一 化け物
長い冬が終わりを告げて、雪は木かげのところどころに残るだけとなりました。松や杉の木に混じって生えている山桜のつぼみも、少しずつ大きくなってきています。
ここはヒタチの国の山の中腹にある、小さな村。多くの木々に囲まれて、かやぶき屋根の小さな家がまばらにあり、その周りにせまい畑があるだけの、どちらかと言えば貧しい村です。
春の日の昼下がりでした。幼い子供たちは村の中を走り回ったり、ふざけあったりしています。けれども十二歳になる女の子、モモは、この時はもう、母親の畑仕事を手伝っていました。
モモの体つきはすでにほとんど大人で、背たけは母親と変わらないほどです。烏のぬれ羽色の、美しく、そして非常に長い黒髪を、頭の後ろで二重の輪にして結っています。けれどもその顔つきは丸っこくて、あどけない子供のままでした。
「お母さん、お母さん。いい天気だけど、もうじき雨になるかもしれないよ?」
くわを持つ手を止めて、モモが母親に言いました。モモの母も手を止めて顔を上げます。
モモの母は若くて美しく、身なりさえもっと上等なものであったなら、都の貴族や、ひょっとすると帝にさえ目をとめられそうなほどの女性でした。彼女の夫、つまりモモの父親は、モモが物心付く前に亡くなったとのことで、以来モモは、ずっと母親と二人きりで暮らしていたのでした。
「あら、モモ。雨だなんて……。ひょっとして……、また……?」
母親は落ち着いた声で、娘にたずねました。木々の間から見える空には、雲一つありません。モモはこう答えました。
「うん……。さっき……、村長さんの、猫が言ってたから……」
「……そう……」
母親は、少し悲しげなほほえみを浮かべて言いました。
「分かったわ、モモ。今日は早めに切り上げましょう。でもモモ。他の人に、そういう風に言ってはだめよ? 子供っぽいと思われるからね……」
「……分かった」
ちくりとした胸の痛みをがまんしながら、モモは返事をしました。母が自分の言うことを信じているのか、そうでないのか、モモにはいまひとつよく分からないからです。
幼いころから、モモには動物の言葉が分かりました。正確に言えば、獣や鳥が何を思っているのかが、鳴き声やしぐさから、まるで人の言葉が話されているかのように、彼女には理解できるのです。
小さいころは、他の人も自分と同じように分かるものだと、モモは思いこんでいました。ある時このことを村の子に話して、ようやく周りはそうではないと分かったのです。それからしばらくの間、彼女は他の子供たちからばかにされるはめになりました。
家でふさぎこむモモを、母親が心配して、どうしたのかとたずねたことがあります。モモは自分の力について話しました。すると母は最初こそおどろいたようでしたが、すぐに先ほどと同じような、冷ややかと言ってもいいほどの反応になり、周りの人にはもう言わないようにと、娘に言って聞かせたのです。それ以来、モモには母が、どこかよそよそしくなったような気がしています。
(……お母さんは、わたしを変な子だと思ってるのかな……。周りの反応ばっかり気にして……)
かつて母に打ち明けた時と同じように、今もまたモモは、そんな風に思っていました。
その時です。小道の向こうから、村の男の子たちのさわぎ声が聞こえてきました。
「逃げるぞ! 追え追え~っ!」
モモの家は、村の中でもかなり外れの方にあります。村の中の方から外へと向かって、男の子たちが走ってきたのでした。見れば男の子たちの前を、一羽のうさぎがぴょこぴょこはね回っています。モモの顔色はいっぺんに青ざめました。
うさぎ追い自体は、めずらしいことではありません。モモはおびえるうさぎの声が分かるため参加はしませんが、畑が荒らされるのを防ぐため、村をあげて、かや場でうさぎを追いこむこともあります。ところが今男の子たちに追われているうさぎは、そういう時と比べても、いっそうおびえて苦しんでいました。
「なんてひどい……! けがしてるじゃない……!」
モモが声をもらすように言いました。うさぎは後ろ足の片方を引きずっていて、体のあちこちから血を流しています。そばにいたモモの母親も、その様子を見て顔をしかめました。
「逃がすな、逃がすなっ!」
男の子たちはモモたちに構わず、さけび続けています。モモの耳には彼らの大声とともに、追われるうさぎの、絶え間ない悲鳴が聞こえていました。
うさぎと男の子たちがモモたちのすぐ近くまで来た時、モモの母が彼らに声をかけようとしました。が、それより早く、モモはたまらず飛び出して、男の子たちとうさぎの間に、大胆にも割って入ろうとしました。次の瞬間。
ガッ!
