689 「最後の撃鉄(3)」
歴史は動いていた。
けれども、歴史の本、教科書などでは一瞬で過ぎていく出来事をリアタイで体感すると、長く感じて仕方がない。
特に、歴史のターニングポイントと分かっている事件が動いている場合は尚更だった。
「祝杯は、もう一つの結果が出てからだ」
お爺様がそう言ったけど、26日の夕方、満州国境に損害を無視するような攻撃で殺到していたソ連軍が、中州に再び上陸までしていたのに、慌てるように撤退を開始したとの一報。
私達がその第一報を知ったのはその日の夜もかなり時間をまわってからだったけど、何が起きたのかを推測するのは簡単だった。
「ソ連は、ドイツがポーランドに侵攻するのを知っている。そして戦にケリがつく前に、反対側からポーランドに押し入る火事場泥棒をするつもりだ」
「更に言えば、バルト海諸国、フィンランドにも軍を進めるつもりよ」
夜、居間に呼ばれた場で、お爺様とそんなやり取り。
部屋には他に、私と一緒に居間に来たハルト、情報を持ってきたであろう軍服姿のままの龍也叔父様。それに善吉大叔父さんと、時田、セバスチャンも控えていた。
奇(く)しくも、鳳のトップ会議のメンツだ。
「それはお前の夢見だったな。だがまあ、そのおかげでソ連は二正面での戦いを何としても避けるべく、日本との停戦を急いでいる」
「日本がポーランドと相互援助条約を結んだ以上、ポーランドで戦闘が始まると戦争状態に突入する可能性がある。そうすれば、日本との紛争を抱えたままのソ連は、ポーランドに押し入るのが難しくなります」
「モスクワでは東郷大使が押している。一両日中には、停戦協定が結ばれる可能性が高い」
龍也叔父様の言葉に、お爺様が確信をもって付け加える。そしてその言葉に、部屋に居合わせた全員が強く頷いた。
「他国には悪いけど、そうなれば日本は一安心だね」
「ドイツとの戦争が始まってしまいますけれどね」
一見善吉大叔父さんは自分勝手な物言いだけど、それが正直な気持ちなのは間違いない。
それでも自虐の笑みが出てしまう。
そんな私を隣のハルトが、横から軽くハグしてくれる。ゆっくりと動く仕草に慈しみがあった。
加えて龍也叔父様が、いつもより優しげに私を見る。
「そんなに自虐的にならないでいいよ。玲子が今までどれほど頑張ってきたのかは、周りのみんなは知っている。それにこれが、日本にとっての最善手である事もね」
「はい。ですが内心では、戦争自体を何とかできないかと思っていました」
「それは思い上がりだ。父さんなら、傲慢とでも言ったんじゃないか。多少先の事が見えようと、何もかもが手のひらの上といかん事くらい分かっているだろ。
だがまあ、最初に聞いた悪夢の夢見から、よくここまで捻じ曲げたもんだ。盤面を見ろ、黒い駒が一つ白くなった。これはもう変えようがない」
「本当にそうですね。僕が遊び呆けていた頃から、本当に今までありがとう。ところで玲子、戦争自体を何とかしたいというのは、ずっと心に秘めていた事なのか? 抱えすぎは良くないよ」
隣にいるハルトの視線が、少しばかり非難の色を滲ませている。秘密はなしという二人の約束を破った事になるからだ。
だから軽く首を横に振る。
「ううん。考え始めたのは『二・二六事件』事件の少し後くらいからね。英米と軍縮条約と不可侵条約が結ばれて、更に防共協定が決まった辺りから。機会があれば、盤面を全部変えられるんじゃないかって。結局、ほとんど何もできずに傍観してたんだけど」
「そうだったんだ。それでも言って欲しかったな」
「その、ごめんなさい」
「玲子が内に色々抱えているのは、小さな頃からずっとだ。そして事が動いて、いつも驚かされていた。なあ」
お爺様のその言葉に、ハルト以外が苦笑いを浮かべる。口を開いたのは、グループの事で実際に一番大変だったであろう善吉大叔父さんだ。
「確かにそうだね。ただ、全部ひっくり返そうとしたら、肝心なところが疎かになっていたかもしれないし、何より足元が危うくなる。
それに出すぎると、必ず誰かに足を引っ張られる。強引な事をすると、内側でも意図的に手を抜く者が出る。商売の話だけど、強引に進めすぎたり上を見過ぎて失敗した人を何人も見てきたよ」
「善吉は堅実が座右の銘だからな」
「財界からは、真逆に思われているけどね」
そう笑って頭をかくけど、その頭は私が小さかった頃と比べ物にならないくらいに薄くなっていた。
「これからは、ますますそう言われるだろうな。龍也や玲子は、もう皮算用しているんだろ?」
「うちでは、総研と戦略研がしているわよ。報告書読んでる? そういえば、政府関係で研究部署を作ったって話を聞かないわね」
「陸軍でも、正式に部署は作ってないね。玲子の夢の中にはあったんだよね」
「はい。内閣調査局、内閣資源局、企画院あたりですね。けど、どうしても社会主義的、共産主義的になるので、その手の人が群がって事件になったりもしていました」
「夢で色々あるのは、日本が戦争をしているせいだな?」
「大陸との事実上の全面戦争を始めるので、その為ですね。これから作る事になるんじゃないでしょうか」
