散る花はまた来ん春も咲きぬべし
「桜の散る姿は風情があるのに、首から落ちる椿は美しくない。そうは思わない?」
少女の問いかけにまだ幼い少年は首をかしげた。
「つばきの花は赤くてきれいだよ」
少年の答えに少女は苦笑し、まだわからないか、と呟いた。少女は少年の頭を撫でるのをやめ、目の前に広がる花畑に視線を移した。眼前には一面真っ白な雪景色。しかし、そこには雪に埋もれず美しい椿の花が顔を覗かせている。
少女が歩き出そうとしたとき、小さな手にくいっと裾を掴まれた。
「でもねぼく、さくらよりもつばきの方が好き。だって――」
そこでいつも意識が浮上する。ぼく、いや俺はいったい何を言ったんだろう。確かに彼は覚えている。あれは本当にあった出来事だ。雪に埋もれず、眼前に美しく咲く椿の様は昨日の事のように覚えているのだから。
考えても始まらない、と彼は首を振り布団から起き上がった。
支度を終え、部屋を出ようと立ち上がったところ勢いよくふすまが開いた。ふすまの開いた先に目をやると薄桃色のスカートに白いブラウス、新緑のスカーフを身にまとった少女がいた。
「おはよう! 今日こそさくらと遊んでちょうだい!」
少女は元気よく挨拶をすると、今日も青年に抱きつく。青年は渋い顔をし、首を横に振った。
「ダメですよ。俺は今日も仕事があるんです。お嬢さんこそ俺のところにばかり来ないで、他の子と遊べばいいじゃないですか」
青年が冷静に少女の誘いを断る。
「そう言ってまたミツバのところに行くんでしょう? ダメよ! 今日こそさくらと遊ぶの!」
しかし少女はなんとしても青年と遊ぶのだときつく彼の服を握りしめた。青年はやれやれといった様子で少女を諭した。
「ミツバさんは関係ありませんよ。それに俺は元々庭師ですから、庭に行くのは当たり前でしょう。それにほら、貴女の王子が探していますよ」
遠くからさくらを呼ぶ声が聞こえ、ドタドタと青年の部屋に青年と同じ衣服の男性が入ってきた。
「いた! さくらお嬢さんまたツバサの所にいたんですね! ダメですよ、お嬢さんの世話役はこの
息を切らしながら部屋に入ってきた青年は、桜士と名乗りさくらを見つけると、一気に捲し立てた。彼がさくらに手を差し伸べ、さあ帰りますよと言うと彼女はその手をはたき落とした。
「嫌よ! さくらはツバサと遊ぶの! 桜士はあっち行って! ツバサ! あれ、ツバサ?」
さくらは桜士からそっぽを向き、ツバサを探すが、そこにはもうツバサはいなかった。
庭に出ると、彼の目の前には見事に咲き乱れる色とりどりの花々があった。
青年は既に作業を開始していた仲間に挨拶をしながら、自分の担当である椿の生け垣の前に来る。
生け垣の前には既に花を眺めている少女がいた。
「おはようございます。ミツバさん」
ツバサが話しかけると、少女はゆっくりと身体をツバサの方へ動かし、おはよう、と小さく笑った。ツバサは少女に笑いかけ、彼女とならんで椿の生け垣を眺めた。
「ミツバさんは本当に椿がお好きですね。この椿の精は、やっぱりミツバさんなんじゃないんですか?」
ツバサが問いかけても少女は首をかしげるだけで、明確な回答をしない。彼女にはわからないのだ。自分がどの花の精であるのかが。
花には【花の精】が宿る。しかし、今の世界では【花の精】を視認することはできない。彼らを見ることができたのは、人の世がもう少し自然と交わっていた頃だからだ。しかし、この屋敷では【花の精】たちが少年、少女の姿をとって具現化する。屋敷の花には一品種ごとに【庭師】がつき、彼らはその役目を終えるまで花の世話をし、彼らに尽くす。
【花の精】は自分がどの花の精であるかを生まれながらに理解し、花が美しく咲けば咲くほど、彼らの美貌にも磨きがかかる。
ミツバはこの屋敷にある日、ひょっこりと現れた少女だった。しかし彼女には自分がどの花の精であるかの記憶がなかった。