男の子がうさぎに向かって投げたつもりの石が、モモの顔面に当たったのです。
「モモっ!」
母親がさけび声を上げて、モモにかけ寄りました。
「ううっ……」
モモはひどい痛みで顔をゆがめています。石は左目に当たってまぶたを大きく切ったようで、さわると手にべっとりと血が付きました。
男の子たちはうろたえているようです。モモは無事な右目で、逃げていくうさぎの姿をちらりと見ました。うさぎは助かったことを喜びつつ、『もっと安全な所まで、急いで逃げなくちゃ』と言っているようでした。
「モモっ、大丈夫っ?」
母親はそう言いながら、モモを支えて、手ぬぐいで顔の血をふきました。うさぎがうまく逃げてくれたことで安心したモモは、けがの痛みも忘れて何気なく答えます。
「あ……、うん……。大丈夫……」
と、ここでモモの顔をぬぐっていた母親の手が、ぴたりと止まりました。
「……モモ……、あなた……」
母は声をもらすように言いました。どうしたの、とモモが言おうと思った、その時です。男の子の一人が、モモの顔を見て声を上げました。
「傷がっ……! ないっ! あんだけ血が出てたのにっ!」
言われてモモはふたたび左目をさわりました。すると彼が言うように、まぶたには血のあとを感じるだけで、傷口らしきものは何もありませんでした。痛みもありません。安心して忘れたわけではなかったのです。けがはこの短い時間で、どういうわけか、すっかり治ってしまったようなのです。
「化け物っ……! あいつっ、化け物だっ!」
男の子たちが言いました。モモと母親は言葉を失ったまま立ちつくしています。男の子たちは恐れおののきながら、元来た小道を走って逃げていきました。
「モモ……、あなた……」
母親はふたたび娘に言いましたが、続きの言葉が出てきません。モモはおそるおそる母の顔に目を向けました。先ほどの男の子たちと同じような、おびえた表情が浮かんでいます。モモ自身も、自分のことがひどく不気味に思えてなりません。彼女の胸には、男の子が言った「化け物」という言葉が、するどく突き刺さったままでした。
いたたまれなくなったモモは、すばやく母親に背を向け、走りだしました。
「モモっ!」
モモの母が辛そうな声を上げました。けれども彼女はふり返らず、村の外に向かって走り続けました。その目に、なみだを浮かべながら。
長い間走った末に、モモは川辺にたどり着いて、そこで暗い顔をして思い悩んでいました。
(……やっぱりわたしは……、ふつうじゃないんだ……。男の子たちやお母さんの、あの恐ろしいものを見るような目……。わたしは、人間じゃないの……? ひょっとして……、お母さんの子供じゃあないの……?)
モモは川原にあった大きな石に腰を下ろしました。川は細い小川ですが、山の雪解け水を集めているせいで、流れは音を立てて逆巻いています。モモは地面の小石をいじりながら、一人で考え続けていました。
(……鳥や獣の心が分かるのもそうだし……。あんなに血が出るけがはしたことなかったけど、小さいころから、傷が治るのは早かった気がする……。風邪とかも、わたしはぜんぜん引いたことがない……。髪が伸びるのも、すごく早いし……! いちいち切っていられないから、こんな、何重にも輪にして結ってる。背が伸びるのも、他の子よりずっと早かったんじゃない? 男の子より女の子の方が早いのは、ふつうらしいけど……)
カツンッ! カツンッ!
モモは何気なく小石を手に取っては、水面から突き出た岩にそれを放り投げていました。が、やがて彼女ははっと気づきました。
(これもだ……!)
