690 「欧州の天地は複雑怪奇」

「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じた」


 8月28日、国会において平沼騏一郎内閣総理大臣は、私が前世の歴史で知っている言葉で声明を発表した。

 もっとも、内閣を総辞職したわけじゃない。


 『独ソ不可侵条約』に対しては、「国家社会主義と共産主義という似通った勢力が手を結んだまでのこと」と強気の声明を出している。

 「日本=ポーランド相互援助条約」でも、「英仏と共に欧州の、ひいては世界秩序を維持する事は、国際連盟常任理事国としての責務であり、義務とすら言える」と発表していた。


 なお、28日の声明は、27日深夜日ソの間に停戦協定成立に対する声明だった。

 平沼首相を嫌う人にとって、『独ソ不可侵条約』が結ばれ、ポーランドと条約を結んだ上での、彼が天敵とみなしているソ連共産主義体制との停戦は、先日のポーランドとの条約と行動が矛盾するのではないかと問われたからだ。

 加えて、ポーランドとの条約は、日本が欧州の戦争に巻き込まれるのではないかという懸念の声もでた。


 もっとも、内閣への風当たり自体はゆるい。

 国境紛争自体は、新聞など報道に対しては箝口令状態だったから、平沼首相の政敵たちも『独ソ不可侵条約』が結ばれた後も強気に出るに出られなかった。


 それに平沼内閣は挙国一致で、政友会と民政党が参加しているから、議員の声自体が小さい。

 欧州での戦争についても、遠く離れたヨーロッパの事なので、日本が戦争に巻き込まれる事よりも戦争特需の夢再びという雰囲気の方が強い。

 株式市場も大盛り上がりだ。


 そうした状況での、矢継ぎ早のポーランドとの条約締結による英仏との関係強化、そしてソ連との停戦協定の成立だ。

 政府としては、日本の国益を損ねないように十分以上に活動している事になる。


 海外からも、英仏など欧州諸国からは絶賛に近い声明や報道が聞こえてきていた。防共協定、不可侵条約を結ぶアメリカも、ルーズベルト本人が多少微妙な表現ながら肯定的な談話をラジオで声明している。


 ただしアメリカでは、もはや私の共犯者と言えるハーストさんが、日本の外交努力と成果を高く評価する記事を、ほぼ全ての新聞、報道でアメリカ中に知らせていた。

 アメリカ市民が警戒する共産主義に対して強い態度に出ているのだから、扇動するまでもなく日本の行動は彼らにとっても正しいので、アメリカ政府も報道に対して何も言えないでいた。

 アメリカ政府は、市民達の「アメリカも続け」という声を何とか鎮めるのに躍起になっていた。


 一方非難してきたのはドイツ。

 特に外務大臣のリッベントロップがガチ切れ。駐独日本大使を無礼な形で呼び出し、口汚く罵りまくったという。


 リッベントロップは、本当はポーランドにまで出向いた吉田茂に文句を言うつもりだったみたいだけど、さっさと船でイギリスに帰ったので文句は言えず仕舞いだったそうだ。

 さらにドイツは、日本でも駐日大使が外務省ばかりか首相官邸にまで押しかけ、直ちに撤回するように強く要請してきた。


 これに対して日本政府は、英仏と歩調を合わせるのもあるが、ソ連に対する日本独自の外交であると説明。

 さらに独ソ不可侵条約を結んだことで、逆にドイツを強く非難した。


 そしてドイツは、ドイツ、日本の両方で戦争になったら日本の責任だと言い捨てていた。

 日本の行動は、相当予想外だったんだろう。

 ただし、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーがこの件で何かを言ったという情報は入ってこなかった。

 その一方で、ドイツがソ連に何か働きかけた可能性があるという報告もあった。大方、国境紛争はもうしないでくれとでも頼み込んだんだろう。


 そして「複雑怪奇」の声明だけど、欧州情勢は日本から見ると非常に複雑怪奇だから、日本もその流れに遅れないように迅速に行動を行ったのだという内容になる。

 あの平沼騏一郎がここまでの言葉を言うのか疑問はあるけど、政権内のブレーンが文章を考えたと後でお爺様から教えてもらった。

 身内に大臣がいると、色々な話を直接聞けるのは便利だ。

 そしてそんな事を思うように、私自身の感覚は傍観者になっていた。


 この先があると思っても、待っているのは日本が連合軍側に参戦した第二次世界大戦。前世の歴史通りなら、特に序盤は危うい場面もあるけど勝ち馬でしかない。

 一番の問題は、アメリカの参戦の有無。

 卑怯なパールハーバー・アタックでアメリカ国民が一斉に奮い立つ、といった燃えるシチュエーションをドイツが演出してくれる可能性は低そうだ。


 パターンとしては、第一次世界大戦の参戦パターン。もしくは、米西戦争のようにアメリカが自作自演で攻撃されたと言い立てて、強引に参戦するパターン。

 独立戦争から私の知る前世の歴史の21世紀に至るまで、アメリカの自作自演はお家芸なので、そこは期待大だ。


 アメリカの王様達にも、『乗るしかない、このビッグウェーブに!』と煽りまくる手紙を早速何通か出しておいた。

 私に9月1日以降があるのなら、これからも主にアメリカに対して『乗るしかない!』と煽り続けるつもりだ。


 けどそれは、先の話。

 あと数日、9月1日以降を迎えることが出来るまで、私は赤ちゃん達を中心になるべく多くの人と静かに過ごした。



(あとは、9月1日にドイツが戦争を躊躇(ためら)ってくれたら万々歳ね。開戦って夜明け前だから、早ければ昼前には一報が届くのか。けど確か、自作自演の謀略で戦争始めるのよね。宣戦布告があって初めて戦争だけど、あったかなあ? ……記憶に残ってないなあ)