「ツバサも、椿好きでしょ?」
「好きですよ。好きじゃなかったら俺は椿の【庭師】になっていませんから」
ミツバはツバサの答えに満足したのか、ニッコリと笑い返し、生け垣の近くに設置されたベンチにストンと腰を下ろした。ここは彼女の定位置である。にこにこと微笑みながら椿の観察を始める彼女に、ツバサも何も言わず作業を開始した。
ツバサが世話をする椿の生け垣は屋敷でも随一の美しさを誇っていた。しかし、彼の椿はどれだけ世話を焼いても一向に【花の精】が現れなかった。
彼は今日も伸びた枝葉を均一に整え、真っ赤に咲き誇る椿を手入れする。一通り手入れを終えた頃ふと、視線を感じて振り返った。振り返った先にはさくらがいた。
「ツバサ、午前のお手入れはもう終わったでしょ? さくらと遊んでちょうだい!」
「お嬢さん、午前の仕事を終えたからって暇になるわけじゃあないんですよ。それに遊ぶ相手は俺以外にもいっぱいいるでしょう?」
ツバサは仕事道具をしまいながら、彼女に語りかける。彼はさくらの隣に目をやり、良い案を思い付いたとばかりに、彼女に話しかけた。
「そうだ、ミツバさんと遊べばいいじゃないですか。ミツバさんも俺以外に話し相手がいた方がいい。お嬢さんもミツバさんと遊んだ方が楽しいですよ」
するとさくらは顔を真っ赤にして怒り出した。
「嫌よ! ミツバとなんか絶対嫌! ツバサを独り占めしているあの娘とどうして友達にならなくちゃいけないのよ!」
「そんな、独り占めだなんて。ミツバさんは椿が好きなだけですよ」
「? 私はツバサのことも大好きよ」
ミツバが微笑みながら言い返すと、ツバサは開いた口が塞がらないのか、戸惑いの声をあげていたがとうとう顔を赤らめて座り込んでしまった。
「ツバサの浮気者!」
それを見ていたさくらはすっかりとへそを曲げて、一言叫ぶと走り去ってしまった。
夕方、屋敷にはかつてないほどの暴風雨が来ていた。【春の嵐】だ。毎年春先には力強い風が吹く。庭師はこの【春の嵐】から自分の花畑を守ってこそ一人前とされる。庭師たちは午後から対策のために手を打ち、その日の作業を終え、屋敷に戻るころには空模様は怪しく、春の嵐がくる目前であった。
その日はいつもと同じ春の嵐のはずだった。しかし、風圧はすさまじく、長年屋敷を守り続けてきた防風林を次々となぎ倒してしまう程だった。
「今年の嵐はすごいな。このまま油断していたら草木が持っていかれる。一刻も早く花の精たちの力を借りなくちゃ、乗り越えられないかもしれない」
「皆で協力しないと厳しいぞ」
「
庭師たちは大広間で話し合い、屋敷の主である花の精、久杉に助言を求めた。彼も庭師たちの意見に賛成し、屋敷にいる庭師や花の精たちに大広間へ集まるよう声をかけた。
「皆よ。こたびの嵐、ただの嵐ではないぞ。庭師と花の精、力を合わせて心して努めよ」
庭師や花の精が集まった大広間で久杉が威厳のある面持ちで宣言をし、それを聞いた人々は結束を固めた。しかし、一人だけ浮かない表情の者がいた。
「ツバサ、どうしたんだ? 顔色悪いぞ」
ツバサの隣で演説を聞いていた桜士が彼の顔を覗き込む。
「桜士どうしよう。俺の椿は花の精がいないんだ。去年は嵐がそこまでひどくなかったからしのげたけど、今回の嵐はダメかもしれない。俺、やっぱり今日は小屋で花たちを見守るよ」
「何言ってんだ! 外は今危険なんだぞ! もしお前が怪我したら誰が椿の面倒を見るんだ! あの椿たちはお前しか見れないんだぞ!」
ツバサは彼の剣幕に押されかけていたが、負けじと反論した。
「でも俺がそばにいてやれば、何かあった時にすぐ対応してやれる! なあ、お前だってさくらお嬢さんが危険にさらされたら迷わず駆けつけるだろ?! 頼む! 行かせてくれ……」
桜士がツバサの言い分に言いよどんでいると、今まで彼と一緒にいて何も言わなかったさくらが口を開いた。
