4・1 ピクニックなのですが

 瞬く間にひと月が過ぎた。

 エドは丁寧に魔法言語を教えてくれる。さらに、屋敷以外では使わないことを条件に魔法も。わたくしには素質があるようで、ランプの灯をともしたり、水の温度を変えたりといった生活に使える魔法が使えるようになった。きっと師の教え方がいいのだ。


 わたくしはエドの呪いをときたいと思っているけれど、それは難しいみたいだ。エドもその方法を知らないという。わかっているのは、他人の協力がないと無理だということ。それだけ。

 呪いをかけた犯人は千年もの昔に亡くなっているので、尋ねることもできない。


 わたくしが協力したいと伝えたときのエドは、どこか諦念した表情で

『リリアナはそんなことはしなくていいんだ』

 と言ってわたくしの手を握りしめた。


 エドに魔法書を読みたいと頼んだあの日以来、一日のほとんどを彼と過ごしている。エドに魔法について教わり、温室や屋敷の周囲を散歩、共に食事。わたくしは楽しいけれど、エドは魔法書を読まなくなった。


『わたくしが邪魔ではない?』と尋ねたら

『リリアナがいる間は本なんて読んでいる場合ではない』とエドは笑った。『忘れたか? 俺は君が好きなんだ。リリアナが楽しいと思うことをしたい。どうせ俺の時間は永遠にあるのだから、気にするな』


 その言葉を聞いたわたくしは、とても哀しくなった。わたくしは二十歳。残りの命はたぶん四十年くらい。永遠の中の四十年なんて、きっとあっという間だ。わたくしが死んだあとエドは、また自分が作ったカトラリーたちとだけ暮らすの?



 ◇◇



「ほら、着いた」

 エドが前方を指差す。その先に灌木に囲まれた水面が見えた。

 屋敷から少し離れたところに美しい泉があるとカトラリーたちが教えてくれたので、行きたいと頼んだらエドが案内してくれたのだ。

 谷底であるここは、岩ばかりだった崖上とは違って多種多様な植物に溢れている。小動物もいるし小川や滝もあるらしい。


「こんなに歩くのは久しぶりだ」とエド。

「エドは運動不足なのよ」

「いいんだ。必要ないから。――ああ、疲れた!」

 エドはそう言って泉のほとりに椅子を出す。魔法で。

「スプーンが用意してくれた敷物があるのよ」

 わたくしは腕にかけた藤かごの中からそれを出す。

 エドがさっと手を振る。すると椅子は消えて敷物が宙でひとりでに広がりて、地面にふわりと着地した。


 かごをその上に置いてまわりを見る。泉には白い睡蓮が、周りには色とりどりの花々が咲いている。水はよく澄んでいて底まで見える。蝶が舞い柔らかな風が茂みを揺らす。


「こんな素敵なところは初めて」

「そうだな。ここがロマンチックな場所だということを忘れていたよ」とエドが笑う。


 ふと、これはいわゆるデートというものなのかしら、という考えが浮かんだ。婚約者と仲の良いお友達が、デートのことをよく話していた。

 とても楽しいらしい。

 わたくしとエドは婚約はしていないけれど、彼はわたくしを好きなのだ。


「ねえ、エド。これはデートなのかしら?」

「そうしていいのならデートにしよう」

 エドがわたくしの手を取り、目をのぞきこむ。

「手の甲にキスをしてもいい?」

「え……」

 急に心臓がドキドキとうるさくなる。それくらいは挨拶でよくされていたことなのに。


「……困らせたかな。悪かった」

 エドが目を伏せ、わたくしの手を離した。彼のぬくもりが消えてしまう。

「そのくらいなら構わないわ」わたくしの口が勝手にしゃべる。「挨拶だもの。ガエターノ様はしてくださらなかったけど」

「……それなら遠慮なく」

 再びわたくしの手をとったエドは、ゆっくりと唇で触れた。


 心臓がうるさい。

 手が熱くてとけてしまいそう。


 これはもしかして、断るべきことだったのかも。

 挨拶なんて言ってしまったけれど、 わたくしは挨拶でこんなにドキドキしたことはないもの。


 エドに手をとられたまま、並んで敷物の上に座る。彼が手を振るとかごの中から瓶詰めの果実酒とグラスがふたつ出てくる。

「わたくしが注ぐわ」

 瓶を手にとる。


 エドはなんでも魔法でできる。かごだって本当は持つ必要なんてなかった。わたくしがピクニック気分を味わいたかっただけ。そんなわたくしのためにエドは、重さが半減する魔法をかごにかけてくれた。


 果実酒を注いだグラスをエドに渡すと

「ありがとう」と微笑んでくれる。

 わたくしも微笑み返す。

 エドがグラスを傾けながら、詩のようなものを暗唱しはじめた。古語でわかりにくいけれど、春の野を謳ったものみたい。


「――けっこう覚えているものだ」とエドが言う。

「素敵だったわ」

 彼ははにかんだ笑みを浮かべた。

「自分の名前は忘れたのに、おかしいよな」

「もしかして呪いのせいということはない?」

「いや、違うと思う。教養はしっかり叩き込まれたからだろう。名は自分で口にすることはないだろう?」

 そうかしら。

「エドって貴族だった?」

「……そうだな。遠い昔のことだが」彼の表情が淋しそうなものに変わる。「まあ、もう忘れた。今の俺は恐らく世界でただひとりの魔術師だ」


 エドが手を伸ばして草をむしる。

 数本のそれを顔の前に持ってきて、ふっと息を吹き掛けると草は青い蝶となり、ひらひらと飛んでいった。


「すごいわ。呪文無し?」

「ああ。だがその代わりにすぐに消える」


 その言葉どおりに蝶は霞みとなって消えていった。


 エドの話では彼が呪われたころは魔術師はたくさんいたらしい。だけどその少しあとに大迫害が起こり、たった百年ほどで魔術師は社会から一掃されてしまったそうだ。隠遁して生き延びた魔術師たちもその魔法を誰かに継承することができないまま死んでいき、永遠に生きるエドだけが残ったという。


 彼は兵士たちを一瞬にして消し去った酷薄な一面があるけれど、迫害時代に殺された魔術師が多かったようだから、敵意にたいして敏感なのは当然なのかもしれない。


 少なくともわたくしと一緒にいるエドは、とても穏やかだ。スプーンは『リリアナ様の効果ですよ』と言っているけれど。

 家族も仲間も失って、たったひとりで生きてきたエドの孤独さを考えると胸が苦しくなる。


「――それではわたくしも、春の詩を暗唱するわ」

 エドが微笑む。

 わたくしがいる間だけでも、エドの孤独が和らいでほしい。

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