ある独白

 少女は初めて故郷を飛び出し、今最愛の男と江戸へ向けて歩いていた。隣の愛しい男が、優しく手を引いてくれる。少し気恥ずかしく思いながらも、これからの新生活に想いを馳せていた。

 しかし足どり軽く進む彼女とは対照的に男は黙々と歩を進めている。その仕草からは好いた女性と一緒になれる嬉しさは微塵も感じられない。

 もうすぐ江戸の町に着こうかと思う頃、男はふと足を止め振り返ると、恋人を抱きすくめた。突然の行動に少女は顔を真っ赤にしてアワアワとしていたが、冷静になってくると首にそっと手を伸ばして抱き返す。

 少女は気づいていた。本当は男が自分と一緒になれるほど裕福ではないことを。必ず迎えに来るという約束で、自分も奉公へ行くこと。その為、両親には最後まで自分と目の前の男が恋仲であることは言わなかった。


 それでは一度しおりを挟んで本を閉じてください。

 え? 物語の途中だぁ? そんなのこちらの知ったことではありませんよ。書き手のアタシが本を閉じろと言ったのですから、大人しく閉じてくださいよ。

 そんなことどうでもいいので、アタシの話を聞いてくださいよ。これでもおもしろいネタいくつかあるんですから。……話の続きを読みたい? この話に続きなんてありませんよ。どうせこの女は騙されてるんだから。だってどう見てもこの男、女衒じゃないですか。

 大体ね、女のほうも気づかないもんですかね? 住所・職業ともに不定の男で、『彼の収入が安定したら一緒になる』なんて夢のまた夢でしょ。……今度はなんです? オチを先に言うな? あなたが知りたがったから、パパッと教えて差し上げたんじゃないですか。物語を読み進めて知りたかった? いやいや、でもアタシはあなたと話したくなったんですもん。そりゃ物語途中で止めても話しかけちゃうでしょ。

 ねぇ、アタシの話を聞いちゃくれませんかね。アタシは物書きを始めて五年弱のまだまだひよっこなんです。アタシには書きたい話がたくさんあるのにそれを世に出せる技術が追い付かない。現にあなたはアタシの小説を読んでくれたけど、ここに立ち寄る人なんか滅多にいない。……だから話しかけちゃったんですけどね。

 まぁそんなのどうだっていいんですよ。アタシは自分の物語を読者に読んでほしいけど、それ以上に自分の話だって聞いてほしいんです。ハイハイ、わかりましたよ。そんな目で見ないでください。大人しく続きを書きますって。急かさないでよ、ちょっと雑談しただけじゃん。


 これは彼からの提案だった。男はあくまで江戸での身元引受人ということにし、生計が立てられるようになったら一緒になる。両親に嘘をつくのは心苦しかったが、それでも大切に育ててくれた親に心配をかけたくなかったのだ。

 少女が恋人を見上げると、ちょうど彼と目が合う。眉をハの字に下げ、ふにゃりと微笑む姿に嬉しくなった。少し頼り無さげに見えるが、誰よりも優しい恋人。この笑顔に惚れたと言ってもいい。男は腕をとき、見慣れた笑顔で再び歩き出す。江戸へ続く一本道は、紫陽花の花で彩られていた。


 ではここで一度しおりを挟んで休憩です。

 はーいどうも~、それでさっきの話なんですけどね。……またあなたですか。えーえー、わかってますよ。続きが知りたいんでしょ? 別に予想通りですよ。女は騙されてることにも気づかないままノコノコ村をでちゃうんですから。だからどうせこれは陳腐な結末です。はい、もういいでしょ。いい加減アタシの話に耳を傾けてくださいよ。

 アタシ実は物書きになる気なんてさらさらなかったんです。だって創作って難しいし、ヒットしなきゃ売れるかどうかもわからない商売だ。そんな人生賭けた博打、アタシにはとても打てません。

 ……じゃあなんでここにいるのかって? そりゃあ人間ですし、夢は簡単に捨てきれないからですよ。実際、アタシのサイトは寂れてるし人が来ること自体珍しいけど。

 こんな話、聞きたくない? 失礼な人だな。そうですね、ではこんな話はどうでしょうか。これはこの小説の裏話とも言えるでしょう。アタシはこれを書く前、フラッと遊郭に寄ってみたんですよ。そう、吉原の大門を抜けてね。別になんの変哲もなかったんですけど、ふと目に止まるものがあった。

 彼女はその張見世にいました。憂いを帯びた瞳に、気だるげに持つキセル。その姿だけでもう、耽美な人だと思わせる色気があったんです。

 あー! なんか急に物語が書きたくなっちゃったな。アタシの話はここで一旦おしまい。はい、切り替えて切り替えて。では本を開いてー-


 しばらく歩くと、大きな関所が見えてきた。少女が初めて見る巨大な門を前に立ち尽くしていると、男はそっと手を解き門を潜ると、その内側へと手招く。

 高鳴る胸を押さえつけ、彼の胸に飛び込みかけた時、ふと門の先の風景が目に入った。

 町には赤提灯が並び、建物は天にも届きそうな立派な作りをしている。町を闊歩する女性たちもきらびやかに着飾るがやはりどこかおかしい。


 ではここでもう一度しおりを挟んでください。はー、疲れた。小説を書くのって意外と大変なんですよ。誤字脱字だ、ここの表現が変だの、さんざんな言われようだ。全く、嫌になっちまいますよ。

