660 「紛争拡大」

 1939年も折り返し、7月に入った。体の主との勝負の結果が出るまで、あと2ヶ月。


(勝負の判定って、結局は体の主の胸先三寸よね。なんだか、騙(だま)された気がするなあ)


 仕事部屋の壁にかけられた暦を見つつ、頭の片隅でそんな事を思う。世の中は、私にとって気がかりな事件が進行中だったから、2ヶ月先よりそっちの方が気になるからだ。

 もちろん事件というのは、ソ連との大規模な国境紛争。

 もうすぐサラさんとエドワードの結婚式だというのに、ソ連がさらに動き出した。


 そんな情勢でも、世の中は膨大な軍事予算編成を背景にした軍需を中心とした好景気に沸いている。それに、世界情勢的に大きな戦争が近いのではという雰囲気が強まっているから、企業の設備投資も「バスに乗り遅れるな!」と旺盛だ。


 また戦争までに、戦争が始まったら出来なくなる事業、計画の前倒しも盛んだった。

 本格的な戦争が始まれば、鉄鋼業以下、重工業関連は軍需生産ばかりとなり、鉄は軍需関連以外には回らなくなる。

 だから軍事以外で鉄を必要とするところからの発注はこの春から駆け込み需要って感じで、各製鉄所は需要に応えるべく戦時生産一歩手前の増産に次ぐ増産となっていた。

 鉄以外の軍需に回りやすい製品も同様だ。


 また人も、軍需生産と兵隊に回るので人手不足が確定。

 そして産業全般では軍需と重工業以外は疎かになるので、軽工業、三次産業は今のうちにという雰囲気の中で非常に活発だ。

 そして一般消費の方も、今のうちに買っておくかという雰囲気が強く、景気自体も活況を呈している。


 もっとも、ソ連との紛争も毎度の事だし、規模が大きいと言われると軍需景気に拍車がかかるくらいにしか思っていない。

 そうした情景を見ていると、戦争の前夜祭と言えなくもない。


 そしてそうした中、同じ日の7月1日に「東芝」が誕生した。正確には、重電メーカーの芝浦製作所と軽電メーカーの東京電気が合併して、東京芝浦電気株式会社になった。

 またちょうど一月前には、日本電気工業と昭和肥料が合併して昭和電工が設立されている。


 電気業界が合併していくのは、もちろん長期の好景気による需要拡大がある。鳳電気も、拡大に次ぐ拡大が続いている。テレビといえば鳳、というくらいだ。

 けどその裏では、戦時に備えた動きとも言える。会社を大きくして、巨大な戦争に際しての需要に応える為だ。


 もっとも世界情勢は、一部を除いて一見平穏。私から見れば嵐の前の静けさ。

 けどその水面下では、ドイツと英仏がソ連との関係を結ぼうと綱引きをしているし、ポーランドとドイツの問題が戦争へと傾き続けている。

 そして各列強は、平時の枠内とはいえ軍需生産へ傾いている。


 一方で大陸の内戦は泥沼状態で停滞しているけど、張作霖の戦費不足もあって蒋介石の抵抗力が思ったより低下していないと見られていた。

 ただしこれは、ドイツの武器売買がほぼ止まった代わりに、「謎のルート」を使ってソ連の武器が蒋介石や共産党の元に流れている影響だ。


 ソ連はかなり苦労したり賄賂をばらまいて「謎のルート」を維持しているけど、よほど日本の目を自分たちの国土に向けたくないらしい。

 それなのにソ連は、満州国境の紛争をますます拡大していた。

 独裁国なのに外交と軍事がかみ合っていない。


(いや、独裁国だからこそ支離滅裂なのか)


