692 「最後の宴?(1)」
1939年9月1日の朝が来た。
けど、戦争の一報はまだ届かない。
(ヨーロッパはまだ昨日か)
開戦は現地時間の夜明け前だろう。戦争は、もう止まりようがない。ただ、日本との時差が8時間ある。開戦を告げる最初の一報は、さらにもう少し後だろうという予測だ。
ドイツ軍がポーランドに侵攻した報告を私が聞くのは、どれだけ早くてもお昼過ぎになるだろう。
この時代の情報収集能力、情報伝達速度の速さを考えたら、その日のうちは難しい可能性もある。
今は朝の6時前。今朝は赤ちゃんの当番じゃないから、隣ではハルトが眠っている。
世界にとって、また私にとって運命の日だけど、毎日は淡々と訪れる証のような朝だ。
(今日は戦争勃発の報告があるって分かっているのに、夜に一族を集めて何か発表する方が重要なのか。けど、その為に昨日から体調悪いって仮病使うとか、お爺様もやる事が小学生並ね)
そう思って声もなく笑ってしまう。
お爺様は、戦争が始まったら緊急閣議で召集される事より、一族の話し合いを重視した形だ。
(けどまあ、日本政府が当面やる事といえば、英仏と歩調合わせつつの最後通牒の算段くらいか。陸海軍、特に海軍は忙しそうだけど。……そういえば、一昨日に新しい連合艦隊司令長官になって、今日から実質仕事始めよね。山本五十六じゃなくて堀悌吉が選ばれたけど、どこかで因果が働いたりするのかなあ)
起き抜けでまだぼーっとする頭に、色々な事が浮かんでは消えていく。
ハルトより少し早く目覚めるのが習慣になっているのと、やっぱり年齢の違いで私の方が寝起きが良いせいだろう。
(今晩の事は……考えても今更か。それに、よく考えなくても、まな板の鯉よね。結局、私達のゲームの勝ち負けって体の主の胸先三寸だし……その時考えよう)
そこで思考を中断したのは、隣のハルトが動き始めたから。起きる前兆だ。
そしてさらに1分としないうちに、部屋がノックされる。朝6時だ。
「おはようございます。失礼致します」
そう言って数秒してから、リズを先頭に世話係のメイド2名も続いて入る。
「玲子様、晴虎様、おはようございます」
「おはよう、みんな。ハルトー、朝だぞー」
挨拶を返しつつ、ハルトの耳元で少し大きめの声をかける。マイさん、サラさんが子供の頃にしていた起こし方だと最近聞いたので、最近よくやっている。
不思議な事に、すぐに起きるからだ。
「ん〜〜。あぁ、おはよぅ〜」
「ホラ、二度寝しないで。着替えたら体操とジョギングよ」
「うん。あと3分」
「だから、寝るなっ。私は赤ちゃん達見てくるから、その間にちゃんと起きてね」
「は〜い」
そんな風に、いつもの1日が始まる。
私の元にヨーロッパから一報が届いたのは、午後2時頃。赤ちゃん達が昼寝している時間だった。
「来ました」
「歴史は変わらず、か」
屋敷内で仕事中のセバスチャンが鳳ビルから直通電話で報告を受ける手筈で、私とお芳ちゃんが仕事部屋で雑談している時に、それが届いた。
「はい。まだドイツ政府の報道及び宣戦布告はありませんが、ドイツ軍がポーランド軍を本格的に攻撃開始しました」
「政府の動きは?」
「まだ何も。こちらと同様、一報が届いたばかりの筈です。ですが、事前に予測していたので、すぐにも外務省が動く手筈になっています」
セバスチャンの言う外務省の動きは、ドイツに対してではなく英仏に対して。とにかく3カ国が強く連携して、攻撃を止めるようにドイツに厳重抗議する。
そしてそれで止まらなければ、最後通牒。そして24時間後に宣戦布告という流れだ。
最後通牒から丸一日は待つのがセオリーだから、宣戦布告は欧州時間の3日になるだろうというのが大方の予測だ。
「他国の動きは分かる?」
「まだ何も。ドイツ、ポーランド両政府も何もありません。各国共に、情報収集に全力を挙げていると予測されます」
「具体的に動くとすれば、ドイツから宣戦布告の発表があるか、地上侵攻開始の情報を掴んでからか」
「以前から続いている、国境紛争、国境侵犯の可能性を完全には否定できませんからな」
「地上侵攻開始は、向こうの朝になってからよね」
「はい。もしかしたら、もう始まっているかもしれません」
