005 「外伝・第二次世界大戦(2)」
次に戦争が大きく動いたのは、1940年4月だった。
実質的に先手を打ったのはドイツ。ドイツが、北欧のデンマーク、ノルウェーへと侵攻を開始した。先の大戦のように、海上封鎖されてしまう事を避けるためだ。
イギリスも同時期に行動を開始したが、ドイツの方が一足早かった。
そしてさらに5月には、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクへと矢継ぎ早に侵攻。さらに本命のフランスへと、誰もが予想しなかったルートを機甲軍団が通って雪崩れ込んだ。
ごく一部にドイツの行動を正確に予測していた者がいたというが、その声を聞く者は殆どいなかった。先入観と常識が邪魔をしたからだ。
この時期の日本は、各国の予測と同じく戦いは長期化するという予測で動いていた。そして陸軍は、欧州戦線よりも極東でのソビエト連邦の動きに神経を尖らせていた。
というのも、日本が軍の本格的動員を開始すると、ソ連は極東方面の軍備をさらに増強していた為だ。
日本陸軍も対抗上満州の関東軍の増強に力を入れなければならず、満州とソ連極東で日本とソ連の兵力の積み上げ競争が起きていた。
そのような状況で、ヨーロッパに大規模な地上部隊を派遣するのは不可能に等しかった。
日本陸軍にとって、ソ連は最大の仮想敵だからだ。
しかも独ソ不可侵条約があり、ドイツとソ連は半ば共闘関係となれば警戒せざるを得なかった。
その一方で、ヨーロッパへの派兵に積極的だったのが海軍だった。
しかも日本政府は、イギリス、フランスから開戦当初から高速戦艦の派遣を強く打診されていた。さらに順次、潜水艦を封じ込める戦力についても派遣して欲しいと、イギリスから追加で要請が出ていた。
英仏は、ドイツの海上交通破壊を恐れていたからだ。
ただし派遣すると言っても、すぐには不可能だった。
平時編成の軍隊は、まずは戦時体制への移行をしなければならない。さらに日本からヨーロッパの特にイギリス本土までは遠く、1ヶ月以上の移動期間が必要だった。
一方で、移動に際して必要な中継拠点は、イギリス、フランスが全面的に協力、提供するという好条件もあった。
この為、日本海軍の先遣艦隊として高速戦艦『比叡』『霧島』を中核とする艦隊が、ヨーロッパ最初の寄港地のフランスのツーロンに到着したのは、1940年に入ってすぐだった。
高速戦艦の派遣が求められたのは、ドイツ海軍の大型水上艦艇による通商破壊戦、要するに商船への攻撃を阻止もしくは抑止する為。
ドイツ海軍は、「ポケット戦艦」と通称される大きな大砲を搭載した戦艦と巡洋艦の中間のような艦艇を複数保有しており、このポケット戦艦への対応には巡洋艦では力不足と考えられていた。
だからこそ、攻防走全てで勝る高速戦艦の派遣が求められた。
もっとも、日本海軍の先遣艦隊が派遣される前に、ポケット戦艦の1隻とイギリスの巡洋艦戦隊との戦闘があり、これにイギリスの巡洋艦戦隊が勝利している。
そうした局所的な状況を見ても、戦況は一見連合軍の優位にあった。少なくとも、そう見られていた。
だから1940年春までの日本海軍の積極的過ぎると言える動きは、英仏も少し奇妙な目で見ていた。
移動がてら地中海に日本軍の兵力が溢れるので、イタリアが怯えていた程だった。
その年の5月頃、英仏が日本に対して大量の援軍の要請を出した時、日本海軍はすでに現有戦力の半数を、日本を発つか既に欧州に派遣していた。
残り半数のさらに半数程度も、既に派兵準備が着々と進められていた。
4月までの時点だと、受け入れ側のイギリス、フランスが待ったをかける程だった。
何しろ日本海軍の半数といえば、フランス海軍やイタリア海軍の総力に匹敵するほどの膨大な戦力だった。
しかも勇み足と言えるほどの急ぎ足で派兵されたのは、海軍の艦隊ばかりではなかった。
日本陸軍は依然として極東ソ連軍と睨み合っていたが、海軍は艦隊ばかりでなく強力な航空隊も続々とヨーロッパへ派遣しつつあった。
だがフランスに受け入れ能力が不足していたので、主にイギリス本土に向いた。日本の航空機(攻撃機と飛行艇、そして新型戦闘機)は航続距離が長いので、イギリス本土とその周辺海域でも十分な作戦能力が確保できた為だ。
