二 母の秘密

 モモの母親は、囲炉裏で火をたいて、娘の帰りを待っていました。モモが言っていた通り、外では雨が激しく降り始めています。

「モモ……。大丈夫かしら……」

 モモが走り去っていった時、母は自分も農具を放り出して追いかけようかと、どれほど思ったか分かりません。けれども彼女は、先に村のあの男の子たちの方を、どうにかして落ち着かせなければならなかったのです。

 それが済んだ後も、彼女はモモを探しに行った方がいいだろうかと迷いました。けれども娘は必ず帰ってくるはずだと信じて、家で待つことにしたのです。娘のモモはおくびょうなのと同時に、とてもやさしくて、本当は芯の強い子であることを分かっていたからです。

 しかし一方で母は、胸さわぎもしていました。彼女は戸口に立って外の様子を見ながら、こんな風に考えていました。

(……なんだか、いやな予感がするわ……。やっぱり今からでも、探しに行った方がいいかしら……。せめて、だれか人をやっていれば……。もし……、もしもモモが……)

 と、その時です。雨の音に混じって、パシャパシャとだれかが走ってくるのが聞こえてきたのです。モモの母は目になみだを浮かべて、大声で呼びかけます。

「モモっ! 無事だったのね!」

 しかしそう言った直後、母親の顔色が青ざめました。かけてくる足音が、一人のものではないのです。

 モモの姿ははっきりと見えてきました。が、その表情に、ただならぬおびえが見られます。そして彼女の少し後ろに、黒く大きな何者かが付いてきていたのです。

「お母さんっ! お母さんっ……! ハァッ! 助けてっ……! 助けてっ!」

 モモが息を切らしながらさけびました。

「……あれは……、影鬼かげおに……!」

 声をもらすようにして、モモの母が言いました。それから彼女はすぐに身をひるがえして戸に手をかけると、モモに向かって大声で言いました。

「モモ! 早く中にっ! 急いでっ!」

 モモは死にものぐるいで走り、戸口にかけこみました。即座に母親が戸を閉め、つっかえ棒をかけます。

「ハァッ……! お母さんっ……! お、鬼が……、鬼がっ……!」

「ええ、分かってる……! モモ、たんすの一番上の引き出しに短い刀があるわ! 持ってきて!」

 うろたえるばかりのモモに、母はすばやく指示を出し、自分は体全体でとびらを押さえつけました。その直後。

 ドガーン!

 まるで雷のような音を立てて、とびらに外から何かがぶつかりました。モモを追ってきた鬼が、体当たりをしたにちがいありません。戸板を押さえる母の体が、少し浮きました。わらじのまま居間に上がろうとしていたモモは、ふり返って身をすくませます。

 ドガーン!

 ふたたび戸が激しく体当たりされました。木がきしむ音を立てます。母親は必死で押さえています。モモは急いでたんすにかけ寄り、刀を探しました。

 ドグワシャッ!

 三度目の音とともに、とびらは木っ端微塵にくだけて、母親の体は土間の中ほどまで吹っ飛ばされました。見れば、鬼はこぶしを前に突き出しています。体当たりではなく、なぐってとびらを破壊したのです。

 黒い鬼はその大きな体をかがめて、ゆっくりと家の中に入ってきました。立ち上がれずにいるモモの母に、近づいていきます。

「お母さんっ! しっかりっ!」

 モモがさけびました。同時にたんすを探る彼女の手に、母の言っていた短刀がふれました。モモはすばやくそれをつかみ取ると、鬼に向かってかけ出しながら、刀を抜いて、さやの方を鬼に投げつけました。

 ゴッ!

 さやは鬼の頭に命中しました。が、鬼はほとんどびくともしません。モモの方にその黒い顔を向けただけです。むしろ、ひるんだのはモモの方でした。かけ出した足が中途半端にたたらをふみます。

 ドガッ!

 鬼のこぶしが、モモをおそいました。彼女は部屋の奥まで吹っ飛ばされ、先ほどのたんすにぶつかって、呼吸が一瞬止まりました。あばら骨が折れたのではないでしょうか。こんなに激しい痛みは、モモは今まで想像したことさえありません。

 床にへたりこむ彼女の頭や手元に、たんすの上からこまごまとした物が落ちてきます。刀はどこかに弾き飛ばされました。黒い鬼はモモの方に体を向けて、居間に足をかけました。その時。

「その子に、手を……、出さないで……! 私の娘にっ……! 手を出さないでっ!」

 モモの母が、鬼の片足にしがみついてさけんだのです。おどろいたことに、あの怪力の鬼の動きが、そこで止まりました。

「う……。お母……、さん……」

 モモはなみだを流して、あえぐように言いました。私の娘、そう母は言ったのです。

 一方、鬼はしがみつく母に向かって両手を伸ばし、彼女の胴体をわしづかみにしました。

「ううっ……!」

 鬼はもだえる母の体を引きはがし、そのまま高く持ち上げると、なんと頭の形を大蛇のように変え、その口をばっくりと開いたのです。

(食べようとしてる……! 鬼が、お母さんを……!)

