第2話 葛藤

 世間的には「堕ちた」女。でも、それは慣れてしまえば私には心地よいものだった。


 1時間ちょっと我慢すれば破格のお金が手に入る。そして私は「詩織」として生きていけて、可愛い可愛いとチヤホヤしてくれる人がいる。私の言動に一喜一憂してくれる人がいる。手に入ったお金も時間も全て自分のことに使っていられる。


 実家にいるときには許されなかった髪を伸ばすことも、ミニスカートを履くことも、化粧をすることもダイエットも、ストレッチも、気兼ねなく楽しめる。こんなに幸せでいいんだろうかとさえ思っていた。毒になるような母親は、娘に対して異常なほどに嫉妬してあれこれ口を出したり、制限をかけたりするのは結構あるあるらしい。私も、その異常な妬み根性に振り回され続けた一人だった。


 私が自分に時間やお金を費やすほど、周りは褒めてくれた。「顔が小さくて可愛いね」「肌が艶々していいね」「ウエストのラインが美しい」「そのメイク、素敵だね」「相変わらずスタイルが良いねぇ」…


 客は、私の「中身」なんていうのはどうでもよくて、ただ自分が可愛いと思う人の手で果て色んなものを放出して、そしてそれぞれ自分の暮らしへ帰っていく。「明日からまた頑張れるわ」というお決まりのセリフに「頑張ってね、応援してるよ」と、これまたお決まりのセリフを返す。だけど私は、客の暮らしなんてどんなものか知らない。知りたくもない。


 「仕事」をしていて、一度ドン引きしたことがあった。自宅に嬢を呼んだお客さんで、その人には奥様がいた。奥様は出産のために里帰り中だから、というよくある話。だが、嬢がそこでヘアゴムやイソジンが入ったポーチを忘れてきて、それが奥様に見つかって最終的には離婚されたという話。


 もちろん、忘れ物をした嬢は悪い。けどこの客は、家の中を確認するという事はしなかったのだろうか。奥様が、出産という命を懸けた一大イベントをこなしていて、片方は「ストレスがー、寂しくてー」と言いながら嬢を抱きうつつを抜かす。洗面所にあったんだと息巻いているが、奥様が帰るまでになぜ気付けないのか。あんたは掃除の一つもせず奥様と赤ちゃんを家に迎えたのか。そんな覚悟も気遣いもない男、遅かれ早かれ離婚してたでしょうよ。珍しく、私は店長にそう早口でまくし立てた。


 「詩織、男なんてまぁそんなもんだよ。もちろんちゃんとしている人もいるけどね。でも、考えてもみてよ。奥さんが赤ちゃん産んでるときにそういうことできちゃうような価値観の持ち主だってことだし、そういう人のおかげで俺たちは生きていけているんだからさ」私の怒りに驚いているのか、宥めるようにまぁまぁ、とジェスチャーをして見せる。


 …ぐうの音も出なかった。悔しかったし悲しかった。お決まりの「明日からまた頑張れるよ」という何百回も聞いたセリフが脳みその中で虚しく響く。


 はじめて、この「仕事」で「自分が我慢してちょっとだけ善い行いをしている」と思ってしまっている自分に気付いた。客の暮らしなんて知りたくもないというのも、完全に思い上がった思考回路のなせる技だったのかもしれない。


 「やっぱり、このままじゃダメだよなぁ」


 「仕事」に対するモチベーションはどんどん下がった。でも、自分がどうやったら「真人間」に戻るのか、それを考えることが面倒くさかった。そんなことより、そろそろエクステ変えたいなぁとかそういう事の方が大切に思えた。自分が美しくなくなってしまう事の方が、なんだか怖いと思った。


 そんなある日。


 急遽、予約のキャンセルがあり、珍しく「新規」のお客さんに入ることになった。新しいリピート客が欲しかったタイミング。念入りに身支度をして愛想全開でホテルの部屋のドアを開けると、見上げるほどの大きな、熊のような男が立っていた。身長は180センチ以上あるだろう。体重は…3桁はありそう。汗ばんだ顔に、ボタンの飛びそうなワイシャツ。なんだか寸足らずなネクタイ。すっきりと短く整えられた髪。年の頃は、おそらく20代後半といったところか。


 「あ、どうもどうも。待ってました」と、クシャっと表情を緩ませ、私の手を引きソファーへ誘導する。湿った手が少しキモチワルイと思った。


 ちょっと頑張らないといけないかな…と覚悟を決めた瞬間、その客は思わぬことを口にした。


 「俺、今日は何もするつもりないんだ。90分間、君の話を聞かせてくれないか?」






 


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