009 「外伝・第二次世界大戦(6)」
1943年6月6日は、戦争の一大転換点となった。
ドイツの予想を全て裏切り、連合軍の大部隊を載せた数千隻の大船団が、突如フランス北西部沿岸ノルマンディー海岸に殺到。
そして一気に上陸作戦を決行に移した。
俗に言う「ノルマンディー上陸作戦」もしくは「D-Day」もしくは「史上最大の作戦」の発動だ。
この時ドイツは、総統、政府、そして軍も、連合軍はイタリア本土に上陸する可能性が最も高いと予測していた。
その次に、可能性はかなり低いながらドーバー海峡のどこかの上陸だと考えていた。そしてこちらは、もう少し先だと考えてもいた。
主な理由の一つが、どちらも侵攻作戦の為の司令部が作られていたからだ。しかし、そのどちらもが連合軍が用意した欺瞞用の囮司令部でしかなかった。
その上、イタリア本土側の地中海には連合軍の大艦隊が展開し、その中には大型の揚陸艦艇が多数含まれていた。
さらに、イタリア南部は激しい航空攻撃にも晒されていた。
そしてドイツは、この時点での連合軍の本命はイタリアで、フランス上陸はまだ先と考えていた。それを示すように、1943年4月にドイツ北部最大の都市ハンブルクが1500機もの爆撃機に空襲された。
この空襲では、イギリスと日本だけでなくアメリカも多数の爆撃機を参加させており、しかも短期間の間に1500機爆撃が三度も実施された。
この為、連合軍は西欧正面に対して当面は戦略爆撃の強化を選んだと、ドイツでは考えられていた。それだけの破壊を、ハンブルクに振りまいたからだ。
ハンブルク以外でのフランス北部沿岸、ベネルクス地域への小型機を中心とした爆撃も、鉄道、道路、橋梁など交通インフラに対してかなりの規模で行われた。だが、ハンブルク爆撃の衝撃が大きいので軽視され、他も交通、物流への負担をかけて国力と生産力を削ぐ作戦程度に考えられていた。
沿岸部と限られた場所だったが、それはまだ内陸まで攻撃するだけの力がないと判定されていた。
しかし爆撃は、陽動と事前攻撃を兼ねた攻撃だった。
ドイツが予測したよりも早すぎる、連合軍の総反攻の準備や前座に過ぎなかった。そして全てを一度に出来るだけの戦力を、連合軍は既に動かせるようになっていた。
だが、ドイツは何を読み違えたのか。連合軍は、何故早期の反攻が可能だったのか。
単に大規模な上陸作戦だけでなく、その後に続く膨大な数の地上部隊の展開をするだけの作戦となる。だが、兵力、物資、上陸機材については、連合軍は既に十分に準備が進んでいた。それだけでなく、さらに1年先までの兵力投入計画までもが入念に立てられていた。
しかも日本は、42年の夏頃から戦時生産がフル回転しており、膨大な戦力を備蓄し、投入できるようになっていた。
加えてアメリカも1年で十分な戦力を用意した。
日本とアメリカは、作戦を行うだけの国力と生産力、そして戦力があった。さらに海上輸送路も既に確保され、Uボートの脅威は作戦を否定する要因にはならなかった。
連合軍全体で、最大500万名もの大兵力を半年の間に欧州大陸に注ぎ込む事が可能となっていた。
そしてある種滑稽とすら言えることに、さらに1年総反攻を先延ばしとしたら、ブリテン島に兵士が溢れ過ぎて受け入れできなくなる状態だったと言われる。
ただし、これは間違っていた。連合軍は、綿密なスケジュールに従ってブリテン島に兵力を送り込んでいた。そうしなければ、遠方の日本は200万もの兵士をヨーロッパに派兵する事が不可能だからだ。
そして全ては1943年6月6日を基準に動いていた。
だが通常なら、ドイツ軍が待ち構えていると考えるだろうし、実際最も連合軍が上陸する可能性が高いドーバー海峡の狭い地域は、早くから防衛体制がある程度構築されていた。
その証拠に、ディエップの戦いで連合軍は完敗している。
しかし連合軍はかなり以前から、ソ連との戦いを始めたドイツがフランスなどヨーロッパ北西部の防備を疎かにしている情報を掴んでいた。
フランスのパルチザンに求めた情報も、どこにどれだけの兵力がいるのかと言う事が重視されていた。
しかもドイツ軍の一部兵力は、イタリアでのシチリア島上陸と陽動のイタリア本土上陸の為にイタリア方面にいた。
何よりソ連との戦いにのめり込みすぎて、ヨーロッパ西部には兵力が置かれていなかった。
この結果、1943年6月時点でフランスにいたドイツ軍部隊は44個師団だった。