「ツバサ、さくらたちのことをみくびらないで。さくらたちは貴方たち人が思っているほど、儚くも弱くもないわ。たしかにさくらたちだって強い雨風にさらされ続ければ折れてしまうこともある。でもね」
さくらは桜士から離れ、ツバサの眼をまっすぐと見つめはっきりと言った。
「さくらたちは次の季節にはまた花を咲かせる。さくらたち意外としぶといのよ。それに、ツバサにはミツバがいるでしょ」
彼女の口から意外な人物の名が出たことに、桜士ともどもツバサは驚いた。
「さくらお嬢さん……。とうとうツバサ離れをする決心がついたんですね……。それに素晴らしいお言葉! 桜士は恐悦至極にございます!!」
「うるさいわよ桜士! それにさくらはミツバを認めたわけじゃないわ!」
泣きながらさくらを抱きしめようとする桜士を彼女はうっとうしそうに避けながら言った。
ツバサは彼女の主張に耳を傾け、ハッとして周囲を見回すと、ミツバを見つけた。彼女はいつもと同じように窓から椿を眺めていた。しかし、その表情は何か意を決したようだった。
彼女はツバサに気づくといつもと変わらない花のような笑みで彼に笑いかけた。
「大丈夫。椿は大丈夫よ。この屋敷の皆を信じて」
翌日、花の精たちの加護の力により、屋敷の花畑は【春の嵐】を乗り切ることが出来た。いくつか花が散ってしまった植物もあったが、庭師たちの努力の甲斐もあり、順調に元の美しい姿を取り戻しつつある。さて春から夏にかけて咲く花もあれば、散る花もある。桜も椿も徐々に散り始め、屋敷はまた春とは違う顔を見せ始めた。
桜が徐々に散り始め、さくらの装いも新緑のワンピースにモカブラウンのリボンなど、葉桜らしくなった。彼女は相変わらず、ツバサへアタックし続けている。ミツバもまたいつもと変わらず、ツバサが世話する椿を眺めていた。椿は花が落ち、生け垣には葉だけとなったが、その足元に赤い絨毯が広がり土を埋め尽くした。おもむろに彼女はぽつりと言った。
「桜の散る姿は風情があるのに、首から落ちる椿は美しくない。そうは思わない?」
夢と同じ問いかけにツバサは少し動揺した。しかし彼は夢とは違い、今度ははっきりと答えることが出来た。
「椿の花は赤くて綺麗です。それに俺は桜より椿の方が好きですよ。だって、美しい姿のまま散る椿はどんな花よりも綺麗ですから」
その時突風が吹き、地面を埋め尽くしていた椿の花を巻き上げた。ツバサが思わず手で風を防ぐと、椿の花をまとった風は、ミツバの身体に巻き付き、その小さな身体を覆いつくしてしまった。
「ミツバさん!」
ツバサが慌てて彼女の元に駆け寄ると花弁は一瞬で消え去った。
「ミツバさん大丈夫ですか?!」
彼が彼女の安否を確認するために視線を移すと、ミツバの着物は赤い椿の花で染め上げたように鮮やかな朱色に染まっていた。
「ミツバ……さん……?」
「
未椿は椿紗の手を取り微笑む。椿紗は驚いて手を一度引っ込めかけた。しかし、彼女の姿をまじまじと眺め、彼女こそ夢でずっと見続けた少女だと気づいた。
「やっぱりあれは夢じゃなかったんだ。未椿さん、貴女が椿の精なんですね」
「そうだよ。今まで椿を大事に育ててくれてありがとう。君のおかげで私は椿の精でいることを誇れる。これからも私を大事にしてくれるね?」
未椿はにやりと笑い、椿紗に言った。椿紗は彼女の問いにははは、と笑い力強くうなずいた。
「俺が何年貴女を待っていたと思います? やっと花の精が現れたんだ。一生貴女様の庭師であると誓います」
「ふふ、大げさだねえ。期待しているよ」
その時、ひときわ大きな風が吹いた。春は終わりを告げ、もうすぐ暑い夏がやってくる。
屋敷の花たちは季節によって違う顔を見せる。屋敷の花の精たちは輝き続ける。なぜなら彼女たちのそばには、いつでも彼女たちを一番に考える庭師がいるのだから。
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