3・1 暇すぎるのですが
魔術師の屋敷に来て、一週間が過ぎた。彼はわたくしを下女にすると言っていたけど、実際にわたくしにした命令は『スプーンを手伝え』だけ。
ではお手伝いをと思っても、屋敷内のことはほとんど魔術師が魔法で済ませているそうで、やることがない。せいぜい気休め程度に銀食器を磨いたり、屋敷のとなりにある温室で、薬草に水やりなどをするくらい。あとはカトラリーたちにせがまれて、『近頃の人間界情報』を語って聞かせるだけ。
あまりに暇なので今日は思いきって書斎を訪れ、魔術師にお願いをした。わたくしにも魔法書を読ませてほしい、と。
魔術師が本の山の向こうから、戸惑いの顔を見せている。
「こんなものを読んでどうするのだ?」
「魔法について勉強します」
「使えるようになりたいのか?」
「え? わたくしでも使えるのですか?」
魔術師がしまったという表情になった。そのせいか顔を引っ込める。山しか見えなくなってしまった。
「素質のあるなしはありますがな。誰しも魔法を使える可能性はあるらしいですぞ」
と彼の傍らでナイフが言う。今日はフォークはいないみたいだ。
「余計なことを言うな!」魔術師が小声でたしなめる。
すべて聞こえていますけどね。
「魔法を使えるようになりたいです」
本の山越しにため息が聞こえた。
「なぜ魔法がお伽噺になったと思っている。魔法も魔術師も異端だと迫害されたからだ。身につけても良いことなどない」
「でもわたくしは世間に戻るつもりはないのですから、迫害されることはありません。それに自分のことは自分でできるようになりたいですもの」
またため息。
この魔術師は怖い一面もあるけれど、根はお人好しなのだと思う。生け贄を無償で助けたり、わたくしが迫害されることを案じたり。だけどそれだけではないような気がする。
この一週間、彼にはほとんど会っていない。食事も別。スプーンが言うには、わたくしに気を遣ってのことらしい。自分の外見が恐ろしいから、と。
「わかった」と魔術師。「それなら初歩の魔法書を貸してやるから、読むといい。俺は忙しい。自分で学べ」
言い終わると同時に何冊もの本が空中を飛んできて、わたくしの前で積み重なった。両手を出すと、その上に載る。とたんに重みがでよろけ、床に膝をついてしまった。本も激しい音と共に散らばっている。
「大丈夫か!」魔術師が駆けて来た。床に膝をつき、「怪我は?」と尋ねてくれる。
「わたくしは大丈夫です。でも本が」
「傷んでも魔法で修復できる」
彼はそう言ってわたくしに手を差し出した。その手をとろうとしたら、魔術師は急に手を引っ込めた。慌てた様子で立ち上がり、
「魔法で部屋に運んでやる」
と言う。
「――やっぱり、魔術師様はわたくしを避けていますよね?」
「さ、避けてなどいない」
そう言いながらも彼の目は泳いでいる。
ひとりで立ち上がり、
「わたくしが何か粗相をしましたか」
と尋ねた。
「いいや」と魔術師。
「こちらにお世話になるのはご迷惑ですか」
そもそも彼は選択肢を与えておきながら、わたくしが彼の下女を選ぶとは思っていなかった。予想外のことに、わたくしが邪魔になってしまったのかもしれない。
だけど思うのだ。彼がわざわざ下女なんて選択肢を口にしたのは、自分の元に来てもらいたい気持ちと、それに対する不安とがない交ぜになっているからではないか、と。
でなければ、何も言わずに生け贄を遠くに逃がせばいい。
目をそらした魔術師の横顔を見つめていると、やがて彼は大きなため息をついた。
「……想定外だった!」
「なにがでしょう」
「忘れていたんだ!」
話が見えないので、黙って言葉の続きを待つ。
「――竜に乗るためにお前の手をとったとき」
「はい」
魔術師の顔がもにょもにょとしている。よほど言いづらいのかしら。
それから彼はわたくしの手をとった。優しく。まるで大切なものを扱うかのように。
「――温かくて柔らかい」
「はい?」
ずっと目を合わそうとしなかった魔術師がわたくしを見た。
「忘れていたよ。他人に触れるのは何百年ぶりかだ」
その言葉の意味を考えて、理解できると胸が苦しくなった。
ここにはカトラリーたちがいるけど、彼らは人ではない。わたくしはまだ、スプーンに触れる度にその冷たさと硬質感に驚いてしまう。
この魔術師は何百年もの間、人肌を持たない彼らしか、触れる相手がいなかったらしい。
「わたくしの手でよければいくらでもお貸しします」
魔術師が泣きそうな顔をする。
「お前は変だ。俺に優しくするな。普通は気味悪がるのだぞ」
「優しくなんてしていません。普通にお話をしているだけです」
「ああ、もう!」手を強く握られた。「迂闊だった! こんな変な女!」
「わたくし、あなた以外に変だなんて言われたことはありませんが」
「変!」と彼は力強く言う。「お前は変で愚かな女だ。だから――」
だから?
