森の中で丸一日を休息に充て、また歩き始めた。ベルファストの街までは遠く、食料も金銭も足りなかったが、キーアンはどこか陽気な顔をしていた。
「大丈夫、食べ物とお金が無くなったら、どこかの村に行こう。そこでエーファの回復術を使って、代価として食べ物を得れば良い。ササナの国に行っても、エーファがいれば問題ないさ。君のお母さんだってそうやって生きて来たんだから、エーファにもきっとできるよ」
キーアンに頼られて、エーファは悪い気がしなかった。これまで誰かから、これほどの信頼を寄せられたことがあっただろうか? キーアンにとって、私は必要な存在なのだ。それは彼女が生れて初めて覚えた自尊心だった。
その高揚感の一方で、彼女は心のどこかで、キーアンは結局他の村人と何も変わらず、ただ自分を利用しているだけだとも、冷静に理解していた。
彼が村を出ようと決意したのも、彼がエーファと同じく村での蔑みの対象となり、これまでの生活が崩壊するのを怖れたからに過ぎない。エーファはその回復術ゆえに、どれだけ憎悪されたところで村から追い出されたり、殺害されたりする可能性は低かった。彼女はあのまま村にいても問題はなかったのだ。
それなのに彼女をキーアンが連れ出したのは、ただ単に、彼が孤独な逃避行を繰り広げるのを怖れたためであり、かつ、道中の糧を得るためだった。
そして、どうやらキーアンはそのことを、別に悪いことだとは思っていないようだった。彼は純粋に、自分自身が言った言葉を信じているらしい。そう、これはエーファのためなのだと。その証拠に、彼は道中で、何度もその言葉を繰り返した。
数日間歩き続け、二人は深い森と幅の広い河をいくつか越えた。ベルファストまでは、まだかなりの距離があった。
二人はある日の早朝、遂にあの草原へと足を踏み入れた。
草原を進むと、首無し騎士が突如として姿を現した。それを見た瞬間、キーアンは恐怖で全身を震わせ、一瞬の間に思考を巡らせたのか、それとも反射的だったのか、エーファを突き飛ばして逃げ出した。
囮にされたのだと気付いた時には、エーファの腹部に槍が突き刺さっていた。
果たして自分はそれほどまでに悲劇的な人生を送ったのか? 確かに悲劇だったかもしれないと、彼女は思った。生きていながら、生きているという実感が彼女にはまったくなかった。彼女は自分自身の力で状況を支配したことも、他者を動かしたこともなかった。言われるがままに、あるいは環境が要求するままに、彼女は生きただけだった。
生の実感を知っていれば、あるいはもう少しだけ人生は楽しかったのかもしれない。今となっては、すべては手遅れだが。
エーファが回想に耽っている間に、妖精たちの隊列は停止し、食事のために大休止に入った。
既に夜の
彼女の頭のすぐ傍で、緋色の裏地の黒いマントを羽織った隊長が、部下が運んできた食事を口にしていた。小さなテーブルの上に白い食器と銀のナイフとフォークが並べられている。従兵の給仕を受けつつ、隊長はバッタのバターソテーを切り分けて、黙々と口に運んでいた。時折、杯に注がれたツルコケモモの果実酒を飲んでいた。
そこへ、伝令が走って来た。伝令は隊長に、筒状の書類入れを手渡した。隊長はそれを開くと、中に入っていた数枚の紙を取り出して読み始めた。それは新聞だった。初め、隊長の表情は平静そのものだったが、次第に怒気を孕み、見る見るうちに顔が赤黒くなっていった。
ついに、尖った耳の先までもが真っ赤になった。隊長は副官を呼んで、全員を整列させるように命令した。食事を中断させられたにも拘わらず、妖精たちは一言も文句を言わなかった。彼らは隊長の前に隊列を作った。
隊長は語気鋭く、ほとんど絶叫するように言った。
「兵士諸君、私は実に嘆かわしい、実に呪わしいことをたった今知った。新聞によれば、この可哀想なエーファを置き去りにして逃げたキーアンは今や村に戻り、安全な家の中で暖衣飽食を貪っているとのことだ! キーアンは『自分はエーファに呪いを掛けられ、意に反して村を出ざるを得なかった。エーファは自分をササナの国に連れて行こうとした。逃げ出す機会を窺っていたところ、ちょうど首無しのバケモノが現れた。エーファがそれに襲われている間に、自分は逃げ出すことができた。自分は被害者だ。また、エーファは自分の母にも呪いを掛け、狂気に陥らせた。母が口走っていた言葉は、すべて事実無根だ。だが安心して欲しい、今や村から魔女は取り除かれたのだから』と言ったというではないか!」