一見それなりの数だが、戦争全期間を見渡しても最も兵力が減少している時期だった。
しかもその内容が酷かった。
半数は移動手段がなく戦力が通常の半分程度しかない、通称「張り付け師団」。徒歩以外の移動力はなく、その場での沿岸防衛以外の能力はなかった。しかも戦力自体も師団と呼ぶには貧弱だったし、兵士も十分な能力はなかった。
残り半数の8割つまり全体の4割は、ソ連との戦い、特にスターリングラードを巡る戦いで壊滅した部隊の生き残りを、引き揚げて再編成し始めたばかりのもの。当然、戦闘を前提とはしていなかった。
各部隊の戦力は非常に低下しており、師団とは名ばかりなほど消耗している部隊も少なくなかった。
さらに残りの師団も、大半は新編されたばかりの部隊。まともな戦闘力を持つ師団は、ドイツ軍が常に警戒していたカレー・ドーバー方面にいる2つの歩兵師団に過ぎなかった。
反撃に必要不可欠な機械化師団(戦車師団)は片手で足りる数で、しかも全て再編成中や新編の部隊で、これらも戦闘に耐えられる戦力ではなかった。
それどころか、再編成中、編成中の部隊は、消耗による兵員数の激減や補給など様々な問題もあって、実際の戦闘力は皆無とすら言えた。
そして多くが編成または再編成の為にフランス全土に散らばり、各沿岸で守備についている部隊は限られていた。
連合軍が上陸を決めたノルマンディーの辺りには、上陸作戦の時に最も重要な48時間以内に駆けつける事の出来る部隊を含めても、片手で足りる程度の師団しか配備されていなかった。
連合軍が上陸したノルマンディー海岸正面には、張り付け師団が僅かに2個。しかも主に上陸する海岸部には、そのうち1個しか配備されていなかった。
その戦力も、通常の戦力よりもはるかに少ない6個歩兵大隊と1個砲兵大隊だけ。
他には、海岸の西側のコタンタン(ノルマンディー)半島とそこの重要拠点となるシェルブール港に、同様の貧弱な戦力の2個師団があるだけ。
また、沿岸部の後方はガラ空き。すぐに駆けつけられる増援や反撃できる戦力はゼロ。しかも、シェルブール港周辺はともかく、ノルマンディー方面には沿岸砲台が殆どなかった。
沿岸砲台や陣地も、上陸を阻止する障害物や地雷もほぼ皆無と言える状態で、実質的に無防備だった。
そもそも、フランス方面の司令官だったゲルト・フォン・ルントシュテット元帥は、既に戦争がドイツ敗北で終わると見ており、防衛線構築は無意味だと考えていたとも言われる。
それはともかく、沿岸防衛ばかりでなく駐留兵力が貧弱過ぎるのは間違いなかった。
1943年半ばの頃は、フランス方面のドイツ軍が最も弱体化していた時期でもあったほどだ。
それだけドイツはソ連との戦いにのめり込んでいたからであり、今までの戦いで軍が消耗していた。
しかも当時のドイツ軍は、ソ連軍に対する夏季攻勢の為、東部戦線に予備兵力の大半を集めていた。この事も、フランス方面に兵力が少ない要因になっていた。
これに対して連合軍は、英本土からの反撃作戦に1943年6月時点で総数80個師団が投入可能だった。
しかもこの80個師団のそれぞれは、師団という戦略単位を増やす為に小型化が進んでいたドイツ軍の師団よりはるかに強力だった。
実戦経験が乏しいか皆無の兵士が多い点は問題とされていたが、物量という点では圧倒という以上の戦力差があった。
師団数では二倍の差だが、航空機など支援部隊を合わせた戦力差は5倍以上と判定されていた。
そしてそれ以上に、空と海の戦力差は懸絶していた。
空では、ドイツ空軍の主力はソ連方面、イタリア南部方面、ドイツ本土防空に分散していた。フランス方面には1個航空艦隊という戦略単位の兵力が紙面上は存在していたが、日々の激しい戦闘でまともな戦力は無かった。
海では、水上艦艇はバルト海側の港かノルウェーのフィヨルドの奥に引きこもるしかなかった。潜水艦は果敢に出撃を繰り返していたが、既に戦果を挙げる前に沈められるような状態だった。
1943年春先には、あまりの損害の多さに潜水艦隊司令が出撃停止を命じなければならないほどだった。
対する日英米軍を中心とする連合軍は、地中海に陽動の大艦隊を置いても尚、イギリス方面に膨大な戦力を配置していた。
艦艇1000隻、航空機1万機と、この作戦でも盛んに宣伝されたが、その数字は誇張どころか控え目な程だった。
