666 「最後の仕込み、もしくは賭け」

 今年の夏休みは憂鬱だった。

 学生を卒業して2年目だからじゃあない。子育てが大変だからでもない。体もいたって健康だ。

 主な理由は、満州とソ連の係争地での国境紛争が、どんどんヒートアップしているから。今日、23日には、国境を挟んだ大砲撃戦が開始されたという一報も受け取っている。


 もっとも、紛争の為の軍資金として政府の予備費が消し飛び、さらに数億円上積みの臨時予算にしようかという話が早くも政府の一部から出ている。けどそんな事は、もはやどうでもいい。

 このまま日本とソ連が全面戦争になるんじゃないかと、かなりモヤモヤさせられた。


 現場に対して何もできないからでもあるし、さらに言えば私が気を揉んだところで仕方ない。

 そして考えが一巡して、なるべく一人の時、最低でも子供達のいないところで内心溜息をついていた。

 

「夜半に赤子の元を離れた母親が、お爺ちゃんに愚痴りに来たというわけか?」


 とにかく政治的な事で何か出来ないかと離れのお爺様に相談に行ったら、開口一番そう言われてしまった。

 

「愚痴じゃない。何か出来ないかって思っただけ」


「変わらんだろう。今は大したことはできん。だがまあ、俺も愚痴を言う相手が欲しかったところだ」


 そう言って目線で私に座れと合図し、さらに控えていた使用人に酒と茶を持ってこいと手で仕草をする。

 だから私も「そう」と返して、座布団に座ると上で足を崩す。


「軍人として、一応政治家としての読みは?」


「どっちも係争地以外に兵隊を歩いて入れない限り、紛争で終わる。これは間違いない。今回の紛争は完全に外交の範疇(はんちゅう)だ」


「越境砲撃戦、しかも日本はソ連領内に呆れるほど撃ち込んでいるみたいだけど?」


「陸軍の中央では、参謀どもが「建軍以来」「日露戦争以来」とはしゃいどるそうだぞ」


「お兄様、じゃなくて龍也叔父様は?」


「まだ向こうだ。だが出る前に、双方に弾を使わせる為に砲撃戦をするようなものだと言っていただろ。航空戦と小さな中洲の奪い合いだけでは、双方不満を溜めるだけで終わるかもしれんからな」


「その割には、両軍が睨み合っているじゃない。朝鮮北東部の根元辺りで」


「確か張鼓峰だったか? あれも紛争で白黒付ける為だよ」


「けど、あそこだと、兵隊が歩いて国境を越えられるでしょ」


「だが、ソ連兵が越えた先は、中華民国ではなく日本領だ。万が一越えたら、むしろソ連中央は即座に矛を収めるだろう」


「まあ、欧州が本命だからね。けど、信頼できるのかなあ」


 言いつつ、たまらず天井を仰いでしまう。

 何しろ5月の衝突以後、既に中華民国領である満州自治政府の飛行場に、空襲しに来ている。大規模な空中戦も発生して、日本側は撃墜されるも生き延びたソ連軍パイロットを数名捕虜としていた。

 ソ連軍機の残骸など、既に飽きるほど証拠として手に入れた。この点だけなら、ソ連に言い逃れをする余地はない。


「俺は、その点は信頼出来ると思っている。正確には、信頼じゃあないがな」


「理由は?」


「独裁者は貪欲だ。そして慎重、いや臆病だからだ」


「その心は?」


「欧州は先に欲しい場所だ。日本は今のところ後回しだ」


「今のところ? 日露戦争の復讐をいつかしてやろうって、あれ?」


「そうだ。だが、極東は裏庭。まずは欧州だ。欧州で、先の大戦で失った場所を取り戻すのが先だ。満州と日本は、それが出来ん限り余程の条件が並ばんとな」


「余程の条件ねえ。ナチスが滅びるとか?」


「それは極端だが、ドイツと余程強固な軍事同盟が出来るか、ドイツが英仏と前の戦争かそれ以上にがっぷり四つに組んでくれることだな。その上で、日本と英仏、それにアメリカの関係が悪いというのが、あいつらの理想といえば理想だろう」