 モモは痛みをこらえて、なんとか立ち上がろうとしました。するとその時、彼女の手に、何か小さな丸いかたまりがふれたのです。とっさにモモはそれをつかみ、無我夢中で鬼に投げつけました。

「このっ!」

 そのかたまりが手をはなれる直前、モモにはそれが、何かの植物の種だと分かりました。こんな物を鬼に当てたところで、なんにもならない、と、モモの頭に絶望がよぎりかけた、その時です。

 ブワッ!

 種が鬼に当たった瞬間、まるで煙が突風にかき消されるかのように、鬼の黒い体が散り散りになり、あと形もなく消え失せたのです。

 ドサッ……!

 モモがあっけに取られているうちに、彼女の母は居間の端に落ちてたおれました。

「お母さんっ!」

 モモは我に返ると、床をはうようにして母に近寄り、その体をだき起こしました。

「お母さんっ! しっかりして! けがしてるのっ?」

 するとモモの母はゆっくりと顔を上げ、苦しそうに、そしてどこか切なそうに、娘に言いました。

「……モモ……。あなたこそ……、大丈夫……?」

「わたしは……」

と、モモは言いかけて、骨が折れるほど打ちつけられたはずなのに、今やほとんど痛みさえ引いてしまっていることに気づいて、改めて自分のことを不気味に思いました。彼女は顔をゆがめながら言います。

「……わたしは、大丈夫……。わたしより、お母さんはっ? けがはっ?」

 母親はモモに支えられて、ぎこちなく体を起こしました。それから母は娘の目をじっと見つめると、声を落として、こう言ったのです。

「……大したけがは、していないわ……。けど、私の寿命は、尽きようとしている……。感じるの……。この身にあたえられた力を……、今ので、使い果たしてしまったのでしょう……」

 モモはとまどいました。

「どういうことっ……? 寿命? 病気なの、お母さんっ……?」

 しかし母は、こう言いました。

「……モモ、聞きなさい……。残された時間は、わずか……。聞いてほしいの……。あなたの秘密……。そして……、私の秘密を……」

 モモは混乱しながらたずねます。

「秘密……? わたしの、だけじゃなくて……、お母さんの、秘密……?」

 するとモモの母はかすかに笑みを浮かべた後、小さな声で、娘にこう語り始めたのです。

「……もう何年も昔のこと……。年老いた……、そう、とても仲むつまじい夫婦が、二人きりで、山のふもとに住んでいたの……。ある日、そのおじいさんは山の管理のため、柴刈りに、おばあさんの方は、川に着物の洗濯をしに行った……」

 モモはそれが自分や母となんの関係があるのかと疑問に思いながらも、だまって話に耳をかたむけました。

「……洗濯をしていたおばあさんは、川上から桃が流れてくるのに気がついて、水に入ってそれを拾ったの……。桃は三つ。とても立派な桃で、おばあさんは喜んだ。けど、それも束の間……。川上から、また別のものが流れてきたの……。それは夫の、おじいさんだったのよ……」

 モモは息をのんで、食い入るように続きを聞きました。

「……おじいさんはまだ息があって、気がつくと、おばあさんと話もできた。そして彼は、こう言ったの……。『鬼がやってくる』、って……」

「鬼が……!」

 モモは声をもらしました。母はうなづいて、話を続けます。

「……おじいさんは、こうも言った……。おばあさんが拾った桃は、神の桃だと……。そうして間もなく、おじいさんは、事切れてしまった……。おばあさんは彼を……、断腸の思いで川の流れにゆだね……、桃をかかえたまま、走って逃げたの……。おじいさんが言った通り、黒い鬼が現れ、おばあさんを追いかけた。おばあさんは必死で逃げ……、やがて鬼を、引きはなすことができたように思われたわ……。けれど彼女は、恐怖からは、逃れることができずにいた……。それではいつまた、鬼が現れるか分からない。……と、その時、彼女は桃のことを思い出したの……。おじいさんは、神の桃だと言った。くわしいことは、分からない。だけど……」

 ここでモモの母は、遠い目をして続きを語りました。

「……おじいさんは、もともと、神々の時代や、古代の物語にくわしかった……。妻が夏風邪を引いたりすると、いつも桃を手に入れてきて……、語りながら、食べさせたの……。『桃の実は、イザナギの神が黄泉の国でおそわれたもうた時に、お助けたてまつった実。「大神実オオカムヅミ」と名付けなさった実じゃ。きっと力をあたえてくれる』、って……」

「……オオカム、ヅ、ミ……。桃は、神様の……」

 モモがつぶやきました。母親は彼女にやさしくほほえみかけて言います。

「……そうよ、モモ……。桃は、神様の果物なの……。そこでおばあさんは、おじいさんの言葉を信じて、川で拾った桃を一つ食べた。すると彼女の心から恐れは去り、疲れも吹き飛んで、力がわいてきた」

