665 「日ソ国境紛争(3)」
7月23日、戦場が動いた。
珍宝島もしくはダマンスキー島という、ウスリー川にある中洲をめぐる攻防戦は次のステージへと移行した。
両軍を隔てる直線距離は、中洲を足して幅は最大で1000メートルほど。中洲の上流と下流両側の中洲のない場所で、川幅は300から400メートル。
日本人の基準で見れば十分以上に大河だが、小銃でも届く距離で大砲であれば何の問題もない。日本軍の小型の歩兵砲ですら問題ない距離だった。
射程距離の長い野戦重砲やカノン砲などは、さらに3から5キロメートルほど内陸に陣地を構えていた。
そして係争地の中洲を中心として、日本軍、ソ連軍双方の砲兵部隊が多数展開していた。上陸作戦もしくは阻止を目的とした砲の中には、川岸近くに布陣しているものも少なくなかった。
周辺の地形は平地ばかりとはいえ、大きく蛇行し中洲も多い河川の周辺部。人の手が殆ど及んでいない為、大半が針葉樹林の原生林か湿地。
相手を見下ろせるような場所はないし、多少土地が高くても針葉樹林が邪魔をしていた。
そして湿地や軟弱な河原に重装備の布陣は無理なので、針葉樹林の合間か多少開けた場所に陣取るしかない。
時間があれば入念に陣地を構築する事も可能だったが、原生林の中に簡易の道を切り開き多数の重機を入れるところから始めなくてはならないので、既にある道に近い場所での陣地構築が精々だった。
それでも両軍はドーザー車(排土車)などを用いて掘り下げた簡易陣地を作って、重砲兵部隊を布陣させた。
そうした状態の為、針葉樹やごく低い丘の影に隠れるのが精々であり、上空からの偵察機から姿を隠す事は不可能だった。
「撃ち方始め!」
午前6時30分、関東軍砲兵司令官内山英太郎少将の号令で、日本陸軍重砲兵部隊の砲撃が開始された。
参加するのは、野戦重砲連隊が5個連隊、第7師団の砲兵連隊及び砲撃戦に参加する戦車隊。一時的とはいえ全てを指揮下に置くので、砲兵師団どころか砲兵軍(軍団)規模の砲撃となる。
本来なら、少将ではなく中将程度の階級の者が指揮するべきだが、この時期の日本陸軍内に砲兵を専門として第一線にいる中将はほぼいなかった。
この為、関東軍砲兵司令官である内山英太郎少将が、中将に匹敵する指揮権を委ねられていた。ただし内山少将は、この年の秋には中将に昇進予定だったという事も、この時の指揮も妥当なものと考えられていた。
なお、この時の現地日本軍が砲撃戦を決意したのは、ソ連軍が対岸の各所に上陸作戦の体制を整えたと見て、先制攻撃による一種の阻止攻撃を考えた為だった。
しかしソ連軍砲兵の正確な位置は、十分に掴めてはいなかった。日本軍も越境偵察は行っていたが、ソ連軍戦闘機の妨害が激しく、護衛の戦闘機を付けても正確な情報を掴めていなかったからだ。
日本軍は、高速で敵戦闘機を振り切る事ができる九七式司令部偵察機を投入したが、それでも多数の戦闘機に邪魔をされては限界があった。
この為、日本軍の最初の攻撃は、後方に配置された最も長い射程距離を誇る八九式十五糎加農砲によって行われた。
相手の砲撃を誘発し、場所を特定する為だ。
八九式十五糎加農砲は、日本陸軍内でも軍司令部直轄の独立重砲兵(野戦重砲連隊)にしか配備されていない長距離砲になる。
十五糎、正確には149・1ミリメートルと、上級司令部直轄の野戦重砲としては口径がそこまで大きな口径はない。だが、加農砲、つまりカノン砲と呼ばれるように長い砲身を有し、1万8000メートルという長い最大射程を誇っていた。
既に日本陸軍では後継と言える新型砲も開発されていたが、同砲は牽引で移動可能という利点があった。
しかもここ数年で改良され、ゴムタイヤなどで機動性を高め、牽引車両の強化と重なって機動力を大きく増していた。
欠点は、日本陸軍の装備としては、かなりの高価な事。また、日本陸軍の装備としてかなり重い事。
しかし、近年の陸軍全体の近代化計画により、かなりの数の整備が進められた。さらに15トン牽引車という半装軌式の大型車を装備する事で機械化され、機動力を得ると共に陣地転換も可能とされていた。
そしてこの戦いでは2個連隊が装備し、合計32門が戦闘に参加していた。