モモの投げる小石は、向こう側の岩の、少しのずれもないまったく同じ場所に、何度も何度もくり返し当たっているのです。最近は日常生活や遊びで物を投げるようなことはありませんでしたが、男の子たちとまだいっしょに遊んでいたころは、彼らにくやしがられたものでした。
(……どれも一つずつじゃ、大したことないかもしれない……。でも、けががすぐ治ったことと合わせると……、どれもこれも、不気味にしか思えない……! わたし……、ほんとは、妖怪か何かなの……? そんなのって……)
モモはその目で見たことはありませんが、人だと思っていた者の正体が妖怪や化け狐であったとか、人や獣や物が年月を経て妖怪になったとかいう話は、いくらでも耳にしたことがあります。村の外、あるいは山を下りた先では、妖怪や鬼が増えてきているという話も聞きます。今まで知らなかっただけで、自分は本当は、そういう者たちの仲間だというのでしょうか。
(わたし、どうしたらいいの……? 恐い……。自分で自分が、恐いよ……)
と、その時でした。突然冷たい風が吹いたかと思うと、木々の間から見える空が、みるみる黒雲におおわれ始めたのです。周りの鳥たちもさわがしくなりました。彼らは口々に、『早く帰ろう! 早く帰ろう!』と、あわててまくしたてているようでした。
(……そうだった。雨が降るんだった……。どうしよう……)
辺りは暗くなり、空気はどんどん冷えてきていますが、モモは川辺に座ったまま、考え続けていました。
けれどもやがて、モモはゆっくりと立ち上がると、自分の心に向かってこう言いました。
(……お母さん、きっと心配してるよね……。決めた。家に帰って、やっぱりお母さんに、ちゃんとわたしのこと、聞こう。……わたしは人間なのか、それとも、妖怪の一種なのか……。わたしは……、お母さんの子供なのか……)
彼女は切なそうに顔を上げると、ここで初めて寒さに気がついたかのように、ぶるっと身をふるわせました。その時です。
川の反対側の木々の奥に、人影が立っていることにモモは気づきました。いったいいつからそこにいたのでしょうか。川が音を立てていることや、考えごとで頭がいっぱいだったことを差し引いても、なんの気配もなかったように、彼女には思えました。
(だれだろう……? 山のふもとの人かな……?)
村の人間や、ふだん村に出入りする人なら、モモには遠目でも分かります。けれども今向こうにいる人は、彼女が知っている人ではないようでした。その人はだまったまま、ゆっくりとモモの方に歩いてきます。
(……ちょっと、不気味な人……。全身黒ずくめだし……)
と、そう思った直後、モモの背筋が凍りました。
(何あれ……! 人じゃ、ない!)
近づいてくるそれは、黒ずくめの服を着ているのではありませんでした。体全体が、闇のように真っ黒なのです。その黒い顔に目や鼻は見られず、体の表面は荒々しくささくれ立っています。そしてその頭には、大きな二本の、とがった角が生えていたのです。
(鬼……! 鬼だ……! そんなっ……、嘘でしょっ……?)
モモは恐怖でふるえて、立ちすくんでいます。その間にも、黒い鬼は木々の間をぬうようにして、少しずつ近づいてきます。鬼の体はどういうわけか、じわじわと大きくなってきているようでした。
すぐ逃げた方がいいと頭では分かっているにもかかわらず、モモは体を動かすことができません。鬼は二人をへだてている、小川のふちまでやってきました。すなわち、もう彼女の目の前までせまっています。
しかし、その時でした。雉のするどい鳴き声が一つ、川下の方から聞こえてきたのです。その瞬間、モモはまるで音に弾かれたかのように、ぐるりと向きを変えて走りだしました。無我夢中で足を回し、あえぐように息をしながら坂をかけ上ります。
走るモモの後ろの方で、ザブンと音がしました。鬼が川に入ったのでしょう。モモは走りながら川の方をふり返りました。
鬼はすでに、こちら側のふちに上がっています。鬼はその、目のない暗い顔で、モモを見つめたようでした。そして間もなく、彼女に向かって、鬼もまた走りだしたのです。
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