「で、今度は朝鮮国境か。これって確か……」


「はい、奥様。昨年夏に奥様が強く警戒されていた場所です」


 私の仕事部屋に来たセバスチャンに、横浜から戻ってすぐに話を聞く。同じ部屋にはお芳ちゃん達も仕事をしているけど、マイさんは私と交代で赤ちゃん達の部屋だ。


「張鼓峰だったっけ?」


「はい。国境線が不確定なのを理由に、ソ連軍が動き出しました」


「5月末に少し騒いでいたアムール川の方は?」


「むしろ大人しいですな。川を挟んでおりますが、対応できる戦力をウスリー川方面に移動させた影響と予測されております」


「なるほどね。大河が相手だと、ソ連も簡単に大軍を送り込めないのね」


「恐らくは。ですが張鼓峰は、我が方にとって川の対岸と言える場所での揉め事になります」


「ウスリー川の中洲だと大軍を投入できないから、その代りって可能性は?」


「それもあると考えられております。ですが、日本軍の川を越える事のできる機材を分散させる目的もあると見られます」


「……つまりソ連軍は、ウスリー川の戦いに不安があるのか」


「はい。先月、空中戦で散々負けておりますからな」


 答えが出たので、二人して悪い笑みを浮かべる。

 多少の予想外であり、同時に予想範囲内で紛争は拡大したけど、相手も苦しいと理解できたからだ。

 ただ演技が過ぎたらしく、お芳ちゃんが呆れ、他の二人はちょっと引いていた。

 そこで軽く咳払いしてから、呆れ顔に顔ごと視線を向ける。何しろお芳ちゃんは、セバスチャン以上に情報が集まる総研に顔を出している。


「朝鮮国境は確か対策していたのよね?」


「うん。増援を加えた現地の第19師団が、今月に入ってから警戒配置中。半島北東部の清津にレーダーサイトも設置して、海軍航空隊も支援体制を敷いてるね。それ以上は相手次第だけど、奉天の部隊がいつでも動ける手筈が整ってる」


「流石は龍也叔父様。いつも抜かりなしね」


「そうですな。第19師団も近代化を完了した師団ですし、増援を含めればソ連赤軍の小さな編成の1個軍団が相手なら、十分に撃退可能でしょう」


「向こうは、こっちの配置や装備って知っているの?」


「どうかな? 近代化計画は秘密じゃないし、増援以外は知ってるんじゃない。まあ、戦車や戦闘機の詳しい事は知らないだろうけど」


「ゾルゲさんには、その辺教えてないものね」


「そのせいで、今頃ゾルゲさんの株は下がりまくりかもね」


「ソ連空軍が鳴りを潜めましたからな」


「撃墜した戦闘機の合計も150機以上。損傷を含めれば、増援が来ないと動くに動けないのだろうって、貪狼司令が龍也様から聞いたって」


「だから手を変えてきたわけね。それにしても厄介だなあ。越境しまくりだし、場合によっては宣戦布告で戦争状態になってもおかしくないないのに」


「だから満州地域限定でしか越境しないんでしょ。満州臨時政府には、国として宣戦布告する権利がないからね」


「張鼓峰は?」


「半島、つまり日本領は川を越えた先だよ」


「張鼓峰も狭い場所だし、越境砲撃とかすぐ出来る場所じゃない。ていうか、誰よこんな面倒な国境線にしたのは」


 言いつつ、指で地図の上をトントンと叩く。その指先の地図は、中華民国の領域が、半島とソ連極東の間に楔のように海岸近くまで深く突き刺さっている。


「愚痴を言っても始まらないでしょ。どうするの?」


「どうするも何も、陸軍は動いているのでしょう。けど平時編成から殆ど増強出来ないから、うちは後方支援でお手伝い。鉄道駅から戦場の手前までの輸送の請負。こっちにも用意してあるんでしょ?」


「はい、奥様。300台のトラックが後方での支援体制を整えております。陸軍も以前から態勢を整えており、鉄道駅からも近いので、珍宝島より補給支援は容易です」


「あっちは鉄道駅から50キロくらいだっけ?」


「はい。ですが現場から10キロ程のところに道路が通っており、その先は陸軍の工兵隊と協力して、野戦道路の敷設も完了しております。また1000台のトラックを支援に回しましたので、陸軍の手持ちと合わせれば多すぎるくらいですな」


「その代わり、満州にはもう残ってないんでしょ。予備を、念のため張鼓峰に回した形になるから」


「はい。しかし、これ以上の紛争の拡大は全面戦争に繋がりかねません。ソ連も大きくは出てこないのでは?」


「それを慢心っていうのよ。兵隊は常に最悪に備えるって言うじゃない。今回は紛争だから、軍隊より外交の出番なんでしょうけど。……それで、紛争はいつ大きくなりそう? 今すぐじゃないんでしょう?」


「はい。日本政府は、抗議するなど外交で収めたいようです。ですから双方出方を窺うので、大きな衝突があるとしても双方の返答次第ではないかと。

 ですが張鼓峰では、現地ソ連軍が山に小規模の部隊が進出を始め陣地構築を開始しました。それを監視していた日本兵に、ソ連軍が発砲。前後して軍用無線が飛び交っており、かなりの数の部隊が現地に向かって移動を開始したと予測されます。

 早ければ数日以内に、本格的な戦闘に突入する可能性があります」


「……みんなの意見は?」


「ウスリー川での戦況と合わせてくるんじゃないかな?」


 「私もそう考えます」。他2人も、そんな感じの返答。セバスチャンも頷いている。

 私も同意見だった。


「龍也叔父様に念の為連絡しましょう。もう動いているとは思うけど、武器弾薬を運ぶお手伝いをした方が良さそうね」


「畏まりました」


 少し考えた上での私の言葉に、セバスチャンが恭しくお辞儀した。

 大規模な国境紛争は、次のステージの準備次第といったところだろう。



__________________


重電 軽電:

重電は発電施設や工業施設、商業施設などで用いられる設備が中心。

軽電は要するに家電製品が中心。



アムール川の方は?:

史実では東安鎮事件として、1939年5月末にソ連が小規模な国境紛争を起こしている。

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