011 「外伝・第二次世界大戦(8)」
1943年秋、ドイツは突然と言える速度で、崩壊や窮地を通り越して断末魔へと突入しつつあった。
連合軍が突如奇襲上陸してくるまでは、ソ連と雌雄を決する戦いをしようと意気込んでいた事を考えると、その落差は激しかった。
ドイツは戦争の雌雄を決するどころか、いつ降伏するのかを考えなければならなくなっていた。
東部戦線では、短期間で激減した戦力で戦線を維持するべく、リガ=ドビナ河=ミンスク前面=ドニエプル川のラインで防衛しようとした。
だが、ソ連軍の膨大な戦力と積極的という以上の強引な攻勢を前には机上の空論に過ぎず、上手くはいかなかった。
その秋には、絶対防衛線とすら想定していた南部のドニエプル川を、呆気なく複数個所から渡河された。その後も戦線の形成ができないばかりか、大きく突破を許してしまう。
混乱の中で失われた戦力、将兵も多かった。
そして失われた戦力を補充する能力を、ドイツ本土が急速に失いつつあった。
何しろ連合軍が突如フランスに溢れ、ドイツの重工業の中心地帯が半ば無防備に晒されてしまっていた。
ドイツ西部は、重爆撃機ばかりでなく小型機が日常的に入り込んでくるようになり、制空権を失うばかりか補充のパイロット養成も東部で行わなくてはならなくなる。
それ以前に、連合軍の戦略爆撃が激しくなったので、急いで工場の疎開を行わなくてはならず、43年夏頃をピークとして生産力は急速な右肩下がりとなった。
軍需省のシュペーアがどれだけ神がかった辣腕を振るおうとも、どうにもならなかった。
ドイツ第三帝国は急速に瓦解しつつあった。
そうした中10月になると、連合軍はまるで思い出したかのようにイタリア半島南部に上陸。膨大な戦力を前に、分かっていても止めようがなかった。
しかも連合軍が上陸したのは、枢軸側が予測したシチリア島に近い南部の先端ではなく、首都ローマに近いローマとナポリの中間あたり。
地名からアンツィオと呼ばれるが、いきなりそこに大機動部隊と戦艦部隊が磐石の支援をしつつ、ノルマンディー上陸作戦から転用されてきた揚陸部隊を転用し、有無を言わせぬ戦力と速度で上陸した。
そして周りに枢軸側の軍が殆どいなかったので、瞬く間に橋頭堡を拡大して内陸部に進撃すら開始する。
イタリア軍も助っ人の現地ドイツ軍も、連合軍はもっと南、シチリア島に近い場所に上陸すると想定していたからだ。
この為、イタリア半島の南端で孤立した枢軸軍の部隊も少なくなかった。その数は、大半がイタリア軍だったものの30万にも達した。
その上、一週間の時間差で、連合軍が南端部、南部各所からも続々と上陸作戦を実施。南部にいたイタリア軍とドイツ軍は、激しい空襲で身動きが取れないまま各所で分断され、ローマ方面の僅かな部隊は圧倒的戦力の圧迫を受ける事となった。
さらにイタリア北西部では、既にフランスを解放した連合軍が日本軍を中心として圧迫していた。山岳地帯なので進撃は容易ではないが、隙あらば国境を越える動きを見せていた。
そして本土上陸されれば、既にムッソリーニが失脚したイタリアが降伏するのが分かっていたが、打つ手は限られていた。
既にドイツ自身が本土防衛戦を考えなくてはいけないが、南側を無防備にさらけ出すわけにもいかない。この為、現地の戦力に加えて増援まで送ってイタリアの降伏を実質的に阻止して、戦い続けさせる事になる。
そしてそれは、ドイツの限られた戦力をさらに分散させるという連合軍の戦略通りでもあった。
そうした中、1943年11月末にイランのテヘランで日英米ソの首脳による頂上会談が開催される。
そこで出されたのが「テヘラン宣言」だった。
この宣言を出す為の会談では、今後の進軍についての話し合いが行われた。だが、既に勝利が見えている事もあって、日英米とソ連の間に溝が見られた。
東部戦線では、まだソ連領内で激しい戦いが続いていた。だが、ドイツ軍が大幅に減った事と、ソ連軍の自軍の損害を顧みない無理押しとも言える強引な進撃もあって、急速に戦線が西へと動いていた。
早ければ1944年に入る頃には、ソ連は国土をほぼ全て奪回できると各所で予測される進撃速度だった。
西部戦線でも、連合軍は8月に一旦進撃を停止させていたが、無傷で確保したベルギーのアントワープ港を軸に補給線を前進させるなどして、ドイツ本土侵攻の準備に余念がなかった。