 28日にそんな事を思っていたけど、状況は確実に戦争に向かっていた。

 24日から、ドイツによるポーランドに対する挑発、小さな襲撃や破壊行為、高々度偵察機による領空侵犯の件数は増加した。ポーランド軍との小競り合いも同様だ。


 そして29日には、イギリスの「デイリー・テレグラフ」が、ドイツがポーランドに侵攻準備中と一報。

 これで世界中に、ドイツが戦争を起こそうとしている事が暴露された。


 また同日、ドイツはポーランドに対して、領土問題になっているポーランド回廊割譲を要求する最後通牒を提出。

 最後通牒という事は、相手国が条件を飲まない限り戦争を始めるという合図だ。

 こういうのは丸1日か2日待つのがセオリーだから、9月1日開戦はこれで確定だろう。


「で、この戦争の一番の政治的問題点って奴が、総統閣下と英仏が違う考えを持っているって事だね」


「加えてドイツは、26日以後に英仏と交渉したという情報が来ています」


「ドイツは、ベルサイユ条約でのポーランドとの国境問題を解決するだけの政治的行動という解釈なので、ポーランドに対して大軍を用いても英仏は戦争を仕掛けてくるまでに至らないと考えているようです」


 8月30日、情報が色々と回ってきたので、お芳ちゃんたち側近からそんな報告を受ける。

 最後の報告は確認に近い。独ソ不可侵条約のあたりで、英国外相のハリファックス卿に、そんな話を言ったと現地の吉田茂が入手していた。

 もう、ため息しか出ない。


「ハァ。なんでこう、ドイツは自分勝手な解釈しかしないのかなあ。ていうより、英仏も舐められすぎでしょ」


「日本は相手にもされてないけどね」


「何年か先に、その事を地獄の底で後悔させてやるけどね」


「戦略研の研究だと、ドイツが勝つ可能性もあったんじゃないの?」


「英本土が落ちない限り何とでもなる。それを補強する為に、私は日本を早々に戦争に引きずり込ませたのよ。最低でもナチスには滅びてもらわないと、おちおち地獄にも落ちられないじゃない」


「……あんまり大声だと、子供部屋にまで響くよ」


 言われて、思わず口に手を当てる。

 ネガティブ過ぎる言葉は、赤ちゃん達には当然として、マイさんにもあまり言った事はない。

 お芳ちゃん達側近は一蓮托生なので気にしていないけど、他にはお爺様、それにシズと時田、セバスチャンくらいにしか、ここまでの言葉を吐く事は滅多にない。筈だ。

 あとは、小さな頃に紅龍先生に言ったくらいだろう。

 だから声を荒げないなら、お芳ちゃん達に遠慮はいらない。

 お芳ちゃんも、気にせずに話を続ける。


「それで、今後の方針は?」


「日本政府だけじゃなくて、手が伸ばせる限り伸ばして、人種差別される人、虐殺される可能性の高い人の救援。物を作る以外の戦争は、専門家にお任せ。あとは交渉ごとね。最終的には、1日も早くアメリカ合衆国をこっち側で戦争に引きずり込む。それで勝ちは確定よ」


「最終的なところが難問だね。お嬢が反共を煽りすぎたから、仮にドイツがソ連に攻め込んだら傍観しかねないよ」


「かと言って、ドイツとソ連の二国を相手の戦争も考えたくないわね。戦略研の結果だと、アメリカが加われば負けは確実にないけど、7年間も戦争は止めて欲しいわね。世界中の経済が傾くから。……やめやめ。今は目の前の事を考えましょう」


「それが健全だね」


 その後もしばらく話をしたけど、お芳ちゃん達は一番気にかかる存在でもあった。

 体の主との勝負に負け宣告を受けたとしても、赤ちゃん達を始め一族は安泰だろう。けどお芳ちゃん達は、私と一蓮托生で付属物とすら見られている。


(まあその時は、体の主によく言うしかないか。あーっ、早く1日の夜にならないかなあ)


 やっと当面の情勢が確定すると、思うのはその事ばかり。静かに過ごすのは、上っ面ばかりになってしまった。



__________________


複雑怪奇:

作中同様8月28日に行われた声明の中で語られた。そして平沼内閣総辞職。

平沼騏一郎が談話の内容は以下の通り。


「今回帰結せられたる独ソ不侵略条約に依り、欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢を生じたので、我が方は之に鑑み従来準備し来った政策は之を打切り、更に別途の政策樹立を必要とするに至りました」


当時の日本外交の国際認識の欠如を象徴している。

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