そう言って時計を見る。向こうは朝の6時。秋分の日はまだ少し先だから、もう陽は昇っている。欧州中原は樺太北部くらいの緯度だから、攻撃開始した早朝の5時でもかなり明るいだろう。
「まあ、ジタバタしても始まらないか。ご苦労様。何かあったら、連絡ちょうだい」
一緒に話を聞いていたお芳ちゃんは終始無言だったけど、白い顔に少し朱が差してピンク色っぽい。
歴史的瞬間に意識が高揚しているとかなら、戦争が始まって青ざめたりするより余程頼りになる。
とはいえ、既に矢を放ったに等しい私に、報告を聞く以外で出来る事はない。
あるとすれば、日英仏のどこかが宣戦布告しない場合、もしくはどこも宣戦布告しない場合になるだろう。
そうして、日本の中枢にある海外情報収集能力がある組織、会社が徐々に騒がしくなる中、鳳の一族と一族中枢に位置する人達が、午後3時くらいから鳳の本邸に集まり始める。
後に人々が「鳳一族の開戦会議」などと言った集まりの為だ。
やってきたのは蒼家だけでなく、紅家の主要な人達もだった。
この2年ほどは、私は学校に行ってない上に色々と行事を欠席しているから、久しぶりに見る顔もいる。それに若干数も増えていた。私達同様に、大人になったり新たに一族に加わった人達だ。
そして日も暮れかけた6時に、外に対して過労で静養中という事になっている鳳伯爵家当主の鳳麒一郎が、全員が集まった芝生の庭に面した屋敷の東側に面したサンルーフに、時田と家令の芳賀を連れて入ってきた。
(みんな、お爺ちゃんになったなあ)
特に重々しい雰囲気もないので、私の第一印象はそれだ。
大広間と照明された庭の一部を使った立食パーティー形式なので、残暑のちょっとした夜会という雰囲気がある。
ただし屋敷とその周囲は、厳重に警備されていた。そうした警戒感の強さが、この一族らしいと感じさせられる。
集まったところをテロリストが襲撃して一網打尽にされる、などというお話に出てくるような状況はあり得ない。襲うなら、完全武装の軍隊が必要だ。
それも当然で、鳳グループは建築業も強いので、下部組織にはいわゆるヤクザ組織が山のようにいる。急速に肥大化したので、この統制にはグループとしても統括役に欠けているのもあって苦労していると聞いている。
そしてそれ以上の強面の集団として、鳳警備保障という事実上の戦闘集団がいた。なにせこの会社の人達は、大半が軍の経験者。幹部職に元大佐とかがゴロゴロいる。元警察関係者も少なくない。
さらに海外に行けば、馬賊の集団やチャイニーズ・マフィアとつながっていたり、実質的な傭兵部隊すら持つという物々しさだ。
PMC(民間軍事会社)など影も形もない時代だけど、それ以上の組織とすら言える。
それとも悪の秘密結社だ。
だから、この程度の警備は、ある意味当然ですらあった。
そしてそんな集団のトップであるお爺様が紋付袴で、洋装の執事と家令を従えて登場すると、ヤクザの大親分や和風ゴッドファーザーのように見えなくもない。
ただやっぱり、戦国大名という方が相応しそうだ。
(こんな物騒な伯爵家や財閥一族って、他にないでしょうねえ)
「どうかした?」
「改めて、すごい家に生まれたんだなあって思って」
「それは同感。でもね、すごくしたのは玲子だよ。僕が子供の頃とは、大違いだ」
「確かに、小さな頃はもっとこぢんまりとしてたかなあ」
そう素直に感想を言ったのに、隣に立つハルトにはクスクスと笑われた。しかも笑っているのは、ハルトだけじゃなくて話の聞こえた周りもだった。ハルトの側は虎三郎一家。私の側は同世代達。
けど、私には言わないといけない事がある。
「私だけじゃなくて、みんなが頑張ったお陰よ。私は少し背中を押しただけ」
こんな事を言うと、いつもはツッコミを入れる龍一くんと勝次郎くんはこの場にはいない。龍一くんは士官学校だし、勝次郎くんは瑤子ちゃんとの関係があるとはいえ、一族だけの集まりに呼ぶわけにもいかない。
私の隣にいるのも、どこかの世界かループでは悪役令嬢を断罪するのであろう勝次郎くんではない。
だから私の言葉に応えるのは、ハルトだった。
「まあ、そういう事にしておこうか。それより、ご当主の話が始まるよ」
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