008 「外伝・第二次世界大戦(5)」

 1942年6月6日、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦した。

 しかもアメリカは、参戦時点で既にある程度の戦時体制への移行を進めていた。


 レンドリースに代表される兵器を始めとする、様々なものの生産体制の構築。数年前から本格化していた海軍の大幅な拡張。選抜制ながら始まっていた徴兵制度。

 1940年秋頃から本格化した大幅な軍備増強により、既に準戦時体制までは整っていたと言って間違い無かった。

 既に200万の兵士が揃っていたほどだ。


 それでもまだ足りないものはあったが、半年以内に大半が準備可能だった。そして1年後には、早くも総力戦体制はピークに達する計画が参戦前から立てられていた。

 本当は、もっと参戦準備が整う1942年秋の参戦を目論んでいたという説もあるが、3ヶ月程度なら誤差の範囲だろう。


 そしてアメリカの国力は、他国に対して懸絶していた。

 たとえ国民の戦意が多少低くとも、巨大な国力と生産力によって溢れてくる兵器、物資は他国を圧倒した。しかも移民の国アメリカには、膨大な数の兵士のなり手がいた。

 何より、殴られたら殴られた以上に殴り返すのが、アメリカだった。


 もっともアメリカ軍が、最初から強力だったり無敵だったわけではない。


 特にアメリカ海軍は、実戦経験に乏しかった。

 近くでは第一次世界大戦があるが、ヨーロッパに艦隊が派遣されただけと言える状況で、まともな戦闘は殆ど経験しなかった。アメリカが参戦した頃には、ドイツ海軍は活動が大きく停滞していたからだ。

 世界大戦後も、日英の海軍が小競り合いなどでの出動を多数経験しているのに対して、そうした経験すら不足していた。


 それでも、第一次世界大戦では潜水艦に対する戦闘をした筈なのだが、参戦初期のアメリカ海軍は僅かな数のドイツ軍潜水艦になすすべを知らなかった。

 周章狼狽と言える状態で、あまりの惨状に日英がアメリカ東部沿岸に艦隊を派遣したり、イギリスが小型の対潜水艦艦艇を50隻も貸与したりしている。


 それでもすぐにも対応していき、ヨーロッパ、ブリテン島への派兵も参戦から3ヶ月には実戦部隊の配備が始まった。

 最初にヨーロッパに派遣されたのは、重爆撃機部隊。既に日英が行なっている戦略爆撃に、アメリカ軍も参加する為だ。

 地上部隊の方は、ドイツ軍と本格的に戦う前に実戦経験を積むべきだと考えられていた事もあり、既に日英軍それに自由フランス軍が進めつつあった、ヴィシー政府軍が支配する北アフリカ西部地域への派兵が決まる。


 連合軍としての戦略は、大軍を用いて東西から一気に制圧してしまう事にあった。そして既に、それが可能なだけの戦力を有するようになっていた。

 ドイツ軍がソ連にかかりきりな影響も大きいが、日英が大軍を揃えられるようになった証でもあった。


 そしてアメリカ参戦によって、すぐにも戦略レベルでの戦争スケジュールの大幅な変更が画策される。

 日英は既に国を挙げた戦争体制は構築できていたので、アメリカの準備が整い次第、フランス、西ヨーロッパ奪回に移るのが目的だ。


 これは、同盟国となったソ連から第二戦線の早期構築を迫られていた為だと言われるが、フランスなどドイツに本国を占領された国はともかく、日英にとっては1日でも早く戦争を終わらせる為でしかなかった。

