662 「ゴールに向けての雑談」

 世の学生は夏休みに入った。

 私にはもう関係ないけど、鳳の屋敷には人の出入りが起きる。姫乃ちゃん達特別奨学生は、夏の帰省で屋敷からいなくなる。


 その少し前の7月10日に、伯子男爵議員選挙というやつがあった。伯爵は、それ以下の子爵、男爵と一緒に7年ごとに貴族院の選挙がある。

 ただ、選挙といっても同じ爵位の華族による互選だから、巨大な財力を誇る鳳伯爵家だとちょっとした根回しだけで選ばれるのは容易い。


 そしてそこで、一族当主であるお爺様の鳳麒一郎が再び貴族院議員に選ばれた。

 以前は続けて議員になるつもりは無かったけど、宇垣さんに大臣をしてくれと頼まれ、肩書きが必要なので仕方なく続ける事になった。

 ただこれで、お爺様の完全引退はさらに7年先という事になる。

 当然爵位を龍也叔父様にという話も流れた。7年後だと、ハルトが順調に爵位を継いで、私が伯爵夫人になる可能性が高そうだ。


 一方で龍一くんが、8月になれば神奈川県の座間に引っ越した士官学校から夏の帰省をしてくる。他の同世代は大学通いだから、それぞれの館に住んでいる。

 それ以外は、大きく変化はなし。龍也叔父様が、国境紛争中の満州に行ったきりという程度だろう。


 そして満州では、ソ連と一応は中華民国領の満州自治政府との間のソ連と日本による大規模国境紛争が、ますます激しさを増している。

 どちらも続々と増援部隊を現地に派遣していて、連日激しい空中戦が繰り広げられている。地上での大規模な戦闘も、もうすぐ始まるだろうとの予測だ。


 戦況は日本軍の優勢。

 ソ連空軍は数でこそ日本軍より多いけど、日本軍も陸海軍の航空隊が競うように戦力を注ぎ込んだ。しかも日本軍は、レーダーによる監視網を活用した防御の優位を活かし、戦闘を相当優位に進めている。

 軍が戦況に関して報道に対しても厳しい箝口令を敷いているので、詳細を知るのは鳳でも難しいけど、断片的情報でも日本軍の優勢は間違いない。


 けど、日本軍と満州軍は偵察機以外は国境を越える事はなく、ソ連空軍が紛争地域とその周辺の満州領を犯し続けている。

 その事を日本政府、満州臨時政府、中華民国政府が、世界に広く発信し、極めて厳しい抗議を実施している。


 ソ連が大嫌いな張作霖は既に国際連盟に提訴も行なって、ソ連を世界の悪者に仕立て上げている。

 もっとも、ソ連は馬耳東風。逆に、中洲は自国領だから正当な権利を行使しているだけだ、と言い張り続けている。

 そして逆に、日本軍偵察機による越境を非難していた。加えて、日本が満州に不法に軍を駐留させているのが一番悪いと非難している。

 どうやら彼らの中では、自分たちが認めた事も忘れたか、無かった事になっているらしい。


 一方で、水面下では日本で平沼政権が成立した段階から、日本とソ連の間で停戦の為の外交交渉が始まっていた。

 日本の駐ソ大使は東郷茂徳。ソ連の外相はヴャチェスラフ・モロトフ。


 この5月に、ドイツとの融和の為にアドルフ・ヒトラーの歓心を買おうと企図したスターリンによってマクシム・リトヴィノフが解任され、モロトフが新たな外相に就任していた。