「それだけ条件が揃えば、日本を叩く余力も出るし、日本を叩いても文句言う国はないわね」


「もう少し条件を詰めないといかんがな。だが、現状で日本は英仏と関係が良い。少なくとも悪くはない。欧州では、ドイツがポーランドを攻める気満々だ。

 お前の夢見の通り、ドイツがポーランドに対して事を起こす前に、露助は日本と停戦を結ぶ。これは、余程の事が起きない限り確定とすら言っていい」


「二正面の戦争は、為政者にとって悪夢だものね」


「誰にとってもな。しかも先の大戦で、ドイツがこれ以上ないくらい証明したばかりだ。そしてそのドイツは、先の大戦の轍(てつ)を踏まないよう、当面は露助と握手する。

 それがお前の夢見であり、戦略的にも実に正しい。ドイツ人らしくないくらいにな」


「ドイツにとって、ソ連は小麦と資源の輸入先だものね。……じゃあ、今回の紛争でソ連が力を入れているのは、日本に対する恐怖だけ?」


「一番は恐れだ。連中は大陸国家だからな。大陸国家の習性で周り全部を敵と思うから、実情がどうあれ攻められる事を常に警戒している。だから、自分たちが欧州で遊んでいる間、日本が余計な事を考えないように一発殴って力の差を見せつけたい。

 紛争の始まりは偶発的要素があったかもしれないが、力を入れるのは当然だろう」


 「まあね」。そう返すけど、この辺りまでは今までにも話してきた事ばかりだ。

 そして何かできるとしたら、その先になる。

 お爺様も、最初からそれは分かっている。だから聞いて来た。


「で、何がしたい? いや、するのは俺か。何をして欲しい?」


「欲を言えば、」


「欧州での戦争そのものを避けたい、なんて言うなよ。日本が出来る事はない。もう、ポーランドとフィンランドには、規模は小さいが援助しているし、これ以上は無理だ」


 軽く先回りされたけど、無理筋なのは私にも分かる。一方で「だけど」とも思う。


「……仮にこのまま停戦せずに紛争を続けたら、ドイツとソ連が不可侵条約を結ぶのを伸ばせないかな?」


「むしろ結ぶだろう。日本に対して有利な停戦をする為に。ドイツとソ連が手を組んだら、窮地になるのはむしろ日本だ。もし何かするなら、上回る事をしないとな。

 だが日本には、既に英米との防共協定がある。英米仏との不可侵条約まである。それに言うまでもないが、貿易関係も良好だ。これは事実上、先の世界大戦の前の三国協商に近いとすら言えるぞ。それ以上どうする?」


 分かっている事を、改めて次々に言われてしまう。

 けどそれで、逆に頭の中が少し整理された。もっとも結論は、次の大戦争を止めるのは無理ゲー過ぎるという、揺るぎのない答えだ。

 だから甘えてみたくもなる。


「ねー、もう少し何かネタはない? 国内情勢でも良いから」


「国内と言っても、今回の国境紛争は半ば箝口令状態で、事実上報道禁止。国民は、精々またいつものソ連の越境騒動くらいにしか思ってない。大陸の内戦の方が、まだ関心があるくらいだろ。世界情勢は、一部の者以外は紛争に関心すらない。

 国内自体は、大陸内戦の特需、陸海軍のお大尽な軍備拡張の特需、それに引っ張られた形の国内全体での好景気で呑気なものだ」


「それくらい知ってる。政府内は?」


「それも知っているだろ。平沼さんと幣原さんが、少し関係が悪いくらいだな」


「反ソ連と宥和外交だもんね。……ねえ、二人共に独ソ不可侵条約の話はしているのよね」


「平沼さんなんか、面倒な奴らがひとまとめになってくれると、むしろ喜んどるな。幣原さんは、そうなった場合は親英米外交をさらに強固にして対抗しようって考えだ。だが、幣原さんはまだ半信半疑だ。まあ、それが普通だな」


