13・1 泉の中のはずですが

 エドの手をしっかりと握り、顔を巡らせる。水の中にいる感覚はあって、動きは緩慢になる。衣服が重く体は動かしにくい。だけれど不思議と怖さはなかった。足をつけば立てそうな気はしたけれど、泉に身を任せる。


 わたくしたちは仰向けに並んで、水底みなそこに沈んだ。

 たゆたう水の動き、浮かぶ睡蓮の葉の裏側、柔らかい光、時おり現れる小魚。

 見ているだけで気持ちが落ち着く。クヴェレ様はこの泉で悪しきものを浄化すると仰っていたけれど、心を静める効果もあるみたい。


 心地良くなり目を閉じる。体がゆらゆらと揺れている。不思議な安心感。なんだか眠ってしまいそう。

 でも早く戻らないと、カトラリーたちが心配するかもしれない。


 だけど――



 ◇◇



『殿下』


 はっとして目を開く。声が聞こえたような気がする。エドを見る。彼の様子は変わらない。相変わらずつむっている目に苦しそうな顔。それに声は女性のものだった。スプーンのものとは違ったし、わたくしが自分で発したのだろうか。


『殿下』

『薔薇の殿下、お待ちになって』


 また声がした!

 違う声音で。一体どこから。


 周りを確認しようとして、人の姿に気がついた。古めかしいドレスと髪型の数人の女性たち。笑顔でこちらにやってくる。けれどその姿は半透明で、エドが見せる過去の出来事と同じようだった。


 目をつむる。


 でも彼女たちの姿は消えず、『殿下』との声もきこえる。それからするりと腕を組まれる感覚。仰天して目を開く。

『お話しましょう、殿下』と楽しそうな表情の女性がわたくしの腕にしがみついている。

『そうしたいのは山々だが、歴史の教師を待たせている』


 新しく聞こえた声に息をのんだ。この声は紛れもなくエドのものだ。


『いいではないですか』

『いつもサボっていらっしゃるでしょう』

『私たちとお話するほうが楽しいですよ』

『お勉強は王太子殿下に任せましょう』

 女性たち声に、エドの『そうだな』と答えるご機嫌な声が続く。


 ――これはもしかして、エドの過去? というよりは彼の記憶?


 エドを見る。半透明の女性たちの向こうに彼がいる。苦悶の表情が先ほどより和らいでいるみたいだ。


 嬌笑と共に幻が消えていく。

 動悸が激しい。

 わたくしはエドの過去を盗み見てしまったのかもしれない。

 どうしてこんなことが起きたのだろう。クヴェレ様のお力なのか。原因はわからないけれど、よくないことだ。泉の中の様子は確認できたのだからもう、カトラリーたちの元に戻ろう。


 だけれど――。


 幻が消えて静かな水底はとても心地がいい。瞼が重くなる。温かくてゆらゆらと揺れて、また眠りに落ちてしまいそう。



 ◇◇



『殿下、いい加減になさってください』


 不機嫌な声。はっとして目を開ける。眠っていたみたいだ。首を巡らせるとエドとわたくしの間に、今度は若い男性がいた。


『お遊びはほどぼどにと申しているでしょう。陛下もお怒りとのことですよ』

『すまぬと言っているだろう』またエドの声だ。『みなが離してくれないのだ』

『あまり勉強をさぼっていると、教師に辞められてしまいます』

『大丈夫さ。みんな俺を好きだろう?』

『《薔薇の殿下》などと呼ばれることにいい気になっていると、いつか痛い目を見ますよ。容貌は衰えるもの。花がどれほど咲き誇ろうと、時間が経てば枯れるのと同じです』

『ロビンは心配性だな』

 エドの屈託のない笑い声。


 《薔薇の殿下》という言葉は前回も聞いた。エドはかつてそう呼ばれていたらしい。薔薇と形容されるならきっと、華やかで美しい容姿をしていたのだろう。


 今のエドの姿は嫌いではないけれど。呪われる前の彼を見たくなってしまう――。



 ◇◇



『どうしてだ? お茶は嫌いか? 甘味もたんとあるぞ』


 エドの声に目を開ける。またしても眠ってしまっていたみたい。彼を見ると表情がだいぶ柔らかくなっている。浄化の効果が出ているのだろう。

 安心して幻を探す。と、愛らしい女性を見つけた。だけれど彼女は困った顔をしている。


『申し訳ありません、殿下。お断りいたします』

『なぜだ』エドの苛立たしけな声。『君はいつになったら俺の誘いを受けてくれるのだ。他の女性なら大喜びで了承するのに』


 胸がきゅっと締め付けられる。これはもしかして、彼女を口説いているところではないだろうか。目をつむる。

 なのに幻が見えてしまう。

 女性はうつむき、

『お許しください。殿下のごご好意に応えることはできません』

 と言う。

『だが――』とエド。


 聞きたくないし、聞いてもいけない。耳を塞ぎたい。それなのに腕は重く、思うように動かなかった。



 ◇◇



『貴様のせいだ!』


 突き刺さるような怒声に、目を覚ます。

 憤怒の表情の青年が視界に飛び込む。以前のエドが着ていたような灰褐色のローブを身にまとっている。

 青年がびしりと指を突きつける。


『お前を呪ってやる! 未来永劫苦しむがいい!』


 きつい眼差し、恨みに満ちた声。

 彼がエドに呪いをかけた張本人なのだ! 

 鼓動が激しくなり、気が逸る。今回ばかりはエドのプライベートを見せてほしい。彼の呪いを解くヒントがあるかもしれない。


 気持ち前のめりになり、青年を凝視する。だけれど彼はわたくしを睨みながら、静かに消えていった――。

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