また、艦隊と航空隊の一部戦力は、イタリアへの牽制とドイツ軍潜水艦を警戒して、地中海にも展開しつつあった。
ただし5月に入って英仏が求めた地上部隊の派遣は、遅々として進んでいなかった。
これは単に、極東地域でのソ連との対立が原因ではない。
日本の、それまでの軍の状態が大きく原因していた。
第二次世界大戦勃発時の日本は、1939年春から準戦時の政府予算編成を組んだ。ただしそれは、あくまで平時の範囲だった。
軍隊は徴兵制は敷いていたが、実質的には選抜徴兵制だった。予算、設備の問題もあり、徴兵年齢の若者の数よりも、軍が必要とする兵士の数が非常に少なかった為だ。
また、遠隔地に大規模な軍隊を派遣する経験も皆無だった。それがヨーロッパという非常に遠方への派兵となったので、関係者は途方にくれたと言われている。
日本陸海軍、それに外務省が最初にした事も、移動に使う海路、受け入れ態勢などを調べる為の英仏への大量の駐在武官、大使館員の派遣だった。
一方軍では、長い間陸軍が平時状態だったので、将校、下士官の増強から始めないといけないなど、問題山積みで頭を抱えていた。
兵士は3ヶ月で訓練すれば揃えられるが、下士官、将校となるとそうもいかない。
この為、現状で軍に属している兵士、下士官を1階級から2階級特進させ、一部専門教育を施した上で下士官を揃えるなどと言った、強引で泥縄的な事が実施された。
将校も例外ではなく、軍の規模拡大に合わせて強引に昇進させられた。もしくは、通常は少佐が率いる部隊を大尉が率いるような制度、慣例が整えられた。
何しろ、たった1年で10倍の規模の軍隊に膨れ上がるのだ。
将校の方は、予備役将校の動員による補充だけでは足りず、既存の学校の大幅増員だけでなく、数年後を見越して新たに学校すら作る事態となった。また、早々に将校に向いた大学生の動員計画も立てられた。
海軍の方は、海軍予備員という平時は普通の船に乗っている航海士などが召集されているが、事態は陸軍と似たり寄ったりだった。
このため、既に退役した将校までが召集されている。
それ以外にも、軍医など後方を支える技術職も同様の事態となっていた。
そして陸海軍共にさらに頭を抱えたのが、膨大な数が必要と認識されるようになっていた航空機の搭乗員(パイロット)の確保、育成だった。
何しろ、技術を必要とする搭乗員の育成には時間がかかる。だが日本では、民間の搭乗員が非常に少ないので、当座の搭乗員の確保が非常に難しかったからだ。
(もっとも、一定数いるのはアメリカくらいだった。)
しかし全て一歩一歩進んでいくしかなく、数年越しの計画を立案、そして実行していく事になる。
戦争の方は、先に戦争準備を進め、さらに先手を取り、相手の意表すら突いたドイツの圧倒的優位で進んでいった。
1940年6月には早くもフランスが降伏。
そしてこれで戦争が短期間で終わると考えたイタリアは、戦争の分け前を得るべく慌てて参戦。
しかし新たにウィンストン・チャーチルを首相としたイギリスは屈する事なく、「ダンケルクの戦い」、「英国の戦い」を展開する。
そして空軍同士の決戦となった「英国の戦い」において、日本軍はようやく活躍の場を得ることとなった。
1940年春くらいに送り込まれた部隊に加え、5月から慌てて準備して送り出した部隊が、フランスが降伏する頃から続々とブリテン島に到着した。
そうして到着した部隊は、「ダンケルクの戦い」で決死の覚悟で北海に展開して制空権維持に活躍した空母部隊、「英国の戦い」で最終的に一方面を任されるほどとなった日本陸海軍の航空隊など、活躍は枚挙にいとまない。
イギリスから勲章を授与された事例も、この時期のものが圧倒的に多い。
それだけイギリスにとって辛い時期だった。
今日まで続くイギリスの日本への親近感も、この時に醸成されたとすら言われる。「空のサムライ」達は、英国民のもう一人のヒーローとなった。
そうした中で日本が慌てたのが、武器供与だった。
なんでもいいから、旧式銃でも良いから、という悲鳴のようなイギリスの要請に応えるべく、日本本土にある予備の武器をかき集めて、工場、工廠を24時間稼働でフル操業させ、イギリスに渡すなどの努力が行われた。