早ければ年内にも、ライン川に向けた全面的な進撃を開始するとドイツ軍も予測していた。
ここでドイツは、最後の予備兵力の使い道の選択を迫られる。
もっとも、通常なら敵の攻勢に備えて持久戦を図るのが常道だった。だが、かつての成功が忘れられないのか、ヒトラー総統は投機的な作戦を決定する。
限定的な攻勢を取る事で敵の弱点を突いて攻勢を遅らせ、稼いだ時間で兵器の増産に努めて防衛体制を強固にする、というのが戦略面での目的になるだろう。
相手とするのは、西部戦線の沿岸部にいる連合軍。沿岸部に対してだけなのは、局所的な攻勢しか出来ないまでにドイツ軍全体が消耗しているから。
西部戦線の連合軍を選んだのも、激しい攻勢の連続で息切れしているとはいえ、ソ連軍はあまりにも膨大な戦力を有している上に、補給拠点を1つ、2つ殲滅しても効果は限定的と考えられた。
これに対して西の連合軍は、アントワープというアキレス腱を抱えていた。
そうして12月、ドイツ軍最後の大攻勢が実施された。
場所は、1940年の初夏に鮮やかな勝利を飾ったすぐ近く。
当初は、ドイツ軍の攻勢はないと油断していた連合軍の隙を突き、ドイツ軍は1940年を彷彿とさせる快進撃を実現。だが、燃料不足、兵力不足、連合軍の戦意の見誤りなどで、すぐにも攻勢は鈍化。
所定の目的を達しない間に連合軍は防衛態勢を整え、天候回復と共に空軍が活発な活動を再開し、ドイツ軍最後の予備兵力は尽きた。
強力な新型戦車を戦線に投入するようになったドイツ軍だが、空からの攻撃には無力だった。
なお、この攻勢は戦後も研究者の間で賛否両論だった。
一定程度の時間を稼いだとするものと、予備兵力を消耗してその後の戦いがより連合軍に有利になったとするものだ。
実際、連合軍はドイツ本土侵攻を2ヶ月程度スケジュールを後ろ倒しした。一方で、その後の侵攻は予備兵力を無くしたドイツ軍全体の抵抗が衰えたのもあって、2ヶ月程度前倒しに進んだと考えられている。
つまり、差し引きゼロ。歴史に名が残る派手な戦闘が行われたが、それが数字の上での結果だった。
そしてドイツが両手を上げない限り、戦争が終わる事もなかった。
1944年3月、連合軍のドイツ本土を目指した進撃が始まる。
東部戦線のソ連は、昨年6月からドイツ軍が大幅に減ったところに付け入る形で、自軍の損害を無視して無理に無理を重ねて進撃。
夏、秋、冬と連続する総反抗作戦で、国土を奪回するばかりかドイツ東端の要衝ケーニヒスベルクとポーランドの首都ワルシャワ前面まで強引に進軍していた。
ただ、3月の時点で度重なる進撃により、1000万人を超える史上空前の巨大軍団は疲弊しきっていた。
伸びに伸びた補給線も前線では実質途切れていて、ドイツ軍の撤退時のあらゆる社会資本(鉄道、橋梁など)の破壊もあって根本的な面から再構築が必要だった。
この為、小規模ではあるがドイツ軍の反撃を受けて、手痛い損害を何度か受けていた程だった。
3月に受けた反撃では、功を焦って突出した軍団規模の機械化部隊が簡単に殲滅されたりもしている。
ただし、ソ連がこれほど焦ったように進撃したのは、1943年6月以後に連合軍が西から急激に進撃したからだった。
その西部戦線の連合軍は、冬にあったドイツ軍の反攻を退けるのに前後して、万全に補給を整えていた。
慎重を期した事もあり、前線の兵力、物資も申し分なかった。
兵力が余るほどなので、3月にはギリシャへの強襲上陸作戦が実施されたほどだ。
ギリシャでの作戦は、主に各国の海軍と海兵隊が求めたものだが、そうした我儘を受け入れられるほど余裕があった。
しかも、連合軍海軍と海兵隊はさらに積極的で、戦争が6月以降も続く場合はノルウェーやデンマークへの強襲上陸作戦も予定していた。
何しろ世界の海軍力の大半が揃っており、海からの攻撃で不可能などなかったからだ。
あまり仕事のない海軍部隊は、空母機動部隊がドイツ沿岸やバルト海にまで日常的に攻撃を行ったりしている。
そして肝心のヨーロッパ正面での連合軍の攻勢だが、北から順番にイギリス軍、アメリカ軍、そして主に南部から合流した日本軍が並び、4個軍集団、150個師団という膨大な戦力がドイツ本土へと進撃を開始する。
3月初旬に始まった攻勢は、4月までにドイツの真ん中を流れるエルベ川からチェコ国境あたりにまで進んでいた。
