午後5時11分

雨は早々に上がったけど、空はだいぶ暗い。今日はおそらくこのまま夜だ。

目指す寺は「店出てまっすぐやよ」とおばあさんが教えてくれた。ちょうど街灯で門が照らされている。分かりやすくて助かった。

ここから長い道のりでは今度こそ迷ってしまうだろう。

勢いをつけてバッグを方向転換させた。



お寺って、入る前なんかするんだったっけ。

長年の雨風を感じさせる門構えを見上げる。ゆっくり息を吸うと、雨の匂いがした。

足元のこの出っ張りは踏んじゃいけないんだったな、確か。

立ち尽くしていても仕方が無いため、深く腰を折った。お辞儀なら間違いないだろう。

敷居をまたぐと、膜でも張られていたかのように内側は静かだ。石畳と重くなったバッグの車輪がぶつかって大きな音を立ててしまう。悪いことをしている訳ではないのに自然と忍び足になった。

あとは木々を揺らす風の音だけだ。

蝉はとうに鳴き止んでいる。

極端に厳かな雰囲気にワクワクさえしてきた。


本堂の背中で雑木林が風に揺れている。黒く大きな影は妖しいオーラみたいだ。素通りはできない。

じいちゃんは、神様の前で財布を出すなと言っていた。

さっきのお店で急に思い出し、おつりは仕舞わずポケットに入れておいた。賽銭箱に2枚ほど落とす。箱の底で、やけに大きな音がした。静かな空気がより際立つ。

神聖な気分だ。

いざと背筋を伸ばしたが、再び木々がざわめくのを見て息を呑んだ。

影に囲まれたように感じ、音に紛れて何かが背後に近づいてきそうにも思える。目を閉じて拝むのはやめておこう。やっぱりちょっと怖くなってきた。

ワクワクだと思っていた心拍数の上昇は、恐怖と、残ったアルコールのせいかもしれない。

紛らわすために音が立つほど力を込めて手を合わせ、早口に名前を述べた。

はい、わたしです。来ました。こんにちは。

それでは!

頭を下げ、足音に構わずお墓に向かった。


川の音を頼りに進んでいく。お墓場の輪郭に沿うように流れる小さな小さな川の、すぐ横がじいちゃんのお墓のはず。新旧さまざまな形をした墓石の間を通っていくと、迷路みたいだ。道が狭い。

しかも洗い場から持ち出した手桶と柄杓でいよいよ両手が塞がってしまった。

やはりバッグはホテルにでも預けるべきだった。そうすれば、安心してあれやこれやと買いすぎることも無かっただろうに。

花束をこすらないよう慎重に歩く。しかし、そろそろ静寂に耐えかねて早足になってきたところで、川のせせらぎが大きくなった。近い。やっと辿り着けそうだ。


ふと気の抜けた瞬間、犬の吠え声が響いた。


さすがに息が止まった。誰なの、もう勘弁して。

川を挟んで向こう岸の民家から聞こえたようだ。よく見れば、庭で中型犬が右へ左へうろうろしている。こちらの視線を感じたのか、もう一吠えされた。こんな時間に動く人影が珍しいのかもしれない。それこそ得体の知れないものだと思われているのだろうか。

違うよー、ごめんねー、と手を振ると思い出した。

あのわんこ、以前も吠えてたな。もちろん昼間にしかお参りは来たことが無いはずだったから、とにかく誰にでも吠える子なのかもしれない。

そしてこの記憶があるということは、じいちゃんはもうすぐそこだということだ。

目の前の墓石の一列後ろをひょいと見越す。

あった。あそこだ。



「久しぶりだね。」


雑木林が応えるように音を立てた。吹いてきた風は、もうそこまで生ぬるくはない。

さてと、まずは、掃除か。

ようやく手桶を置けた。わたしの背では墓石のてっぺんまで届かないから、たわしは持ち出していない。散々降った雨があらかたの汚れを落としてくれた気もするから許してほしい。

