656 「大陸戦線1939」
「それでは、しばらくお休みを頂戴いたします、奥様」
「うん。お腹の子の為にも、体をいたわってね」
「はい。ですが、直前までお勤めさせては頂けないのでしょうか?」
散々言ってきたのに、シズがまだごねている。
もうお腹の子は8ヶ月だというのに、ギリギリまで働くと言って聞かないのを命令で休みにさせた。
「あなたとお腹の子に万が一があったら、私が世間様に顔向けできないの。散々言ったでしょう」
「はい。ですが」
「もう一回命じた方が良い?」
ちょっと凄んでみると、シズが折れて頭を下げた。
「いえ。ご配慮、お心遣い、誠にありがとう御座います。このご恩、生涯忘れません」
「そう思うなら、母子共に健康で出産する事。それにその言葉、妊娠のたびに言うの?」
最後に砕けた言葉にすると、その返しは流石は忠臣。「はい。勿論に御座います」と再び頭を下げられてしまった。
いっぽう世の中は、6月に入ってしばらくは小康状態が続いていた。
出産などで自分の事で手いっぱいの身としては有難い限りだけど、世界中で火種がくすぶったり、燃えようとしていた。
比較的安定というか停滞しているのは大陸の内戦。
張作霖の中華民国は、戦費と物資と兵器を集めている最中。南部の奥地に引きこもった上に周りを包囲された蒋介石は、攻めにくい場所なのでしばらく放っておいて、新たに拠点とした南京などからも近い共産党殲滅を優先するべく動いていた。
目指すは共産党の本拠地の瑞金って感じだ。
しかも汪精衛が中華民国側に付き、広州臨時政府は事実上崩壊して、残りの広西軍閥は蒋介石とも連携せずに勝手に引き篭もり状態。
蒋介石は、中華民国側の四川軍閥、独自に動く雲南軍閥、広西軍閥、それに中華民国軍に東西南北を大きく包囲された状態。当然、外からの支援や貿易のルートもほぼ途絶状態で、攻めにくい場所に篭っているだけで放置していても当面は問題ない。
このため中華民国は、動員できる最大級の戦力を共産党に向けることができる。その数、最低でも200万に達するという。しかも大陸伝統の誇張した数ではなく、実際に集めているというのだから恐れ入る。
そしてこのうち2割ほどが、張作霖が日本などに鍛えてもらった精鋭部隊。軍服が日本製だから、見た目も日本軍みたいだ。
中身も、この10年ほど日本陸軍の軍事顧問団が鍛えてきたから日本陸軍のコピーと化していると聞く。
私の中では、因果が絡んでいるとしか思えない。
その精鋭部隊を中心として、相手にゲリラ戦をさせない濃密で徹底した包囲殲滅戦を仕掛ける予定になっている。
結果が出るのに半年はかかるらしいけど、張作霖が『長征』をさせたとしたら、これも因果が巡った結果なのだろうかと少し首を傾げてしまう。
ただし中華民国軍の戦列に加わっている日本の軍事顧問団は、共産党との戦いには参加しない。
軍事顧問団の相手は、基本的にはソ連の志願兵部隊。彼らは既に壊滅状態と見られているけど、蒋介石らと共に南西部へと後退したので、軍事顧問団は長沙の辺りに滞在している。
最近では、航空部隊が定期的に出撃して、偵察と空爆をする以外は、たまに空中戦をする程度だという。
だから中華民国の戦車部隊を鍛え終われば、ソ連軍が引き揚げるより早く、軍事顧問団の方が引き揚げるだろうと見られていた。
日本軍としては、大陸では圧勝しているのでナメプ状態だ。一部の日本陸軍将校が鎧袖一触と言っているらしいけど、ある意味では因果が巡っていると言えそうだ。
そうして矢面に立たされつつある中国共産党だけど、去年の秋の長沙の町の大火事以後行方不明となった周恩来らは、いまだに姿を見せていない。
この為、トップが失われたのに、正式に次のトップを決める会議も出来ないでいた。
私は歴史の因果で毛沢東がトップに立つと思っていたけど、そこまでの力はまだ持っていなかったらしい。それともというか、やはりというか、政治チートな周恩来がいない事がトップを取れない原因なのかもしれない。
何しろ毛沢東らは、ゲリラ戦を得意とした戦場の人。カリスマ性はあるけど、政治や行政をする者の補佐と支持が必要不可欠だ。
なお蒋介石らは、完全には四面楚歌じゃなかった。
私が出産入院から鳳の本邸に戻ってすぐの6月13日、ソ連が、蒋介石の貴陽政府(もと南京臨時政府)に対して、1億5000万ドルもの借款供与を発表した。
ソ連は、何が何でも日本の注意を大陸に向けさせたいらしい。
そして四面楚歌じゃないと言ったように、この支援は共産党への支援ではない。蒋介石向けなのは、中国共産党が諸外国からテロリストの集団として以外に相手にされていないから。
ただ、蒋介石にしろ共産党にしろ、どうやって膨大な量の武器弾薬を渡すのだろうかと、他人事ながら首を傾けてしまう。
