夢叶う夜明け

星合みかん

第1話 奇跡の夜明け

 俺には、昔から身体の弱い幼馴染がいた。小さい頃はちょっと風邪を引きやすい程度で、よく一緒に外を走り回ったものだ。それが年齢が上がるにつれて学校を休む頻度が増え、二人でする遊びといえばどちらかの家でゲームや宿題をすることに変わっていった。


 事態が深刻になったのは、俺たちが小学校を卒業した後。中学の入学式の前に、彼女は入院した。春休み中、一度お見舞いに行ったが彼女は変わらず元気で、俺も俺の親も、彼女の両親でさえ、誰もそこまで心配はしていなかった。

「臓器移植をしなければ、余命三年」

 彼女の容体を知ったときのことは、よく覚えていない。ただ一つ記憶にあるのは、悲しいとか怖いとかじゃなくて、果てしない虚無感。背丈に合わない制服に着られていた俺に、三年後、大切な人を失う現実はあまりに重かった。


 もう一度彼女のお見舞いへ行った。病室の扉を開たとき、彼女には静かに窓の外を眺めていた。一瞬だったけど、その横顔が数日前より青く見えて、胸の奥が張り裂けそうになったのは、今でも覚えている。

 俺は、長い入院生活は退屈だろうと考え、彼女に貸す漫画を何冊か持ってきており、その話を矢継ぎ早に続けた。少しでも黙れば、嫌なことを考えてしまう。それが怖かった。

「この漫画の聖地、隣街なんだ。退院したら一緒に行こう」

 何気ない一言だった。ただ、自然に溢れた願い。

「ごめんね」

 彼女は寂しそうな笑みを浮かべて謝った。心が騒めく。

「……なあ、ほんとに治らないと思ってんのか? 大人が大袈裟なんだよ。大丈夫、ドナーだってすぐ見つかるし、絶対良くなるから」

 今思えば、俺はなんて無責任なことを言ったんだろう。辛いのは俺じゃないのに、自分の願望を押し付けるばかりで。

 彼女は、窓の外で風に揺れる葉桜を見つめた。長い髪の毛に隠れて、表情は見えなかった。

「仕方ないよ。これが私の運命なんだから」

 明るく努めているが、どこか悲しそうで、苦しそうで。昔のように無邪気に笑う彼女は、もういなかった。そんな彼女の姿に、俺は密かに決意した。この先何があっても、彼女は助かると信じ続けよう、と。


 それから俺は、部活のない日は必ず、自転車を飛ばして彼女へ会いに行った。最初は遠慮する彼女だったけど、次第にそれもなくなった。心なしか表情も柔らかくなり、少しずつではあるが以前のような明るさを取り戻していた。あの余命宣告は嘘だって、本気で思えた。


 でもそれは、俺が知っているところでの話に過ぎなかった。中学二年の秋、彼女は緊急手術を受けた。幸い大事には至らなかったものの、病は確実に彼女の身体を蝕んでいた。ドナーは未だに見つからない。このままでは、彼女の余命は残り一年半。その年月が本当なのか、考えたところでわかるはずなくて。手術後、俺に向けられた彼女の微笑みに、言葉にできない虚しさが押し寄せた。


 中学三年の夏に部活を引退してから、平日はほぼ毎日彼女の病室へ足を運んだ。俺のくだらない話に相槌を打つその笑顔は変わらないのに、彼女の身体は弱り続けていた。何かに掴まらなければ歩くことは出来ず、ペンは握れるものの、書く字の形は少しずつ崩れていった。

 夏の終わり、病室で勉強する俺に向かって、彼女は言った。

「かわいい制服を着て、学校に行きたい」

 窓の外の、鮮やかな緑色をした桜の木を見て。まるで、もう叶わないと嘆くかのように。


 そして、サンタクロースの足跡が消えかけていた雪の日に、奇跡が起きた。ようやくドナーが見つかったのだ。彼女からそう聞いたとき、俺は泣きそうになった。これで彼女は助かる。長い闘病生活から解放されて、自由になるんだ。必死に涙を堪えて、彼女と共に笑った。

 だが、奇跡というのはそう安いものではなくて。移植する臓器はある。しかし検査の結果、今の病状では手術に彼女の身体が耐えられる可能性は低いと、医者は言ったらしい。彼女に与えられた選択肢は二つ。手術を諦め少しでも長く生きるか、僅かな可能性にかけて危険な手術を受けるか。

 彼女の両親は手術を諦める決断をした。当然だ、大切な娘にそんなハイリスクな手術を受けさせるなんて、俺が親の立場でも絶対にごめんだ。

 けれども、彼女は手術を受けたいと言うのだ。もちろん両親は猛反対した。その手術の難しさを何度も説明され、母親は泣いて説得した。それでも、彼女は意見を曲げない。

 挙句、彼女の両親は俺に助けを求めてきた。正直なところ、自分の気持ちはよくわからない。彼女がどうしてもと言うのなら、受けてもいいと思うし、もし失敗したらと考えたら、諦めて欲しいとも思う。