ごめんと心で呟きながら、汲んできた水を少しずつ流しかけた。手を動かして集中すると、周囲をかこむ静寂も気にならなくなってくる。

柄杓が墓石に当たる音、桶から水を掬い上げる音。

一音ずつ増える物音に安心して、ようやくじいちゃんに会いに来た、ということを実感する余裕がでてきた。


「じいちゃん、最近来られなくってさぁ、ごめんね。

十三回忌って。過ぎちゃったけど。もうそんなに経ってんだね。びっくりだわ。そりゃあたしも社会人になるわ。」


花入れに残された菊は少し葉がしおれているが、花びら一枚一枚はまだ瑞々しい。


「おばちゃんたちの花、まだ綺麗だからそのままにしとくね。あたしのも足しとくから。」


さっき買った花束も挿す。水も換えたし、それぞれもう少し保つだろう。

ちょっとシュールに見えるほど豪奢なビジュアルになった墓前ににやけてしまった。


「まぁいっか!賑やかだし。」


そして更に賑やかにするブツを取り出した。ひとつひとつ重ねていく。


「ふっふっふ。いろいろ持ってきたよ。

駅前のお団子でしょ、

さっきのお店のだし巻きでしょ、あ、唐揚げ入ってる。おまけしてくれたんだ。何も言わずにこういうことしてくれちゃうんだ、推せるなあのおじさん。

あとはなんと言ってもこれ。

じいちゃんが好きだと思われる酒!」


向こう岸からまた吠えられた。

テンション上がって声大きくなっちゃったねー、ごめんねー。

さておき、線香の束を燻らせて合掌。今度はちゃんと目を閉じて思いを込めた。

わたしです。来ました。

言うべきことも言いたいこともあるけど、その前に乾杯しよう。

カッと目を見開いて墓石を見上げた。



「じいちゃん。わたし成人したよ。

いや何年前の話だよって感じだけど、もうお酒飲めるの。

さっきの店で思ったんだ、一度くらい一緒に呑みたかったなって。」


「これね、お酒。わたしの分も買ったから。」


「昔の人ってさぁ、お墓の前で宴会してたの?

なんかテレビで見てから気になってたんだよね。確かに、ここ入ってすぐのおっきいお墓のとこ、目の前が広場みたいに括られてるね。あれ、そういうこと?ここで盛り上がりました的な、そういうこと?」



喋りながら小瓶の蓋を引いた。

バッグを横向きにしてその上へ腰かける。



「これ、このお酒。すごい美味しいよね。きりっとしてて香りが華やかで。危ない。飲んでしまう。これはぐいぐい飲めるお酒だよね。」


「やっぱり水が綺麗だからなのかな~、それとも米?お米も美味しいもんね、この辺。どっちもか。駅から歩いてちょっとの街並みにさぁ、あの商店街の一本入ったとこ。

お酒売ってるお店多いもんね、まっすぐこっち来ちゃったから全然見て回ってないけど。」


「真っ直ぐは来てないやろう。」


「いやそうなんだけど。だってお腹すいちゃって…

夜まで我慢しようかなとも思ったよ、一応。でもこれから向かいますって時に腹ペコはどうなの。

結果あそこで補給できたから、しっかり辿り着けた訳だし。」



「ねぇこれ、このだし巻き。すごい美味しかったんだよ。お店のおばあさんがこのお酒に合うよって出してくれてさ。わたし好きだな~。ここの、少し固めのしっかりした玉子なの。半熟もいいけど、お酒にはこっちがいいかな。」


「つまみ食いしとるやないか。」


「味見と言って。

いくら知ってるものでも味の分かんないもの持ってこられないよ。もしこのお酒が甘めだったらまた違うおかずにしてたかもしれないし。

でも正解、相性はばっちり試してあるから。さっきみたいに冷えてなくても最高、常温の方が味が濃いし玉子に合うね。

良いお店と出会ってしまったな。傘を忘れたおかげ、やっぱり持たないわたしの大勝利。雨に降られてよかったのかも、ちょっと遅くなっちゃったけどね。」


「寄り道ばっかりしとるからやろう。

それにしても、お前、」


「なぁに。」


「よぉ喋るな。」


「そうやね。自分でも思っとったわ。」

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