 日本など、一時は延期していたものの当初から1943年夏の総反抗を計画している。


 総力戦とは、とにかく金がかかるからだ。

 お金が溶けるどころか、蒸発するレベルで消えているからだった。

 仮に戦争が7年続いたら、少なくともイギリスは国が破産して崩壊してしまうので、戦いを止めなければならないほどだった。


 そして戦争を1日でも早く終わらせる一手が、早くも1942年8月に実施される。

 フランス北部沿岸のディエップへの奇襲上陸作戦だった。

 作戦自体は情報が漏洩していた事などもあり失敗に終わったが、多くの教訓がもたらされた。

 その結果選ばれたと言える反抗の狼煙を上げる場所こそが、フランス北西部のノルマンディーだった。


 ただ色々と不足するし、十分な準備もしなければならなかった。

 巨大な規模の上陸作戦を成功させる為の兵力、機材、物資、その他諸々。その中には、人工的に港を作るというものまで含まれていた。

 また上陸作戦のノウハウ不足、経験不足が露呈したので、どこかで大規模な作戦を一度しようという話になった。

 そこで白羽の矢が立てられたのが、地中海方面だった。


 上陸するのはイタリア半島、長靴の先にある島、シチリア島。

 この島は、日本からブリテンに至る地中海ルートの邪魔にもなっているので、補給路、兵站路のさらなる確保の為にも最低でも無力化する必要があった。

 ただしこの時点では、その先のイタリア本土上陸までは考えられていなかった。


 まずはシチリア島だけを奪って地中海の海上交通路を安定させ、北フランスの上陸作戦を成功させる事が先決だった。

 イタリア本土への上陸はいつでも出来るので、その後の作戦で構わないと考えられた。

 それに上陸したところでイタリアが簡単に降伏するとは考えられていなかったし、地形的にも大軍の展開が難しい上に地形も複雑で、短期間の大規模な進撃に向いていないからでもあった。


 ただし、イタリアに対する攻撃が手抜きにされたわけでもなかった。

 1942年4月には、連合軍はシチリア島の対岸と言えるチュニジアにまで進出を開始した。そしてその各地に航空基地を急速に整備。すぐにもシチリア島、イタリア南部への空爆を強化していく。

 マルタ島への補給と現地部隊の強化も急がれた。


 ただし、その途上の6月、日本海軍が中心となってイタリア南部に対して大規模な攻勢を実施するも失敗に終わった。

 日本海軍は、イタリア、ドイツ空軍の激しい反撃を受け、空母すら失う大打撃を受けてしまう。


 敗北は日本海軍の油断と慢心が呼んだもので、制空権、制海権が敵側にあれば、空母の損失は1隻ではなく3隻、4隻になっていた事だろうと言われた。

 日本海軍は、ドイツ軍は強い、空母『飛龍』が奮闘したと自らの敗北を糊塗(こと)したが、それまでの慢心が影を潜めた点だけは評価できるかもしれない。


 この戦いの結果、地中海方面での連合軍の攻勢は一時頓挫。ドイツの中枢に、やはり日本は大した事はないという油断を生むことになったと言われる。

 しかし、以後シチリア島に対する、航空撃滅戦と呼ばれる激しい消耗戦が開始される。そしてその後の一連の戦いでイタリア空軍は急速に消耗し、援軍となったドイツ空軍も日々の戦闘で身動きが取れなくなってしまう。


 そうして8月初旬には、参戦したばかりのアメリカ軍が、大艦隊を仕立てて日英仏軍と共にアフリカ北西部のモロッコに上陸。年内には、シチリア島の対岸に当たるチュニジアにまで駒を進めていく。

 その後、航空撃滅戦でシチリア島とイタリア南部の制空権を奪った連合軍は、巨大過ぎる艦隊を組んで1943年2月にシチリア島へと上陸した。


 一方海では、1942年秋から約半年の間がドイツ軍潜水艦群と、連合軍の海上護衛部隊による戦いのピークだった。

 ドイツ海軍は200隻の潜水艦を揃え、多くの戦果を挙げた。

 しかし連合軍も、様々な対策を行って対抗した。そして戦いは、日英海軍が体制を完全に整えた事と、アメリカ軍が本格的に参加して体制を整えた事で、1943年の春に入るまでに北大西洋上のドイツ軍潜水艦Uボートのほぼ完全な制圧に成功する。


