669 「日ソ国境紛争(6)」
7月29日、ソ連と主に日本の大規模国境紛争は、2箇所で激しさを大きく増した。
1箇所は、ウスリー川の珍宝島とその周辺。何よりその上空。もう1箇所は、朝鮮半島の国境とソ連国境に細く入り組んでいる、中華民国、満州自治政府の領域である張鼓峰と呼ばれる小さな山とその周辺だった。
既に張鼓峰の山頂部を中心に各所に陣地を構築し、朝鮮側に各種砲兵を配置していた日本軍に対して、ソ連軍は彼らの基準での4個旅団を麾下に持つ1個軍団、他の列強諸国の基準だと増強1個師団程度の戦力を国境周辺に展開していた。
日本側が基本的には1個師団なので、ソ連側がやや勝る兵力数だった。
重装備、機械化装備の装備自体は同程度なので、全体の戦力はソ連側が優っている事にもなる。
しかし陸上での戦闘は、一般的に守る側が優位とされる。守る側が陣地構築を既に済ませている場合は尚更だった。さらに現地日本軍は高い場所に陣取っており、襲来する敵の動きを的確に捉える事もできた。
ソ連軍の攻勢予定は8月1日だが、優位な状況を先に用意しようと張鼓峰の北方にある沙草峰に越境した事で、前日の29日から始まった。
越境を確認した日本軍は、まずは警告射撃を実施した。しかしソ連軍が無視して陣地構築を開始したので、日本軍は後方の砲兵部隊に連絡を行い、遠距離からの重砲による砲撃を開始。
その後、重機関銃などの支援を受けつつ前線の日本軍が前進すると、数も十分ではなかったソ連軍は一旦退いた。
だがそれは、翌日から始まる戦闘の序章でしかなかった。
「敵襲ーッ!」
7月30日も夜半となった頃、張鼓峰とその周辺部の日本軍陣地の各所で、同時にソ連軍の襲撃が実施された。
29日の戦闘で後退したソ連軍を強く警戒していた日本軍だったので、自分達のセオリーから考えて攻めてくるならこの日の夜と予測していた日本軍の迎撃、そして反撃は苛烈だった。
しかもその迎撃は、攻めよせたソ連軍の予測を大きく上回っていた。
もっとも、地の利が張鼓峰を守る日本軍にあったので、ソ連軍が攻めあぐねたという点も無視できない。
張鼓峰と呼ばれる場所は、標高約150メートルの丘陵で、西方には豆満江が南流していた。この為日本軍は、川を挟んで朝鮮と隔てられているので、一見防備が難しい場所だった。
張鼓峰の広さも、南北5キロ、東西2キロ程しかない。珍宝島よりは広いが、大軍が戦闘を行う広さではなかった。周辺部を含めても、何万もの大軍が布陣する余地はない。
しかし丘陵地の東側には、ソ連側の呼び名であるハサン湖がちょうど細長く横たわっていた。
この為、ソ連軍が丘を攻めようとすると、川と湖の間の狭い場所から攻めるしかない。そしてその南北二箇所のどちらも、幅1キロもない。
日本軍が重厚な防御陣を敷いていたら、銃砲によって形成された鋼鉄のミキサーに人間の集団を放り込む事態になりかねなかった。
状況としては、城攻めのような有様とも言えた。もしくは、野戦要塞に攻めかかるようなものだった。
その上、ソ連軍にとって悪い条件が重なっていた。
日本軍は川の対岸にも多数の陣地を作り、主に攻撃路に対して砲列を敷いていた。丘陵地を攻めるから、攻めよせる側は守備側から丸見えとなる。さらに日本軍は、ソ連側から見えない位置に行き来できる用意を整えていた。
補給の点では、互いに数キロ手前まで鉄道が敷かれているので、国境紛争を超えるレベルの攻撃を仕掛けない限り、補給を断つ事は非常に難しかった。
それでも空襲や重砲を用いた遠距離射撃が考えられたが、日本軍も同じ事をしてくる可能性が高く、紛争をエスカレートさせるだけだと考えられた。
しかも日本軍は、この場所への兵力の移動に、臨時装甲列車を用意してすらいた。この為、少数の精兵を浸透させての破壊活動も断念された。
ただしソ連軍全体としては、ダマンスキー島(珍宝島)方面が本命だった。ハサン湖(張鼓峰)方面は牽制と陽動を兼ねる為、無理を押してでも積極的な攻撃を行わなくてはならなかった。