「つまり平沼首相は、独ソ不可侵条約を結ぶって思ってくれているのね」


「期待している、という感じだな」


 そんな事を話しつつ、何か打てる一手が見えてきそうな感覚になる。ただ、まだ見えてこていない。何かピースが足りてないからだ。


「何を考えている?」


「考えているけど、暗中模索、五里霧中よ。何か見えてきそうなんだけどね」


「そういうのは、大抵思い込みだ。ロクな思いつきは出てこんぞ」


 言う通りかもしれない。けど、それでも考えをもう少し深める。


「ねえ、独ソ不可侵条約が結ばれたら、英仏は何すると思う?」


「何って、ドイツがポーランドに手を出したら戦争だぞと脅すんだろ。そしてドイツは、チェコの事があるから英仏を舐めてかかる。だが英仏は、もう引く気は無い。その考えの差が、次の世界大戦が始まるって結果になるんだろ。お前が散々俺に言ってきた事じゃないか」


「まあ、そうなんだけどね。いっそ、日本も英仏と同じ行動でも取れば脅しは効くかなあ」


「同じ? 日本がポーランドと電撃的に軍事同盟を結ぶのか? それはまた複雑怪奇だな」


 そう言ってお爺様がかなりの声で笑う。

 その顔を見つつ、こっちは沈思する。


(前世の歴史と違って、日本は日中戦争してないから、ある意味フリーハンド。しかも、独伊じゃなくて英米仏チーム。平沼内閣は、内閣はともかく平沼首相は極度の反共。今の国境紛争もやる気満々。その事はソ連中央も熟知。……そうか)


「それよ、それ」


「は? 何が? まさか日ポ同盟がか? 馬鹿も休み休み言え」


「馬鹿じゃない。いや、馬鹿なくらいじゃないと、狂った国には勝てないのよ。日ポ同盟で、ソ連は慌てて停戦協定を結びに来る。うまくいけば、ドイツもポーランド攻撃をもう少し慎重になるかもしれないじゃない。それが無理でも、ソ連がポーランドに攻めるのを躊躇(ちゅうちょ)するかも!」


「待て待て待て。興奮するな。言っただろ。そういう思い付きは、ロクな事にならんぞ」


「もう、ロクでもない事は目の前に来ているのよ。なら日本も複雑怪奇な行動を取るしかないのよ!」


 そう言い切ったら、お爺様も珍しく慌てた表情を引っ込め、昼行灯を通り越え真面目な表情で少し考え込む。


「……ドイツが躊躇しなければ、英仏共々ポーランドに義理立てして、ドイツと開戦だ。お前の計画だと、早いんじゃないのか?」


「どうせ、総力戦態勢の構築ってやつには2年はかかる。それに来年の今頃には、英本土が窮地になっているかもしれない。けど、英本土だけは絶対に死守しないとダメだから、早期参戦の選択肢は十分にありよ」


「そういう研究結果も、総研か戦略研にはあったな。露助は? 停戦が成立しなければ、戦争だぞ」


「分かってて聞かないで。日本が英仏と一緒にドイツに喧嘩売るのに、ソ連がのめり込んでくる可能性はゼロ。あり得ないじゃなくて、ゼロ。絶対と言って良いくらい、日ポ同盟締結の時点で慌てて停戦協定を結びにくるわよ。鉄の男は実は臆病者なんでしょ。それに、日本に有利な停戦条約が結べる可能性が高くなる」


「……結局、ポーランドは人身御供か。じゃあ仮にだ、日ポ同盟で次の世界大戦が先延ばしになったらどうする? お前の夢と大きく違ってくるかもしれんぞ」


「もう今更よ。違う事だらけじゃない。その為に戦略研も作ったんだし、あの人達に考えてもらうわ」


「それもそうだな。……よし分かった。その線で平沼さんと幣原さんを口説いてみよう。ダメだったとしても、文句は言うなよ」


「言わない。必要なら密談に顔も出すし話もする」


「いいだろう。では、日本を複雑怪奇に落とし込んでやろう。だが、その先は賭けの要素がかなりある。覚悟しろ」


 かなりドヤ顔気味での言葉だったから、こっちも表情を決めてやる。


「そんなの、3歳の時に自分の素性をみんなに話した時から覚悟済みよ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る