 そして交代したばかりで、ドイツとの外交など何かと多忙なモロトフに、モスクワにいる東郷大使は強気の姿勢で交渉に望んでいた。

 けど、ソ連側が矛を収める気配なく、極東での紛争は続いていた。


 そしてこうなってしまうと、私は見ているしかない。

 大規模とはいえ国境紛争でこの状態では、本格的な戦争が始まれば生産拡大という財閥としての活動以外で、私が出来る事は本当に無くなってしまいそうだ。



「で、考える事が政治工作なんだ」


「餅は餅屋。戦争は軍事の専門家に任せるしかないじゃない」


「それじゃあお嬢は、お金儲けに精を出せばいいんじゃないの?」


 育児の合間に軽く資料に目を通し、それも終わったので軽く雑談中。いつもの事だけど、仕事部屋までゼロ距離というのは楽でいい。

 お芳ちゃんの皮肉を聞くのも、育児の合間の気分転換には丁度いい。


「私としては、『複雑怪奇』の言葉を残して三ヶ月で内閣を放り出して欲しくないだけ」


「そのあたりの仕込みは、ご当主様がされているんでしょ」


「水面下ではね。それに、知っての通り前々から色々してある。けどまあ、夢の中と違ってドイツと関係悪いから、そっちは大丈夫と思うけどね」


「それ、いつも言ってる慢心じゃないの?」


「優先順位の差ね。現状で一番の悪いのは、このままソ連と全面戦争になること」


「今のところ勝ちすぎて、陸軍が天狗になり始めているんだっけ?」


「そうらしいのよねー。しかも、龍也叔父様や永田様は抜かりがないから、次の手も準備万端よ」


「そりゃあ、色々聞いていれば、龍也様なら策を用意するでしょ」


「だよねー。夢とは違う戦場なのに、全然余裕だし」


「でも、局地的な紛争に勝ったとして、全面戦争は仕掛けないでしょ。極東だけでも、数で随分負けてるのに」


「分かってて、そういう事言わないで。慢心して、鎧袖一触とか喚く馬鹿が湧いてくる情景しか見えてこないのに」


「で、シベリアで屍山血河になった挙句に、ドイツとソ連が戦争始めると、日本も米英と戦争って道だっけ?」


「これ以上ない悪夢ね。今までの努力が全部パーよ」


「……本当にそうかな?」


 そう言って赤い目で私を見つめる。

 何か違う答えを見つけているらしい。


「聞いてもいい?」


「その為に私はいるからね」


「それもそうか。じゃあ軍師殿、策を授けてちょうだい」


「策じゃなくて可能性の一つ。お嬢の夢の日本は、アメリカとの戦争でも首の皮一枚で戦争を終える可能性があるわけでしょ。他でも可能なんじゃない?」


「首の皮一枚が? それが日ソ全面戦争と独ソ戦の先にある? 悪い道しかないと思うけど」


「基本はね。でも、ドイツが攻め込んだ瞬間に、ソ連の足元を見て即時講和すれば良いんじゃないのかな。それなりの仕込みは必要になるだろうけど」


「その場合、戦争で大損害を受けた陸軍と沢山の戦死者を出した国民が納得するかどうか、凄く疑問なんだけどなあ。この件って、何度か話したよね」


「うん。でも、米英と戦争になる事の無益さ、そのままダラダラとドイツと一緒にソ連を叩く無益さを、最初の段階から政府がきちんと説明すれば良いだけでしょ。まあ、国民から焼き討ち食らってもって覚悟はいるだろうけど」


「それが一番難しそうなんだけど?」


「その辺は金でも積んで、その時の内閣に腹を据えさせれば良いでしょ。それにこれは、あくまで今回の紛争が戦争に発展した場合。でもさ、ソ連との講和の際に領土を多少ぶん取れば、国民は納得するんじゃない? ソ連も二正面戦争を前に、背に腹は代えられないだろうし」


「まあ、その場合、白紙講和は絶対ないでしょうね。妥協点は……ギリでカムチャッカ半島を分捕るくらいかなあ。陸軍と国士様の連中は、極東全域とか言いそうだけど」


「そういう具体的な事はともかく、戦争の節目で敵味方が変わる瞬間だから、逆に有利な選択は取れる可能性は十分あるんじゃないかな」


「私の悲惨な予測よりは建設的ね。けどなあ」


「分かってる。ソ連とは、紛争で終わらせるのが一番なんでしょ。戦争になったら、得るものに対して失うものも多いし、国力も消耗するし、良いことは少ないね」


「まあ、利点を一つ挙げれば、ソ連が滅びる可能性は高まることね」


「ホント、お嬢はソ連が嫌いだね」


「ソ連じゃなくて、共産主義がね。私の天敵。ナチズムはともかく、全体主義の方がマシよ」


「けど、そのナチズムは、共産主義よりタチが悪いでしょ。共産主義より優先しないと。そこは、チャーチルさんが正しいよ」


「まあね。反共産主義、反マルクス主義、反民主主義、反自由主義、反個人主義、反議会主義、反資本主義、などなどなど。加えて極度の人種差別。要するに自分以外全部敵って、どんだけ世界を憎んでるのよ。拗らせたボッチのクソガキかっての」


 言いつつ指折り数えて、そのまま呆れ返る。


「前の戦争の恨みが原動力だし、そんなもんじゃない? 目的もナチスとドイツ民族を中心にした、独裁体制構築の為の世界の再編ってところだろうしね……どうかした?」


「うん。自分で口にして気づいたんだけど、平沼騏一郎も「主義」って付くものが嫌いな人だなあって思って」


「ああ、確かに。でもあの人の場合、国粋主義だけど保守でしょ。壊すより守る人。そこはナチスとは全然違うよ」


「うん。ナチズムも大嫌いだしね。現状だと、結構最適な総理なのかも。毒をもって毒を制すって感じで。けどなあ、ドイツとソ連が手を組むなら、まとめて潰してやるとか思うくらいの方が良いだろうけど。

 ……取り敢えず、日英米防共協定の強化拡大って線を強めてもらおうか」


「ドイツ、ソ連共に対立路線で行くなら、それも手だね」


「何か良い案ある?」


「断言は無理。それこそ今は『複雑怪奇』な状態だから」


「ごもっとも」


 雑談としては良い気分転換にはなったけど、答えは闇の中。暗中模索、五里霧中のようだった。


 

__________________


ナチズム:

全体主義の典型的一例。当人達の看板通りなら「国民社会主義」。

ナチスを代表とするイデオロギー。

本編中の言葉のように、とにかく「反〜」と全方位に対して喧嘩を売っている。

共産主義より危険なのは道理だろう。


ドイツ国民目線での、前の大戦の理不尽な敗北と戦後の困窮が感情面での理由とはいえ、極端に走りすぎているとしか思えない。


 

平沼騏一郎:

作中に書いた通り、「主義」「イズム」が嫌い。

共産主義、社会主義、民主主義、ナチズム、ファシズム、とにかく明治以降に入ってきた外来思想を常に危険視していた。

それでいて自分は、右翼、国粋主義的だった。

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