日本軍の目を向けさせる必要があるからだ。
だからこそ30日夜半から31日にかけての戦闘は、まだ全力ではなかった。
それでも戦闘を行ったのは、8月1日からダマンスキー島方面での大規模な航空攻勢が開始される事に対する陽動と牽制だからだ。
この攻撃で日本軍の目をハサン湖方面に向けさせ、戦力の分断を期待していた。それが無理でも、この方面の兵力を釘付けにして、ダマンスキー島方面に向かわせる事が出来なくなるのは確実だった。
しかし、ハサン湖方面のソ連軍司令官は上の命令で協力しているだけで、ダマンスキー島方面のジューコフ将軍の間接的な指揮下にしかなかった。
この為、単独での成果を求めて、この時の攻撃も盛んに実施した。ソ連側はさらに兵力を増強し、執拗に何度も攻撃を実施。さらに、日本軍が布陣する朝鮮側の古城、甑山などを砲撃した。
対する日本軍守備隊も、断固とした防戦を実施。単に銃砲を射かけるのではなく、反撃を加えて被占領地を奪回した。
「これで何度目だ?」
「5回です。そろそろ本格的な逆襲と行きたいところですね」
砲火が飛び交う少し後ろで、将校二人がそんな会話をする。
ただ後ろと言っても、丘の後ろ側なので前線から1キロと離れていなかった。掘り下げ偽装した陣地でなければ、砲撃を受けるような位置だ。
問いかけたのは、独特の軍装をした少佐。答えたのは、かなり土に汚れた軍装の同じく少佐だ。しかし答えた方が、上の立場だった。
独特の軍装の方は、戦車隊を率いる池田末男少佐。答えるのは、野中四郎少佐だった。
池田は、軍の近代化と強化を進める鳳大佐の一期下で、同じ騎兵出身ですぐ下の後輩という事もあってか、早くから騎兵から戦車に転向。戦車第一師団から、現在練成中の戦車第二師団に異動していた。
そして今回一部が張鼓峰に派遣されたのだが、ここ数年の戦車隊の増勢が急速なので、まだ少佐ながら戦車連隊を率いていた。
野中の方は、1936年『二・二六事件』を起こした青年将校達と深い関係にあった将校だ。
だが、事件を起こすかなり前に引き離されてからは、黙々と軍務に励んでいた。それでも関係者という事で、やや出世が遅れている。クーデター参加者の菩提を弔うなどの行いを、隠れる事なくしているのも影響していた。
もっとも当人は、それを全く気にしていなかった。
「では、やるか。威力偵察的な反抗なら、上の許可はいらんぞ。適時反撃せよ、だ」
「良いですね。うちの大隊が、総力で随伴しましょう。支援は?」
「重戦車2個中隊のうち、最初は1つを野砲の代わりにする。訓練もさせてあるから、十分に代役は務まるぞ。先陣は俺の重戦車中隊。その両脇をそれぞれ中戦車中隊で固める。もう一つの中戦車は予備。軽戦車は、相手が分からんので支援とする」
「連隊全力ですか。歩兵は、俺の大隊だけで足りますかね?」
「周りに声はかけてある。19師の師団長にも話は事前に通してあるから、こっちが始めたら支援してくれる算段だ。相手の戦車戦力を見たいらしい」
「連中、歩兵ばかりで戦車を出してきませんからね」
「極東に山ほど配備しているのに、浦塩にも近いこの場にいない筈ないからな。引きずり出してやる」
池田が戦車兵もしくは騎兵らしいどう猛な表情を見せるのを、野中は小さく苦笑しながら見る。
商売を変えても、騎兵は騎兵だ、と。
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臨時装甲列車:
多くの国が製作しているが、第二次世界大戦でのドイツやソ連のものが有名。
日本軍も、この時期だと他に九四式装甲列車を製作している。
大抵は路線上での治安維持が目的。
この世界の満州は治安がそこそこ良い筈なので、もしかしたら存在しないかもしれない。
池田末男少佐:
史実の第二次世界大戦末期、占守島で第11戦車連隊(愛称:士魂部隊)を率いていた。
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