 モモは口元をほころばせました。母親は続けます。

「……間もなくおばあさんは、夢中で桃を、もう一つ食べた。すると、おどろいたことに……、おばあさんの老いた体は、みるみる若返って、二十歳の娘のような姿になったのよ」

「若返って……! ……えっ。まさかっ……! ひょっとしてっ、お母さんは……!」

 モモが思わず声を上げると、母は静かに笑いました。

「……そう。若返ったおばあさん、それが私……。私は実は、もう百歳をこえているの……」

 モモはおどろきのあまり、声も出ません。けれどもモモの母は、なお話を続けます。

「……それから私は、さらに続けて、三つ目の桃……、まさしく神の桃の、三つ目を食べた。……すると……、おなかの下の方に、ほんのかすかな、痛みを感じたの……」

 ここでモモはちょっとふき出しました。

「それって、食べすぎ?」

 しかし母はここで、今まで以上に真剣な表情になって言いました。

「いいえ、そうじゃないの……。私には、はっきりと感じられた。この時……、私のおなかに、一つの命が宿ったの。神々にかけて誓ってもいい……。それこそが……、モモ、あなたなのよ。神の桃の力で生まれた子……、それがあなた。私の子、モモよ」

 モモの体が、ふるえました。彼女は口を開いたままで、何か言おうとするものの、言葉がまったく出てきません。一方、モモの母は申しわけなさそうにして、娘に言いました。

「……分かったわね、モモ……。それがあなたの秘密……。あなたが人知をこえた、不思議な力を持っている理由……。ごめんなさい……。今まであなたに、何も言わないで……。ひどいと思っていたかも、しれないわね……」

「お母さん……」

 モモも母親も、おたがい目になみだを浮かべていました。母は言います。

「モモ……、どうか私をゆるして……。私には言えなかった……。もしも私が話したことがきっかけで……、あなたやあなたの周りに、恐れが生まれたらと思うと……」

 ここでモモは顔をしかめて、先ほどから気になっていたことをたずねました。

「恐れ……。どういうこと……? お母さん、さっきもちょっと、変なこと言った……。恐怖から逃げられないと、鬼が現れる、みたいに……。気持ちの問題じゃ、なくて……?」

 母は苦しそうに呼吸をしながら、娘に言いました。

「……ああ、モモ……。もうあまり、時間がないわ……。けど、いい……? 鬼はね……、人の恐れから生まれるの……。人の恐怖から生まれ、人の恐怖を食らう存在……。それが、鬼……」

 これを聞いて、モモの顔色は青ざめました。彼女はうろたえながら言います。

「恐れから生まれる……! じゃあっ……、ひょっとしてさっきの鬼は……! わたしが恐れたからっ……! わたしが自分のことを、恐いと思ったから……!」

「……ごめんなさい、モモ……。私のせいよ……。私がそういうことも、考えるべきだった……。けど、村の子を……、ううっ……」

 母はいよいよ苦しそうに言葉をつまらせました。モモはたまらず声を大きくして言います。

「村の子っ? わたしはもう大丈夫だから! それよりお母さんっ……!」

「モモ……、お願い……。虫のいい話だけど……、最後に、私のたのみを聞いて……」

「お母さんっ!」

 モモはなみだを流してさけびました。しかし、母は強いまなざしを娘に向けて言います。

「……あなたは、この村を出なさい……。村の人たちが、あなたを恐れることの、ないように……」

「村を……。でもっ、そんなっ……。わたし、どうすれば……」

 モモは激しくうろたえ、声をふるわせて言いました。一方で、母は弱々しく、けれどやさしくほほえんで、娘に言います。

「……モモ……。恐れては、だめ……。笑って……。ね? ……きっとこれも、定めなのだから……」

「でも、わたし……」

 モモの目から、なみだが止めどなくあふれます。母もまたなみだを流しながら、娘に静かに声をかけました。

「……生きるのよ、モモ……。そして……、そう……。おじいさんは、私に桃を食べさせる時……、桃に向かって、いつもこんな風に、まじないをかけていたわ……。それは、かつてイザナギの神が、桃に向かって言った言葉……」

「桃に……?」

 とまどうモモに対し、母親はまさに最後の力をふりしぼるようにして、次のように言ったのです。

「……『汝、我を助けしがごとく……、葦原あしはらなかくにのあらゆる人草ひとくさの……、苦しき流れに落ちてわずらい悩む時……、助けるべし』……」

 モモの母はそう言い終えると、糸が切れたかのようにがくりとうなだれて、動かなくなりました。

「お母さんっ! お母さんっ!」

 モモは大声で母を呼びました。すると、もはや魂の抜け出た母の体が、たちどころに白っぽくなっていきました。それからふいに、その体はくずれて無数の泡へと変わり、それらは弾けて、この世から消え去ったのです。

「お母……、さん……」

 モモは自分の腕の中に残った、母の着物だけをだきしめて、なみだのかれ果てるまで、泣き続けました。

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