移動予定のない内地の部隊などは、その装備を丸ごと剥がされ、武器弾薬だけがイギリスに渡ったりもした。
この時期のイギリスは、志願兵に鉄槍をわざわざ生産して支給するほど武器に困窮していたので、多少旧式で使い勝手が悪くとも、日本軍の装備は非常に喜ばれた。
この影響で、イギリスの兵器博物館には日本軍の旧式兵器が多数展示されていたりもする。
そして日本だけが慌てた、ある種滑稽な事件に「菊の御紋」があった。
小銃に刻印された「菊の御紋」は、天皇陛下からの預かりものという証であるが、兵士に武器を大切に扱わせる為の一種の方便だった。
中華民国や満州に対して確実に輸出、供与する兵器には製造段階から刻印は無かったが、供与するのが自前の中古兵器となると話は別だ。
そして「菊の御紋」の入った小銃を他国の兵士に使わせて良いものかと、ある種深刻すぎる議論が交わされた。
さらに、今後の事も考えないといけないという議論にまで発展。
結局、今後生産する兵器には「菊の御紋」は入れない事になった。
要するに、色々と面倒くさくなったのだ。
一方で、日本がこの時期、1940年夏くらいから深刻になり始めた問題に、ドイツ軍潜水艦による通商破壊戦があった。
体制を整える1941年頃まで苦境は続き、その間に日本だけで数百万総トンの船舶と、巡洋艦や駆逐艦など多数の艦艇を失う大損害を受けていた。
また沈まないまでも、戦艦や空母が大きく損傷する事もあった。
そうした状況では、必然的に海軍へと国民からの非難が集中した。
海軍自身も事態の深刻さを身に沁みて理解させられたので、必然的に潜水艦に対抗できる海軍力の整備へと大きく傾いていく事になる。
「水面下の戦いこそ今次大戦の決戦場なり」というわけだ。
この結果日本海軍は、1939年に計画した大型艦の半数以上を発注停止し、対潜水艦用の艦艇と装備へと予算や資材、それに人材を振り向けている。
計画された大型艦のうち、戦艦2隻は建造中止。大型空母のうち1隻は技術的な検証と評価もあるので建造されるが、他に計画された4隻のうち2隻が建造中止となった。
残る2隻の大型空母は、戦訓を受けて計画段階で大きく設計と規模を改めた上で、1940年に別の計画として建造される事となった。
この結果、「新八八艦隊」と呼称された中核艦艇のうち、実際に建造されたのは戦艦6隻、大型空母6隻にとどまっている。そして「新六六艦隊」とも呼称された。
もっとも、1942年に新たな計画も追加され、そこでは今までにない程の規模を持つ大型空母4隻が計画され、戦後かなり経ってからではあるが順次就役している。
そして日本海軍は、出来た余力の多くを潜水艦対策に振り向ける事となった。
しかも海軍全体の優先順位も、潜水艦、陸上から襲来する航空機、沿岸部の敵地攻撃、そして最後に水上戦闘という、戦争前の日本海軍が想定した状況とはほぼ真逆となった。
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.。゚+..。゚+.玲子の部屋.。゚+..。゚+
龍也「この時期は大変だったな」
お嬢様「本当にあの頃はご苦労様でした、お兄様」
龍也「ありがとう、玲子。玲子の夢見で先回り出来たお陰で随分と助かったよ」
お嬢様「私は夢を伝えただけです。けど、他の方もお兄様みたいに聞く耳を持ってくれれば、ノルウェーでの苦戦もアルデンヌもダンケルクもバトル・オブ・ブリテンもせずに済んだのに」
龍也「確かにそうだけど、この時期はドイツ軍が見事だったとしか言えないよ。同じ軍人として対フランス戦は脱帽だった」
お嬢様「そうでしょうか? 私には英仏が不甲斐なさすぎ、いいえ、旧態依然としすぎていたとしか」
龍也「かもしれないね。でもね、誰もが玲子みたいに遠くが見えるわけじゃない。彼らも最善を尽くしていたよ」
お嬢様「そうですね。みんな必死でした」
龍也「ああ。だからこそ、希望の火はともり、英本土では勝つことが出来たのは間違いない」
お嬢様「はい。この時期がドン底だったのに、耐えられて本当に良かったです(色々知ってたせいで余計に気を揉んで軽い不眠症になったしなあ)」
龍也「玲子、遠い目になっているよ」
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