「それならいっそ、有事限定という法を通してから、軍需全般を扱う省庁を作った方が早そうだな。欧州での戦争に関わるとなると、悠長に段階を踏めるとは思えない」
「まあ、そういうのは、この先考えるんだな。祝杯は、もう一つの結果が出てからだ」
「では、乾杯!」
国境紛争中のソ連軍が、戦闘を事実上停止してから24時間以上が経過した27日の夜10時頃、ついに待ち望んでいた報告が入った。
「停戦合意の条件は? 白紙状態?」
「まあ、白紙だな。領土問題については、中華民国との問題という事で逃げられた」
「だが、明確に領有権を主張しなくなったので、連中は今回の負けを認めたに等しいよ」
政府と陸軍からの情報なので、お爺様と龍也叔父様が順に答えてくれた。
そして今回は、中華民国どうこう以前に国境の確定は無理ゲーなので、向こうが引き下がった時点で良しと考えないといけない。
ソ連はこれから欧州で動くから、早く話をまとめるべく譲歩したとすら言える。
けどもう一つあった。
「それと外務省からもう一つあるぞ」
「もったいぶらずに教えてよ」
「中華民国政府との間に、満州での軍備増強の条約が通った。当然だが満州臨時政府との間にも協定が結ばれる。そしてこれを、ソ連政府は黙認するという形になった」
「ソ連が黙認となると軍備増強は決定ね」
「そうだ。今回ソ連が極東にいる筈のない戦力を持ってきていたので、日ソ間の協定破りが公然のものとなった。だから全部ご破算。向こうも文句を言う以上は、何もできなかった」
「へーっ。よく証拠があったわね。偵察機の写真とか?」
「いや、満州に飛んできた敵機の部隊識別マークと搭乗員だよ。ソ連は色々と誤魔化してきたが、一つ二つ、一人二人じゃないから誤魔化しようもなかった。勿論、捕虜からの証言も取ってある。撃墜されて国に帰っても待遇が悪くなるから、亡命と引き換えに洗いざらい話したよ」
お爺様ではなく龍也叔父様が答えてくれたけど、ちょっと悪い顔をしている。捕虜の足元を見たり、揺さぶりをかけたりしたんだろう。
「では、関東軍は3個師団の追加常駐が確定ですか?」
「ああ。それに半年以内に、さらに3個師団も増強予定だ。これで朝鮮軍と合わせて15個。やっと極東ソ連軍の半数だが、今回の紛争でソ連は特に航空隊を消耗した。欧州でも大きく動くから、しばらくは日本が有利となるだろう」
「ソ連にしてみれば、とんだやぶ蛇というやつだな。連中にとっての欧州が落ち着いたら、負けを取り返そうと大軍を持ってきそうだな」
「その頃には、我々は戦時動員を進めていますよ」
お爺様の言葉にも、龍也叔父様は余裕綽々。まあ、この場にいる人達に聞かせる為の会話でもあるけど、実際のところソ連とのチキンゲームは日本が有利になるのは間違いない。
懸念があるとすれば、陸軍、関東軍共に今回の「勝利」で天狗になった上に、満州に大軍を積み上げて増長しないで済むのかという点だ。
今回の戦闘が、殆どの場合は日本軍が優位に進めたという事なので、尚更懸念が深まってしまう。
(けどまあ、ポーランドと関係深めて英仏と一緒に対独開戦になれば、ドイツと組んでソ連を滅ぼそうとか言う物騒な人も出ないでしょ……平沼首相、大丈夫よね)
「これで一安心かな?」
「次はドイツがどう動くかですけどね」
私が緩んだ表情をしていたのだろう。隣のハルトも、少し表情を緩めてもう一度軽くグラスで乾杯する。
酒精のごく軽いスパークリング酒が、喉に心地良い。
「ドイツとソ連は、間違いなくポーランドに対して動くだろうね」
「やめろ龍也。今くらい、次の事は考えたくない。お前らもだ」
「はーい」
機嫌良さげなお爺様に、三人共が子供のように返事をする。
そして朗報に雰囲気が明るいだけでなく、屋敷に居る者の多くが大広間に集まっていたので、ちょっとしたパーティーのようだった。
そんな雰囲気を受けつつ、お爺様がさらに私達を見てから、周りに聞こえる声をあげる。
「それとだ、前からなんとなく言っていたが、9月になったら話す事がある。と言っても悪い話ではない。働いている連中も、仕事は早めに切り上げるように。出来るだけ集める」
「他の日はダメなの? もしかしたら欧州で戦争が始まって、忙しくなるわよ」
「1日がキリがいいだろう。龍也も近衛師団の連隊長になる。それにな、毎年の事だが法事があるだろ。墓前とまでは言わんが、仏壇には報告したいからな」
つまり一族の何かを決めて発表する、という事だ。
そして9月1日といえば、私の父の命日。他にも、1923年に起きた関東大震災で命を落とした使用人や社員も少なくない。だから昼間には毎年必ず法事がある。
そして、あまりに多くの人にとっての命日だからあまり注目もされないけど、たまにこうした行事じみた事をする。
だから特に反対もなかった。
それに私にとっても、場合によっては最後になる。
加えていえば、もはや意識する事も減った乙女ゲーム『黄昏の一族』のクライマックス。悪役令嬢が断罪される日だ。
(因果とか揺り戻しの、代替イベントってところかな? まあ、お誂え向きといえば、お誂え向きね)
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