午後2時14分

通されたのはカウンター席で、それはわたしが一番好きな位置だ。美味しいものが出来上がっていく様子は見ていて楽しい。置かれた麦茶はキンキンに冷えており、目の前で湧く湯気と外気で火照った頬にはありがたい。

一息つくとタオルを頭に巻いて作業していた男性にどんぶりを差し出された。


「お待たせしましたー、チャーシューメンと餃子です。」


透き通るスープは濃いめの琥珀色で、大胆に肉厚なチャーシューがつるんとした卵と並んでいる。餃子も持ち上げてみるとサイズの割にはズッシリだ。

いただきます。合掌。

レンゲをスープに差し込むとキラキラ揺れた。ず、と口に運ぶと煮干しからとった出汁の香りが醤油と絡まって鼻から抜ける。おいしい好き大好き。もう浸かりたい。

少し縮れた麺も間髪入れずに啜りたいのに猫舌がもどかしい。いやでも、もういいや。この店において料理が冷め切るのはもはや罪だ。舌よ無事であれという祈りを一度だけ大きく吹きかけ口に運んだ。コシのある細麺がスープをしっかり纏って吸い込まれる。最高だな。手が止まらない。小気味良い音を立てながらどんどん啜る。残っていた麦茶を勢いのまま2口で飲み干し、左手を大きく挙げた。


「すみません!!瓶ビールをください!」


カウンターから全員の元気な声が返ってきた。お願いします。

言っているそばから小さなコップが目の前に置かれ、まもなく冷えた瓶がどんと置かれた。お礼を言いつつ栓を開ける。爽快な幸せの音が小さく響いた。この注ぐ音を陽が高いうちに聞けるなんて。一杯を空け、感動の溜め息が自然とこぼれる。

コップを置いた先でスマホのランプが点滅している。そうだ、おばさんからメールが来ていたんだった。餃子をまるっと頬張り文面に目を落とした。薄皮タイプの餃子もまた良し。


『もう着いたかな。長旅えらかったね。』


えらい、というのは方言で、辛かったねぇとか大変だったねぇとかの意味になる。分かってはいるが、なんとなく無条件に褒められた気分で勝手に嬉しくなった。

メールにはありがたくもお墓から近い花屋さんやお寺周辺の目印が書かれている。やっぱりなんとかなりそうだ。

一人で帰省すると知ったおばさんは、祖父の家に泊まらないか声をかけてくれていた。祖父亡き後は伯父夫婦が暮らしているから、正確にはおじさんの家だ。

もはや続柄が分からないほど広い家系図の中でも一番気にかけてくれているのは伯父夫婦だと思う。だからお申し出は嬉しかったのだが、わたしは知っている。


絶対、確実に、間違いなく、朝が早い。


うっすら記憶に残るじいちゃんは早朝の散歩が好きだった。その習慣は今やおじさんに引き継がれている。一日の始動時間が早い一家なのだ。

しかし昔も今も、わたしは早起きが苦手だ。苦手というか出来ない。

それでもお構い無しなじいちゃんに叩き起こされ「散歩。」とでかい麦わら帽子を差し出された。いや叩かれてはないけど、なんていうかこう、揺する力が強いんだよな。

同じく麦わら帽子を被ったよれよれTシャツの背中を眠い目で追いかけた。既に日は上っていても蝉の声はまばらで、少しの風が確かに日中より過ごしやすい。山道の静けさにはまだ起きやらぬ空気が満ちていた。

連れ出した割にじいちゃんは何も喋らないから自分の呼吸だけが耳に残っている。それとも何か話したのか?覚えていないし、こちとら眠かったせいで仏頂面だったんじゃないだろうか。不孝者が。

そういえば一度なんて置き去りにした気がする。道の真ん中で蛇と遭遇した時だ。

じいちゃんいわく子供だったようだが、小さくたって毒が無くたって蛇は蛇だ。わたしはその場にうずくまってしまった。見かねたじいちゃんがその辺の棒切れを手に取り、蛇を掬い上げて脇の草むらへと分け入っていく。

せっかくの夏休みに何故こんな思いをしなくてはならないのか。朝早いし。

悔しいし怖いしで、抱えた膝をただ見つめていた。

じいちゃんはなかなか戻ってこない。静かに風だけが吹いている。

するとじいちゃんが入った方と逆側で草が大きく揺れた。近付いてくる。きっとじいちゃんだ、そうに違いないと思う反面、蛇登場でナーバスになっていたわたしは声も出せなかった。

鹿ならまだいい。猪だったらどうしよう。熊だったら…?そこまで細かく考えていたかは分からないが、何ならお化けでも出るんじゃないかと目をぎゅっと力強く瞑った。

すぐ真横で一際大きく音が立った。


「ほれ。」


恐る恐る目を開けるとやっぱりそこにはじいちゃんがいて、わたしの帽子を持っている。どうやら風で飛ばされていたらしく拾ってきてくれたのだった。それなのにわたしは、お礼どころか言い放った。


「出てくるなら出てくるって言って!」


安心やら恐怖やら驚きやらぐちゃぐちゃで、みるみる視界が歪んでいく。堰き止めていたものがボロボロと頬を落ちていく。風は止んでいる。

一度溢れてしまえば引っ込みがつかなくなり、大声でしゃくり上げながら来た道を走って帰ってしまった。一本道で助かったな。


インパクトのある思い出って、鮮明に憶えているものだ。今になると思うところはたくさんある。何より、孫に置いてきぼりを食らったじいちゃんの心中たるや。なんて申し訳ないことを。この不孝者が。

稀に思い出したと思ったら、こんな苦いものとは。


ふと気付くと、餃子はあと2個になっていた。麺は跡形も無い。がっしりとどんぶりを持ち上げてスープを飲み干す。しょっぱすぎないから出来ることだ。浮いていた刻みネギの歯ごたえが余韻を賑やかにする。店の紋が入った底が見えて、静かにどんぶりを置いた。

深く長く息をつきながら浅い背もたれに身を委ねる。

美味しかったなぁー…。

腕をうんと伸ばしてビールを注いだ。瓶は汗をかきまくっていて、テーブルに水滴の輪が出来ている。

ごちそうさまでした。合掌。

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