そこまで言ってから、隊長は一旦言葉を切ると、腰のサーベルを引き抜いた。
「諸君! 我々は何としてでもエーファの死体を村へ運び、かのキーアンに思い知らさねばならない! 犯した罪の重さを、裏切り者に思い知らせるのだ! キーアンに裁きを下そう! そして、エーファの無念のほどを知らしめよう!」
妖精たちはそれに応えて、一斉に熱狂的な声を上げた。
エーファは、それを冷静な眼差しで眺めていた。キーアンはおそらく、自分が助かりたい一心で嘘をついたに違いない。妖精たちは何か勘違いをしていて、キーアンを極悪人だと思い込んでいるようだが、強いて自分を陥れようとして虚偽の報告をするほど、彼は性根が腐っているわけでもないだろう。彼女はそう思った。
その一方で、エーファは妖精たちに感謝にも似た気持ちを抱いていた。妖精たちはなぜか、自分のことを気の毒だと言い、自分のために葬列を組んでくれている。それには妖精独自の何らかの論理が働いているのだろう。それを抜きにしても、エーファは何か温かいもので心が満たされていくのを感じていた。
それは彼女が生きていた時にはついぞ味わうことのなかった、まったくの他者からの無償の善意だった。だが、彼女がそれに気付くことはなかった。
しかしながら、妖精たちが担架を担ぎ上げてまた行進を始めた時に、彼女の中に何か別の、冷ややかなものが芽生えた。
結局のところ、妖精たちもただ、憎んでいるキーアンを罰するために、自分を利用しているだけなのではないだろうか。
自分の死体をキーアンに見せつけることで、おそらくキーアンの精神は著しい打撃を受けるだろう。それは妖精たちにとって、これまでの労苦をすべて忘れるほどに、胸のすくような快事であるのに違いない。自分の死体はいわば、キーアンを傷つけるための武器なのだ。
それでも良い。彼女は思い直した。現在のところ、彼女の状況を決定づけているのは妖精たちだ。ならば、妖精たちに身を任せるのが一番なのだ。
死んだからといって、それまでの生き方を変える必要などどこにもないのだから。エーファはそう結論付けた。
いつの間にか、夜が明けていた。隊列は森から抜け出た。行く手にはなだらかな丘があった。
相変わらずの秩序正しい隊列、
「軍歌!」
妖精たちは歌い始めた。
「運べ、運べや、運ぼうよ。惨めなあの娘を運ぼうよ。
死にたくないのに命を落とし、温もり消えた可愛いあの娘。
村にいた時蔑まれ、癒しはすれども罵声が返り、
灰の混ざった残飯と、おが屑入りのスープを食べてた、
健気なあの娘を運ぼうよ。
そして、思い知らせてやろうじゃないか!
嘘つき、あの娘に濡れ衣着せた、極悪人のあの男!
許すな、許すな、許すまじ、あの男だけは許せない。
今は一人で幸せいっぱい、あの男だけは許せない!」
その瞬間、何かが空を切り裂く不気味な音を立てて、隊列の頭上に飛来した。一瞬後には、飛来物は閃光と轟音を発するのとほぼ同時に炸裂して、無数の破片を撒き散らした。
妖精たちは一斉に地面に伏せた。担架も地面に落ちた。エーファは固い衝撃を感じた。
その間にも、次々と何かが飛来してくる。傷つけられた大気が悲鳴を上げている。隊列の周囲で、爆発と閃光と爆音が連続した。土と泥が巻き上げられ、千切れた草が辺りを覆う。
口々に妖精たちが叫んだ。
「敵襲! 敵襲!」
「伏せろ、敵の砲撃だ!」
「担架を守れ! すぐに後退させろ!」
砲撃の中を妖精たちは駆けずり回った。エーファの目前で、一人の妖精が砲弾の爆発に巻き込まれ、無数の光の粒子となって散った。砂金のようなきらびやかさだった。
彼らの死は、人間である自分とは違って、ひどく美しい。混乱する意識の中で、エーファは純粋にその死の有様に見惚れていた。(続く)
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