 さっきの続き? はて、そんなものお話ししていたでしょうかね。あー、待って待って。わかりました。さっきの続きですね。ったく、なんで口走っちゃったかなぁ。

 どこまで話しましたっけ。そうそう、遊郭に繰り出したところでしたか。まぁその……いわゆる一目惚れってやつですかね。とにかくアタシは彼女に顔を覚えてほしくて、金をかき集めて彼女のもとに通い続けました。

 彼女は茶引きでしたが、元々大きな妓楼に所属し、末は太夫といわれるほどの器量良しでした。しかしあることがきっかけで、今の妓楼へと移ったそうです。

 まぁよくある痴情のもつれですよ。「迎えに来る」という口約束を一途に信じ続けて反故にされたクチです。

 彼女はありもしない約束を信じ続けて、身請け話を破談にしたそうです。もしそれがうまく行ってたら今ごろ有名な大店の女将ですよ。……いや、よくて妾か。とにかく誰もが知る大店の主人が彼女を身請けようとしたそうです。まあアタシとしましては? 彼女が身請けされなくてよかったと思いましたがね。だって高嶺の花ですよ。彼女があの見世にいなけりゃきっと出会えなかったし、アタシは小説家としても大成せず惨めに一生を終えたでしょう。いや、いまも大成はしてないから一緒か。

 いやぁそれにしてもアタシは幸運でした。なぜって? だって本来の彼女ならお目通りすら叶わない相手ですから。あの見世にいてくれたお陰で、アタシのちっぽけな給金でも無理なく通い続けられましたから。

 実際、会話をしてみてますます惚れてしまいましたよ。器量の良さはさることながら、教養がある。アタシのつまらない話にも笑い興じてくれましたからね。……本当に、好い人でしたよ。それと同時に泡沫に消えた夢をいつまでも追い続ける哀れな女でしたが。

 とにかく彼女はその見世でも想い人を待つと言っていました。どうやらアタシは恋愛ごっこの戯れだったみたいです。


 最期に彼女に会った時、貴女の身の上を物語にしてよいか聞きました。彼女は快諾してくれて、出来上がったら見せてと言ってくれました。ですが、何年待とうが彼女がアタシの小説を読んでくれることはありませんでした。

 ……少し長話をしてしまいましたね。ここまで来たんです。もう最後ですからちょっと長いですけど物語に戻りましょうか。


「ここが君の奉公先だよ。店はまだ決まってないけど、ちょいと頑張れば衣食住に困らない。君、芸事は一通りできたよね? それなら良いんだ。なんでもないよ。ひとつ助言をするならこれらがきっと君を助けてくれるからね」

 流されるまま再び手を引かれ大門に近づく。だが、大門の横にかけられた看板を見たとき、足がすくみ震えが止まらなくなってきた。

 必死に恋人の袖をつかみ、引き返そうと説得を試みるが、男は振り返ると今まで一度も見せたことのない表情に豹変していた。

「え、帰る? イヤだなぁ、君に帰る場所なんてないだろ? 君の身元はボクが引き取るってもう決まったんだし、君も同意したんだ。君の両親だって君が奉公に出ることを喜んでいただろ? そんな君をどうしようがボクの勝手じゃないか。それを今さら覆すなんて……仕置きを望むのかい?」

 男は艶然と微笑み、不安そうに自分を見上げる女の顔を覗き込んだ。


「まいど~、やり手婆!いいの入ってるよ!

 ちょっと威勢が良すぎるとこはあるけど、器量良しだ。多少歳食っちゃいるが、良家の出なもんで芸事は一通り仕込まれてる。こんなにお買い得なもの滅多に出ないぜ?今なら10両で売ってやる」

 男はくるりと振り返るとあの大好きだった笑みを張り付けてのたまった。

「さあ、今日からここが君の家だよ。え? ボクは一緒に住まないのかって? はは、何言ってるんだよ。ボクはしがない女衒。女郎屋に売った商品と一緒になるわけないだろ?

 でもまぁ正直、君を売ってしまうのはスゴく惜しい気がするんだ。……そうだ! なぁもし君がボクのために頑張ってくれるなら必ず君を迎えに来るよ。約束する。情男(イロ)なんて作らないでくれよ? ま、たまには様子見に来るからさ」



 どうでした? え、後味悪すぎる? いや、最初に言ったじゃないですか。女は騙されてるって。それでも読みたがったのは貴方ですよ。

 まぁもうこれで小説は本当に終わりです。結局貴方もアタシの待ち人ではなかった。全く、彼女はどこをほっつき歩いているんだか。早くこの話を読んでほしいのに……。

 あ、ちょっと! まだこれの余韻に浸っててくださいよ。そんなサクサク帰り支度しないで待ってったら。行っちゃった。


 おや、誰かがまた読みに来てる。今度こそアタシの話を聞いてくれるかね。さて、扉の影に隠れてっと。幕間まで読み進めたら声をかけよう。よし、いまだ。

 はい、それではここでしおりを挟んで本を閉じて……。

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短編集 柴深雪 @shiba_Daniel

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