2・2 お名前を伺っていないのですが

 スプーンに連れて行かれたのは書斎――いえ、迷路のような書庫だった。天井に届く本棚がいくつも不規則にあって先を見通せない。くねくねとした細い通路を進むとやや開けた場所があり、大きな机の前に魔術師がいた。それとフォークとナイフも。みなそれぞれに立ったままで机上に広げた書物を読んでいる。


「魔術師様、リリアナ様が起きましたよ」

「ん?」と彼が振り返り目が合う。だけどすぐに本に視線を戻した。「起きたか。悪かった、飛ぶのは怖かったみたいだな」

「あのような高さは初めてでしたから」

「普通の人間はそうなのだった。忘れていた」

「久しぶりの人間ですものな」とナイフが低い声で言う。

「許してやって」とフォーク。こちらはナイフほど低くない。


「怪我を治してくださって、ありがとうございます。おかげさまで痛みはすっかり消えました」

「んむ」

 魔術師が視線を合わせないまま、ぽりぽりと頬をかく。


「本当に珍しいね」とフォーク。「君、魔術師様が怖くないのかい?」

「怖いとは?」

「だって顔が崩れているし」

「人間離れした魔法を使いますからな」

 フォークとナイフがそう言うと、

「気弱な人は魔術師様と目が合っただけで腰を抜かすらしいわよ」とスプーンが続けた。

「この赤い瞳が気味が悪いらしい」魔術師も言う。 「だが俺は、自分の外見を変える魔法は無効化してしまうのだ」

「確かに赤い色の瞳の方には初めてお会いしましたが、世の中にはわたくしが知らない外見の方がたくさんいるのだろうと思いますし――」

「この眼は世界にただひとり、魔術師様だけなのだよ」とナイフ。

「お顔は火事に遭われたのかと――」

「だとしても気味悪いことには変わらないだろ?」とフォーク。

「いいえ。魔法はお伽噺だと思っていたので驚きはしましたが、怖いとは感じませんでした――ですが、もしや畏怖したほうがよろしかったのでしょうか」


 魔術師とカトラリーたちが顔を見合わせる。

「確かに変わり者のようですな」とナイフ。

「だろう? 動じないというかなんというか」魔術師が言う。

「それでしたら」とわたくし。「王子妃になるために、常に平静でいる教育を受けましたから」

 ムダになってしまったけど。胸の奥がズキンと痛む。


「実は良い案を思い付いてな。起きたら教えてやろうと思っていたところだ」と魔術師。ようやくわたくしを見る。「魔法でクズ王子をお前に惚れさせる。髪を一本もらえればできる。あとは生け贄に関する記憶を消せば、家にも帰れる。これは複数人にかけるから厄介だが、まあ俺なら可能だ」

「さすが我らの魔術師様」とナイフが言えば、フォークが手を叩いて称える。

 魔術師は

「ん」

 て手のひらを上に向けて差し出す。髪をくれ、ということだろう。


 それを渡せば、ガエターノ様がわたくしを愛してくれる。きっと昔のように微笑み、優しくしてくれる。

 魔法の効果で。


 目をつむり、胸に去来する様々な感情をやり過ごし、気持ちが定まったところで魔術師を見た。

「わたくしをこちらに置いてください」

「なぜだ!」魔術師は目を見開いている。炎のように赤い瞳がよく見える。

「魔法は解けるかもしれません。解ければ殿下はますますわたくしを嫌うでしょう。そんなのは耐えられません」


 口を開いた魔術師は、結局なにも言わずに口を閉じた。


「素敵な提案をありがとうございます。ものすごく魅力的です。でもいつか殿下に再び嫌われるかもしれないと怯えながら暮らすのは、辛いのです」

「――あの男を消すこともできるぞ。憂いを絶てる」

 わたくしは首を横に振った。

 魔術師がため息をつく。

「王宮を覗いてみたがあいつ、お前が自主的に生け贄になりに行ったと涙ながらに話してまわっている。悪どいもいいところだ」


「そうですか。でもいいのです」胸の奥の痛みには気づかないことにする。どのみちもうあまりに痛すぎて、痛くないときがあったことを忘れてしまった。「――その代わりにひとつ、お願いがあります」

「なんだ。言ってみろ」

「父に『生け贄の必要がなくなり、わたくしは遠い地で生きることになった』と手紙を送りたいのです。内密で。父とわたくしのふたり家族なものですから」

「それなのに帰らないの?」スプーンが訊く。「せっかく魔術師様が解決方法を提案してくれたのに」

「関係者の記憶を操作しても、わたくしと共に来た兵士たちが消えた事実は残ります」

「ふむ。矛盾をきっかけに魔法が解ける可能性もありますな」とナイフ。

「関係者全部の記憶を変える、というのは大変かな」とフォーク。

「……さすがに大変ではある」魔術師が言う。

「変えずに戻ったら、生け贄が嫌で逃げてきたと思われる?」スプーン。

「ええ。どのみち、もう宮廷には帰りたくありません」

「わかった」と魔術師。「手紙が書けたら、くれ」

「ありがとうございます。魔術師様」

 鷹揚にうなずく魔術師。


「ところで魔術師様のお名前をまだ伺っておりません」

 わたくしがそう言うと彼は目を細めた。

「……魔術師は名乗らぬものなのだ」

「そうでしたか。失礼をお許しください」

「ああ」


 彼を怒らせてしまったのかと一瞬思ったけれど、ちがうような気がする。どちらかといえば、そのことには触れないでほしいという雰囲気のよう。

 気のせいかしら。



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