そして一番南を進む日本軍は、アメリカ軍と並行して南と南東へと進撃。地形は山岳地帯で比較的険しいが、抵抗が弱いドイツ南部を通ってオーストリアを目指した。
さらに余裕があれば、早期にチェコ、ハンガリー、ユーゴスラビアへも進む予定だった。
連合軍が南部を兵力豊富な日本に任せたのは、万が一の際にヒトラーの逃げ道、逃げ場を無くす為だ。この為、一切手加減も手抜きもなかった。
また日本軍は、場合によっては地中海側からアドリア海深くに入り、バルカン半島のどこかに上陸作戦を行う準備すら進めていた。
一方、北ドイツ平原を進むイギリス軍、アメリカ軍の主力部隊は、一気に首都ベルリンを指向。ベルリン攻撃を開始したのは、ドイツ国内での補給路を一旦整えた5月初旬。
ベルリンを大きく包囲し、可能ならばドイツ東部から、さらにはポーランドにまで進撃予定だった。
これに対して東から迫るソ連軍は、焦って3月に攻勢を行うもドイツ軍に阻止されたのが響き、ポーランドの真ん中を流れるヴィスワ川をまだ越えられていなかった。
結局、抜本的に補給体制を整えなくては何もできず、ヴィスワ川を越えたのは連合軍がベルリン攻撃を開始した5月に入ってからだった。
そしてソ連軍は、攻勢を再開するとドイツ東部を流れるオーデル川を目指す。だがそれは表向きで、スターリンの厳命により一気にかつ強引にベルリンを突こうとした。
英米に対しても、ベルリン前で進撃を止めるよう、再三再四、脅迫にも似た要請を出している。
これに対してアメリカ政府中枢が、水面下でソ連にベルリンを譲るべきだと連合国諸国に持ちかけている。
だが、もしアメリカ軍がソ連にベルリンを譲るのならば、アメリカ軍抜きでベルリン攻略を行うという、日英仏などの非常に強い言葉で表沙汰にならなかったという逸話が、数十年経って明らかになっている。
そして後はどうやって滅びるかという状況のドイツ軍だが、連合軍よりソ連軍をドイツの国土に入れるのは危険だと考えていた。彼らは、主にナチスの一般親衛隊がソ連で何をしたのかを知っていたからだ。
また、遺伝子的にロシア人に対する恐怖心があるので、尚の事ソ連に対して激しく抵抗した。
この為ドイツ軍は、ソ連軍に対してより強く反撃。ソ連軍がようやくオーデル川に達し始めた頃には、対岸に連合軍が溢れていた。
戦争は6月6日のドイツ降伏で幕を閉じ、その少し前の5月28日にベルリンは陥落。ヒトラー総統はベルリンと運命を共にした。
かくして、4年9ヶ月続いた第二次世界大戦は幕を閉じる。
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.。゚+..。゚+.玲子の部屋.。゚+..。゚+
お嬢様「ノルマンディー上陸作戦が成功した頃は、ソ連国境辺りで握手だろうって皮算用してたんだけどなあ」
八神「ハッ! 戦争が皮算用通り行くか」
王「そうではあるが、ソ連上層部が強引に兵を進め過ぎたせいだろ。兵が哀れだった」
お嬢様「そうなのよね。ソ連軍の進撃が強引過ぎたのもあって、多分ソ連の戦死者の数は夢の中とたいして変わらないのよ。戦争一年縮めた意味ないじゃない。凹むわ」
王「他にも理由が?」
お嬢様「ソ連は前線での戦争に傾倒し過ぎて、国内の食料供給やインフラを無視したでしょ。それを各国が手助けしたけど、アメリカのレンドリースが私の夢の中より1年くらい遅れたのよ。だから、餓死や凍死で死屍累々。私が反共をし過ぎた影響なのは確実よ」
八神「何故お前が凹む。救世主でも気取るつもりか?」
お嬢様「理由が何であれ、知った以上は傍観できるわけないでしょう。何人死んだと思ってるのよ」
王「兵家の常、というわけではありませんが、姫がお気を煩わせる必要はないでしょう」
八神「そう言えば姫だったな。すっかり忘れていた」
お嬢様「忘れてて全然良いわよ。それより、二人も欧州行ったのよね?」
王「はい。満州国軍の将軍として物見遊山を。なかなかに愉快でしたな」
八神「俺は鳳の人間の護衛だな。そう言えば、姫は行かれなかったので?」
お嬢様「アメリカには行ったけど、欧州は行かずじまい。大西洋を超える許しが出なくて」
八神「二十歳を超えてもご当主には頭が上がらずか。やはり、姫じゃないか」
お嬢様「もう好きに呼んでちょうだい」
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