 しかも日英米で建造される膨大な数の輸送船と護衛艦艇により、その優位は日に日に強化されていった。

 その増強度合いは、ドイツ軍が挙げた最盛時の戦果よりも、日英米が就役させる毎月の輸送船舶の量が圧倒していたと言えば多少の説明になるだろう。


 戦時生産がフル回転している日本だけで、月産30万総トンの各種船舶が就役していたのだから、ドイツ軍から見れば敵は減るどころか増える一方だった。

 ドイツは、1942年秋の最盛時に1ヶ月で70万総トンもの船舶を沈めたが、その頃には日英米合わせて月産100万総トンの船が建造されていた。


 ドイツ潜水艦の損害も、日に日に増大していった。最盛時のすぐ後の43年2月には毎日1隻以上の潜水艦が失われ、ドイツ海軍はたまらず潜水艦の作戦を中止したほどだ。

 そして大量の船舶によって、ブリテン島に膨大な物資と戦力が短期間のうちに送り込まれていく。

 そうした物量は、まさに押しつぶすという表現が相応しい情景だった。


 なおアメリカは、国力全体のうち70%を自らの戦争に、5%をレンドリースに当て、残り25%は国力、国内経済の維持と拡大に当てていた。

 日本もほぼ同様で、戦争の間にもアメリカと日本の経済力、国民所得が大きく成長していく事になる。

 そして未曾有の戦時経済と戦時体制により急速に拡大する経済力を用いて、さらに巨大な軍事力が編成されていった。


 最盛時、つまり終戦頃のアメリカの経済力は、世界のおおよそ半分に達した。その75%が戦争に投じられていたのだから、ドイツを圧殺するのは当然と言えば当然の結果でしかなかった。

 しかも東からはソ連が激しく抵抗し、ソ連を上回る生産力を有するようになっていた日本が、アメリカと同様にヨーロッパに戦力を注ぎ込み続けたのだから、ドイツが気づかない間に窮地に追い込まれていったのも、また自明と言えるだろう。


 そうして1943年1月には占領したモロッコのカサブランカで、日英米の首脳が集まって会談を行った。

 そしてこの会談の公表時に、大きな問題が起きる。

 アメリカのルーズベルト大統領が何の根回しも打ち合わせもなく、会見の場で「無条件降伏」の言葉を口にしたからだ。


 これにはイギリスのチャーチル首相、日本の永田首相も大いに驚き、ルーズベルト大統領の独断で行った発言である事を世界に印象付けた。

 だが連合軍首脳が公式の場で行った発表なので、その後連合軍の方針とせざるを得なかった。


 それにアメリカは、連合軍のパトロンに等しく異を唱えるのも難しいのが実情だった。

 当然、「無条件降伏」という言葉は各所での総崩れの敗北に意気消沈していたドイツ人の戦意に火を付けてしまう。

 そして戦争は、一気にクライマックスへと突入していく。



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.。゚+..。゚+.玲子の部屋.。゚+..。゚+


お嬢様「無条件降伏発言は何とか止めたかったんだけどなあ」

時田「度々おっしゃられておられましたな」

お嬢様「うん。永田様、チャーチル様、アイゼンハワー様にも。スターリンにすら根回ししたのになあ」

時田「皆様、流石に有り得ないとお考えでしたな」

お嬢様「うん。あいつの頭マジおかしいとしか思えないものね」

時田「だからこそ、止めようがなかったのかと」

お嬢様「そうなんでしょうね。それより、私達はこの頃が一番忙しかったわね」

時田「はい。左様でございましたな」

お嬢様「総反抗の準備に2年もかかるなんて、流石に思わなかった」

時田「まさに総力戦でございましたな」

お嬢様「うん。作っても作っても、あれが足りない、これを作ってくれだったものね」

時田「はい。ですがそのお陰で、鳳が大きく拡大したのも、また事実」

お嬢様「拡大、じゃなくて肥大ね。太り過ぎて、戦争終盤から戦後のダイエットが大変だったわ」

時田「ハハハ、良い例えをおっしゃられる」

お嬢様「笑い事じゃないわよ。書類、会議、会合、密会、手紙、やる事山積みで、こっちは太るどころかやつれてたのに」

時田「あまり根を詰められないようにと、多くの者が申し上げたと存じますが?」

お嬢様「うん。でもね、怠けてサボって、消費者に商品が届かないなんて商人の名折れ。手を抜ける訳ないでしょ」

時田「はい、全くおっしゃる通りかと」

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