サンドイッチ地獄

@75nanajugo

サンドイッチ地獄

 ここは、古い喫茶店。こういうのを純喫茶って言うんだよな、と私はぼんやり周りを眺めていた。テーブルとか窓の木枠が深い焦茶色で、壁が少しタバコのヤニで黄ばんでいる。照明は白熱球で、あたたかい光が店内を照らす。それぞれのテーブルにはそれぞれ微妙に異なるデザインのステンドグラスのライトが置かれているところに、店主のこだわりを感じる。窓際の角の席には常連っぽいおじいさんがいて、慣れた手つきで新聞を捲りながら、一定のペースで珈琲を啜っていた。

 そんなふうに周りを観察するくらいの平静を保ちながら、私はその店のカウンター席に座っていた。左右には、私よりひと回り年上の男性と、男性と同年代と思しき女性が座っている。コーヒーは全く手をつけていないまま、湯気を失っていた。なんでカウンター席しか空いていないのか。おじいさん四人席を一人で陣取ってるじゃないか。顔を顰めるのをぐっと堪える。

「で、あなたはこの子のことが好きなんでしょう。いいのよ、私はもう」

私の右に座る女性が口を開いた。あなた、とはもちろん、男性のことだ。

「違う、誤解だ。俺はそういうつもりはないんだよ」

私の左に座る男性が焦って捲し立てるように話し出す。この発言にはちょっと笑いそうになってしまう。もう妻とは離婚秒読み、毎日会話もなく愛されていない。俺には君しかいないんだ。そう言って私の家から自宅に帰るまでの間ラブラブなLINEのやり取りをし、家に入る前に律儀に削除していましたよね。いやほんと、そもそも私を挟んで座るのやめてくれませんか、なんて口に出せるわけもなく。

 この男とはもう終わっているのだ。気の迷いで誘いに乗って、可愛い可愛い言われて調子に乗って、奥さんよりも自分のこと価値が高いんじゃないかなんて、ちょっといい女になった気がしてあれよあれよという間に3年経っていた。

 ある日、仕事中に会議室に呼び出され真っ青な顔でこの男は言った。『妻にバレたかもしれない。この間の二人の写真がクラウドに同期されてて家のPCで見られた』。

 目から鱗じゃなくて目ん玉ごと落ちるかと思った。見つかり方もそれなりにダサいのはさることながら、それまで私の自己肯定感を高めてくれていた、この男の情けないことよ。全くもって、別れる気がないその態度に、私の存在が、ただの暇つぶしだったのだとその瞬間突き付けられたのだった。

 あっけに取られた私は、思考停止したまま、その次の日退職届を直属の上司であるその男に提出した。男は理由も聞かず、静かに受け取った。一体、上層部にはどう説明をしたのかは知らない。色々な仕事を放り出し、逃げ出すように会社を辞めた。その後は、それなりに傷ついたので、しばらく泣いて飲んだくれて暮らした。3年というのは、それだけ長い期間だった。とはいえ、因果応報。己の行動の当然の報いだと、失うものは失えと思って好きだった仕事を捨てられたのだ。しかし、その数ヶ月後に、私の存在を突き止めたこの男の妻が、私に連絡を寄越して3人で話したいと言ってきた。ちなみに、私は、まだ無職だ。


 2人のやりとりが一旦収まったので、いよいよ話をすることにした。

「私、もう会社は辞めたんです。旦那さんにお会いすることは金輪際ございませんし、ご迷惑はもうおかけしません。慰謝料も必要でしたら、ゆっくりかもしれませんがお支払いいたしますのでご請求ください。今無職なんで。それにこの人はご家族が大事で、私のことは遊びだったんです。ただ、近くにいた、ちょうどいい女だったんです。それ以上でも、それ以下でもなかったんです」