何しろ日英米は世界三大海軍だ。上陸作戦においても、戦艦の群れが3交代24時間体制で艦砲射撃をする手筈になっていたほどの戦力を有していた。
そして6月6日に入ってすぐに連合軍が動き出した時、ドイツは完全に不意を突かれていた。
ドイツも、この頃になるとイギリス本土に膨大な戦力がある事はある程度掴んではいたが、イタリア、地中海方面へ多くが派遣されると考えていた。
それでも連合軍がドーバー方面でも何かする可能性があると考え、潜水艦約50隻などが北海、ビスケー湾など周辺に展開または待機していた。
ただしドイツは、何かあるとしてもドーバー・カレー方面で連合軍が動くと完全に誤認していた。
しかもイタリア作戦に際しての牽制や陽動だと予測していた。
この為、連合軍がノルマンディーの海岸沖合に姿を見せた時、ドイツ軍は完全な不意打ちを受けてしまう。
現地には、戦力に乏しい移動力のない歩兵師団が僅かに2つだけ。後方と周辺にまともな戦力はなし。もう少し離れると数だけは数個師団があったが、それらはソ連との戦いの傷を癒している、戦闘力ほぼ皆無の部隊だった。
しかも連合軍の激しい空襲を受けて身動きできず、さらに損害を積み重ねていた。
加えて、沿岸の防禦施設は各師団が作った貧弱なものだけ。
上陸作戦は流石に無血とはいかなかったが、終始連合軍が圧倒した。僅かな砲台や陣地の多くは、猛烈極まる艦砲射撃と空襲で粉砕または無力化された。作戦前の深夜から行われた史上空前とすら言われる大規模な空挺作戦は、完全な成功を収めた。
迅速な上陸作戦を展開する新型の揚陸艦艇と機材は、ドイツ軍の虚を突いた。
そして海を埋め尽くし上陸してくる連合軍を、現地のドイツ兵は半ば呆然と見ているしかなかった。
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.。゚+..。゚+.玲子の部屋.。゚+..。゚+
紅龍「邪魔するぞ」
お嬢様「お茶とお菓子、用意しているわよ」
紅龍「おおぅ。玲子とお茶も久しぶりだな。で、ザ・ロンゲスト・ディの話か」
お嬢様「こんなにガラ空きだったなんて、流石に予想外だったわ」
紅龍「そうだったのか? 玲子の陰での名声を天に轟かせた一件だろ」
お嬢様「そう言えば、そうだったわね」
紅龍「いつになく反応が薄いな。夢見ではなかったのか?」
お嬢様「細かい事は全然」
紅龍「……随分熱心に勧めていたし、あの頃は自信満々のように見えたが?」
お嬢様「虚勢に決まっているでしょ。大成功の第一報を聞いた時、椅子に座ったまま腰が抜けたわ」
紅龍「玲子でも腰が抜けることがあるんだな。良い話を聞いた」
お嬢様「何とでも言ってちょうだい」
紅龍「だがこの成功で、戦争が1年早く終わったんだろ」
お嬢様「最悪の夢だと2年以上早くね」
紅龍「そうならなくて、良かったな」
お嬢様「うん。本当に良かった」
紅龍「うむ。では、お菓子を食うか」
お嬢様「なんでそうなるのよ」
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1943年6月6日:
史実の同様の作戦は丸1年先です。
1943年6月のノルマンディー、フランス方面のドイツ軍は、ほぼ史実と同じ状況です。史実は本当にガラガラ。
また日本はともかく、史実の英米だけでも数字の上ではこの時期に上陸作戦ができるくらいに戦力の蓄積はあった。(準備は全然だが。)
もちろん、この世界では状況が史実とは違う。アメリカの2割の国力がある日本が、早くから続々と戦力を注ぎ込んでいる。
コンテナ輸送システムはまだ不完全だろうから、多少目立った事例に過ぎない。
何にせよ、アメリカの全力とアメリカの2割の国力がある日本の全力が突っ込めるので、数の暴力となっている。
単純な数字で見ると、史実のこの時期のアメリカは国力の55%が対欧州戦に向けていたが、この世界では日米合わせて90%がドイツに叩きつけられている計算になる。これにイギリスの全力が加わる。
合わせると、世界の全ての重工業生産力の約半分が対ドイツ戦向けの軍事力となっている計算になってしまう。(各国の日常生活の維持の経済は別腹。)
当時ソ連とがっぷり四つに組んでいるドイツに対抗できる筈がない。
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