「――好きになってしまった」
「なにをですか?」
視界の端で、どうしてかナイフが転がった。
「この話の流れでどうしてそうなる」魔術師が呆れたように嘆息する。「リリアナ、お前をだ」
「わたくしですか?」
立ち上がったナイフがうんうんうなずいている。
「魔術師様。わたくしはガエターノ様に見捨てられるようなつまらない女ですよ」
「あの男を基準に考えるな。――で、どうする?」
「どうする、とは?」
「俺はリリアナが好きだ。そんな男とここで暮らすか? それとも遠くの町へ行くか?」
また選択肢だ。
魔術師はなにかをこらえているような顔をしているし、わたくしの手を握っている彼の手はじんわりと汗をかいている。
わたくしに選ばせようとしているけれど、きっと本心ではここにいてほしいのだ。だって数百年ぶりの人間なのだから。
「あなたのお気持ちに応えることはできませんが、それでも構わないのならばわたくしはこちらに置かせてほしいです」
「そうか」
魔術師の顔がゆるんだ。緊張していたらしい。
彼は手を離して踵を返す。
「ナイフ。書物を彼女の部屋に運んでくれ」
「承知しました」とナイフ。「ここで読んでほしいと伝えなくていいのですかな? 本当は一緒にいたいのでしょう?」
ぽん、と音がしそうな勢いで魔術師の耳が赤くなった。
「余計なことを言うんじゃないっ!」
「魔術師様。わたくし、こちらにいても構いませんか? わからないことがあったら質問したいのですが」
「ん? ああ」魔術師がちらりとわたくしを見た。顔が瞳と同じくらいに真っ赤だった。「リリアナが嫌ではないのなら、好きにするといい」
「ありがとうございます」
ナイフに手伝ってもらい、床に散らばった本を拾う。
「それからリリアナ」と魔術師。
「はい」
「敬語はやめてくれないか」
「わかりました」
ナイフがなぜか首を横に振っている。
「あ。『わかったわ』です、魔術師様」
魔術師が完全に振り返って、じっとわたくしを見る。
「ごめんなさい。気をつけ……るわね」
「名前」と魔術師。
名前? 彼は先日、魔術師は名乗らないものだと言っていた。
「俺の名前は――」魔術師の表情が曇る。「忘れた。長いこと、誰にも呼ばれていないからな。だがリリアナに名前で呼ばれたい」
また胸が苦しくなる。
「なにか、なんでもいい。リリアナが俺に名をつけてくれないか」
「それでしたら――」頭を一生懸命に働かせる。「『エドワルド』はどうでしょう。今一番人気のある小説の主人公なのですけど」ああ、また敬語になってしまった。「わたくし、親しみを込めてエドと呼ぶわ」
「『エド』。エドか。いいな」
魔術師――エドがふんわりと微笑んだ。
優しい笑みだった。
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