男性の妻は、冷ややかな目で私を見つめながら話を聞いている。私は目線を冷めた珈琲から離せない。

「2年前に、婚約者に逃げられて、もう死のうかと思ってたんです。そんな時に慰めてもらって、煽ててもらって、いい気になって。捨てられてどん底だった自分にも、価値があるような気になって。でも全然そんなことないんです。この人、家族行事絶対サボらないじゃないですか。子供の習い事の送り迎えもちゃんとするし、土日は勉強教えるし、結婚記念日にはちゃんとレストランにお食事に行かれるんでしょう。大事にしてるってそういうことなんですよ。週に何回か会うだけで、やり取りも確実に毎日消す。それが、この人の、優先順位ということです。私はもう、いいんです。奥様の気がすむようになさってください」

唇はカラカラに乾いていた。泣くもんかと思っていたのに、話しながら鼻の奥が痛くなる。

「たまごサンド、食べようか」

奥さんが静かに言った。流れるように店員に「たまごサンドふたつ」と注文を進めた。私はつい、奥さんの顔を見つめてしまった。

「だって美味しいんでしょう、ここの」

意地悪そうに笑った。確かにこの店の名物とは聞いていたが、なぜ急に。

ああ、それにしてもこの人はすごく美人だ。私は、自分の方がずっと若いからって、この人よりきっと上なんだって思っていた。馬鹿野郎だ。浅はかだ。男が若い時は超絶モテていただろうビジュアルなんだから、奥さんだって同じに決まっているじゃないか。

 しばらくして、サンドイッチが私と奥さんの前に置かれる。男はずっと黙っていて、ずっと貧乏ゆすりをしていた。

「ささ、食べよ」

奥さんに促されて一口食べる。ここのたまごサンドは、厚焼きたまごを一度揚げてからサンドしている。たまごカツサンドだ。頬張るとたまごの香りと甘みがフワッと口に広がる。そこにカツの香ばしい香りとジュワッとした油の風味。

「あら美味しいわね。ふふ」

そう言いながら、奥さんは静かに涙を流していた。

「私ね、共働きで、最近昇進したのよ。だから仕事量もやっぱり増えて、この人に家事に協力してっていつも怒ってた。それなのにいつもこの人ばっかり帰りが終電で、毎日のようにあなたのとこに通ってたのよ。笑っちゃう」

食べる手を止めないで、奥さんは話し出す。

「この人が使い物にならないから、仕事を持ち帰ってきて家事をやって子供が寝たら仕事をする日々よ。全く協力的じゃないわけじゃない。でも私のことだってよっぽど蔑ろにしてるのよ。そのくらい、この人は自分のこと以外考えてないの」

男の貧乏ゆすりが止まった。

「だから、あなたとの写真を見た時に目茶苦茶腹がたった。すごい楽しそうなんだもの。こっちがどれだけ頑張ろうと、夫婦なのにひとりぼっちなんだって思った。夫婦になるって、一緒になることだと思ってたのにね。救いは、子どもたちがいることくらいね。だから、私は別れないし、あなたのことも許さない。この人は、もし子どもたちが大人になっても許せなかったら、誰からも相手にされないくらいのところで放り出してやるわよ」

私は静かに頷いた。

「でも慰謝料は貰わない。知ってた、私の方がこの男より稼ぎがいいのよ。あ、でもこのお店のお勘定くらいはお願いしようかな」

カウンターの隅に置いてある伝票を私に渡して奥さんは立ち上がる。

「あんた、もしこの子がちゃんと好きならここに残りな。私とちゃんと家族やってくなら帰るよ」

男はパッと顔をあげ、「帰る」と一言呟いた。奥さんは眉間に皺を寄せつつも、私に頭を下げた。

 ひとり残されたカウンターで、サンドイッチの残りをもそもそと食べる。揚げてあるからやっぱりちょっと重たいな。サンドイッチだったら、フルーツサンドとかも食べに行きたいな。小さい頃にお母さんが作ってくれたピーナツバターのサンドイッチが食べたいな。そんなことを、そこはかとなく考えていた。

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