「なんでそんなに、手術を受けたいんだ?」

 彼女は微笑んで、しんしんと降り積もる雪を眺めていた。その哀愁を帯びた横顔が、同い年の少女のものとは思えなかった。

「私ね……まだ生きたいの」

 色の薄い唇を震わせて、矛盾しているような言葉を紡ぐ。

「じゃあ、手術はやめた方がいいんじゃないのか?」

 彼女は、首をゆっくりと左右に振った。

「数ヶ月とか、そんな話じゃない。高校生になって、大学に行って、就職して……できれば結婚してさ、子供が産まれて、その子たちを立派に育てて、おばあちゃんになって……全部、私の夢」

 夢というには大袈裟すぎる、普通の道。それでも彼女にとっては憧れで、理想の生き方なのだろう。

「手術をやめて数ヶ月生き延びたとして、それって何になるの? 私の夢は何一つ叶わずに、ここで死を待つだけ? そんなの嫌。たとえ手術が失敗しても、夢に挑んで死ねるなら、何の後悔もないよ」

 口調は弱々しいけど、その裏側には誰よりも力強い思いがあった。

 ———そうだ俺、決めたじゃないか。彼女は助かるって信じる。

 俺は彼女の両親に事の顛末を伝え、頭を下げた。

「彼女が望んだことです。どうか、考えてみてもらえませんか?」

 二人は唖然とした様子だったが、彼女の夢を聞いて表情が変わった。彼女の意思を頭ごなしに否定していた二人だけど、それは娘を想うが故。ただ、幸せを願ってるだけなんだ。

 数日後、手術を受けさせることにしたと、彼女の母親から聞いた。手術が行われるのは約ニ週間後、俺の高校入試と同じ日だった。


 手術前日、いつものように俺は彼女の病室で勉強をした。不安なところを集中的に解説してもらって、あとはいつも通りに。時の流れは早いもので、あっという間にいつも病室を出る十七時を迎える。

「俺、そろそろ帰るよ」

 彼女は読んでいた本から顔を上げ、黙って頷いた。穏やかな笑みを浮かべて。

「うん、今日もありがとう。明日頑張ってね!」

 ———その笑顔を見ることは、もうないかもしれない。

 信じるって決めたけど、やっぱり不安で。

「……あのさ、俺っ———」

「終わったらさ」

 彼女は、一際大きな声を出して俺の言葉を遮った。

「……会いにきてね。約束」

 細くて今にも折れそうな小指を、俺に差し出した。慎重に指を絡めると、彼女は幸せそうにその指を見つめた。それも一瞬で、すぐに指を解き「またね」と笑う。俺は頷くだけで、何も言えずに病室を出た。

 ———結局、笑顔でいられなかった。励ましてあげることも出来なかった。彼女の目を見ていられなかった。好きって伝えられなかった。

 一人バスを待ちながら、少し泣いた。


 試験が終わり、すぐさま彼女の病院へ行った。口に酸素マスクを付け、全身に管を貼られた彼女の姿を見て、これまで感じたこともないような不安に駆られた。鼓動は速くなり、全身から冷たい汗が噴き出す。

 一晩だけ、彼女の両親と共に付き添うことを認められた。「もう最期かもしれないから」って。

 俺は一旦家に帰り準備をして、病院に着いたのは二十時頃。彼女の両親からは仮眠を促されたが、家で寝て来たので遠慮した。

 彼女のベッドの横に座って、気がつけば六時間近く経過した。彼女の両親は時折親族からと思われる電話に対応し、心身共に疲弊しているようだった。

「休んでください。俺が見てますよ」

 着信が落ち着いたのを見計らって声を掛ければ、二人は悩んだ末に病室を出た。

 彼女と二人きりになって、どれくらい経っただろう。彼女が今にも動き出しそうに思えてならなかった。昨日触れた小指がさらに細くなったように見えた。

 さらに時間が過ぎて、看護婦に仮眠を取るように言われた。俺は断ったのだが、半ば強制的に仮眠用の部屋へ連れて行かれた。彼女の両親と離れたベッドに横になると、流れるように彼女との思い出が蘇る。これは俺の意識なのか、それとも———

 

 ふと、目が覚めた。彼女の両親はまだ眠っていた。やはり疲れが溜まっていたのだろう。早く、彼女の元へ戻らなければ。

 嫌に静かな廊下には、俺の足音だけが響いた。病室のドアを開ける手が震えて、最悪の事態が脳裏を過る反面、もし目を覚ましていたらと期待してしまう。深呼吸をして、ゆっくりとドアを右に引く。

 ———まだ、俺は夢の世界にいるのかもしれない。黒と橙色が混ざった、夜が明けて間もない窓の外を、彼女は身体を起こして眺めていた。あの哀愁漂う横顔ではなく、世界に希望を見出したような、そんな……

「……り、ん…………?」

 掠れた声で名前を呼んだ。彼女の視線が、窓から俺に移る。

「っ……優くん……」

 一歩一歩、地に足が着くのを確かめるかのように、彼女に歩み寄った。

「……会いに来てくれたんだね」

 静かに涙を流しながら浮かべた笑みは、いつかの幼い頃、一緒に外を駆け回った少女のものと同じ。握られた手から伝わる、温かな感触。これが、夢なはずなかった。

「り、ん……凛っ‼︎」

 涙がとめどなく溢れて、らしくもなく思いっきり泣いた。

 もう一度、奇跡は起きたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る