発射速度は最大で毎分約1発だが、最初は比較的のんびりと敷かれた砲列の順番に礼砲でも撃つように射撃が行われた。
だが、2箇所、各16門による長射程カノン砲の射撃は、のんびりと表現するには激し過ぎた。
そして砲弾の落下先はソ連軍砲兵部隊の概略位置であり、当然、ソ連軍砲兵陣地の応射があった。そしてさらに日本軍側からは、射撃地点に対する他の野戦重砲、野砲による総攻撃が開始される。
ソ連軍砲兵も、日本軍砲兵陣地に対する砲撃を開始し、双方川を挟んでの大砲撃戦となった。
日本軍重砲部隊の主力となるのは、最新鋭の九六式十五糎榴弾砲。陸軍の近代化計画に従って、従来の日本陸軍から見れば多数が整備されつつあり、野戦重砲連隊や国境配備の師団に優先的に配備されていた。
他には、九五式重戦車に搭載された九〇式野砲も優秀な砲だった。戦車への搭載と合わせた量産によって量産効果で生産単価が下がった事で、旧式の改造三八式野砲からの更新として、九六式十五糎榴弾砲、九一式十糎榴弾砲の数が揃うまでの中継ぎとして整備が進められていた。
しかし優秀な砲が多数あっても、互いに正確な位置を知っているのではないし、砲撃は「面」に対して行われるので、簡単に命中するものでもなかった。
しかもソ連軍、日本軍共に相手の砲撃を避けるべく陣地の転換も実施するので、さらに相手に有効な打撃を与える事が難しかった。
そして砲撃戦とは、気の長い間隔で行われるのが普通だ。先の世界大戦では、ドイツ軍や連合軍は、攻勢開始前に丸2日間も間断なく広い戦線全てに対する砲撃戦が行われた事すらあった。
なお、日本軍が投入した75mm以上の野砲、重砲は、116門。全てが威力の大きい100mm以上だった。これに、野砲としても使える75mm砲を搭載する九五式重戦車が合計81両。さらに第7師団の野砲以外の軽量級の砲が45門あった。
これに対してソ連軍は、75mm以上の野砲、重砲は208門。うち100mm以上は156門。
他に、各師団が有する76mmの連隊砲が70門あった。この連隊砲は、日本の同種の砲よりも有力だった。
全体の砲門数では、日本軍が砲撃戦も可能な戦車を投入したお陰で多少劣勢という事になる。だが、砲撃戦はより大きな大砲、より射程距離の長い大砲が有利で、ソ連軍の方が数では二倍近く有利だった。
ただし射程距離では、日本軍がやや優勢だった。
そしてさらに、砲門数よりも砲弾数が重要となる。砲兵同士の戦いは、何発撃ち込めるのかが重要だからだ。
ソ連軍は、100mm以上の野砲、重砲用に、この時点で8万発以上を用意していた。平均して1門当たり400発。
これに対して日本陸軍は、近年の予算増大に伴う生産量拡大、備蓄増進、それに砲撃戦をソ連軍以上に考えていた為、この場のソ連軍砲兵以上の1門あたり600発の砲弾、総数約7万発を用意していた。つまり、弾の数では差は大きく縮まる。
しかしソ連の場合は、欧州正面に極東とは比べ物にならない程の大軍が存在し、当然砲弾の備蓄がある。
対する日本陸軍は、今回の一件だけで陸軍が有する重砲連隊と砲弾の半数程度を既に持ち込んでいた。
今回の事件拡大を受けて大車輪で増産を開始していたが、紛争がこの時点よりさらに2ヶ月、3ヶ月と長引けば、不利になるのは間違いなかった。
ましてや全面戦争となったら、戦時の増産体制が構築されるまで不利は免れなかった。
もっとも、互いに用意した砲弾でも、総力を挙げて撃ち合えば1日で無くなる量でしかない。
しかも全て撃ち尽くしたとしても、結果が伴うとも限らなかった。
そして1門当たり600発の砲弾があっても、本格的な砲撃を行えば3日と保たない量でしかなかった。
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平均して1門当たり:
ノモンハン事件の頃の日本陸軍の野戦重砲は、1門当たり1日60発という資料もある。合計でも1門当たり精々200発程度。大きい大砲ほど、砲弾数は少ない。
日中戦争をしているのと、元々生産数と備蓄が少ないので、十分な数を用意できなかった。
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