何しろ、どっちも港を持っていない。広西政府に賄賂を積むなどすれば、辛うじてインドシナに近いトンキン湾の小さな港に陸揚げできるくらいだ。
当然だけど、インドシナ北部に陸揚げして、そこから陸路で運ぶというルートは存在しない。香港もイギリスによる監視拠点であって、陸揚げは一切行わせていない。ドイツの船すら拒否している。
フランスもイギリスも、アメリカですらも、蒋介石を支持していない。列強が支持しているのは、チャイナのリーダー張作霖だ。
共産党に至っては明確な敵でしかない。
一方でドイツにとって蒋介石は商売相手なので、ドイツの船をソ連が利用するのではないかという観測もされていた。
けど、ドイツとソ連は犬猿の仲というのが、少なくとも1939年半ば時点での世界の常識。だからソ連がドイツ船を利用するとしても、ドイツに大量の金を積み上げるしかないと見られていた。
それ以前に、現実性に乏しいと見られていた。
それ以前の問題として、去年の秋くらいからドイツは蒋介石との取引を激減させていた。行なっているのは、今までの代金がわりの希少金属(レアメタル)、主にタングステンの入手くらいだ。
そんな状態だから、ソ連による援助ルートはソ連の船がどこかに立ち寄るしかない。だけど、港の大半は使えないし、中華民国の要請を受けた日英仏が監視している。
それでも、細々とだけど流れがあるので、どこかに漏れがあると見られていた。
そうして浮かんできたのが、四川盆地を経由するルート。
ここには四川軍閥がいて、基本的には張作霖というか中華民国に属している。けど、四方を山に囲まれた巨大な盆地。古来より独自意識の強い地域。
その北を抜けると、西安と蘭州の間に出る。そして西安から西の支配権を、張作霖の中華民国は確立できていなかった。
一方で西方内陸部の東トルキスタン地域は、日に日にソ連の影響が強まっていた。内蒙古の西部は、ソ連の威を借りるモンゴルの影響が強まっている。
そしてシルクロードの要衝でもある蘭州まで、実質的にソ連の手が伸びていた。手段は賄賂と恫喝、たまに実力行使だけど、中華民国にどうにかできる状態じゃない。
そして中華民国領内は、他の列強も好き勝手しているから文句も言いにくい。さらに大陸の奥地すぎて、日本をはじめ列強から見て何をしているのか分からない。
中国共産党も、虎の威を借る狐よろしくウロウロしていると聞いている。
そうしてソ連が賄賂と恫喝で四川まで至り、そこからは賄賂と武器援助でもして通行許可を得れば、四川盆地を経由して貴陽へと到着する事が可能となる。
「西遊記よろしく大陸奥地を大冒険をした八神のおっちゃん達の調査結果は、当たりだったのね」
口にしつつ、八神のおっちゃんは三蔵法師一行の誰だろうと思い浮かべてみる。
(あんな強面の三蔵法師はNGだろうなあ。猿豚カッパもなんか違うし、むしろ妖怪側よね。悪役面だし)
「はい。ただし、まともな道を進むと、四川の次に雲南軍閥の支配領域に一旦出ないといけませんので、雲南軍閥にも似たような事をしている可能性が高いようです」
セバスチャンが報告に来てくれたけど、私が結婚してからは鳳の本邸にある自分の部屋で仕事をしている事が多いので、彼が通う距離で私が心を痛める必要はない。
ただ、鳳ビルのオフィスの方で仕事をするエドワードとその秘書をしているサラさんが、7月初旬には結婚するから夏には配置が変わる予定だ。
「四川と雲南が、蒋介石と結んでいるって事はないのね?」
「金と武器だけです。少なくとも四川軍閥は民国の法幣を必要としているので、張作霖を完全に裏切る事は現時点ではないでしょう」
「念の為、両者を天秤にかけているって理由もあるわけね」
「加えて、双方の陣営に対する交渉材料の一つではないかと」
「四川は歴史的に平原の勢力に酷い目に遭っているから、防衛本能なのかもね。それで私に確認って?」
「はい。お嬢様の夢のお話に出て来たものではないかと思いまして」
そう言って一枚の地図を広げる。当然、中華民国の地図。その上に線が引かれている。デジャヴュを感じる地図だった。主に前世で。
「援蒋ルートそのまんまね」
思った事がそのまま口から出てしまう。
お爺様達一族の中枢や時田、セバスチャンにも「援蒋ルート」の事は軽く話してあった。
セバスチャンも「やはり同じでしたか」との相槌。それに私は頷きつつ、手を地図に伸ばし指でなぞる。
「東トルキスタンから蘭州、そして四川盆地の重慶へ。これがソ連が使った援助ルート。で、南側は、ビルマを抜けて雲南省から四川盆地に入るの。ただしこっちを使うのは、主に我が友邦の大英帝国ね。もっともイギリスは、最初は香港から広州に援助物資送り込んでたんだけどね。
ビルマからの道は、さらにインドシナ半島からこう進んで四川盆地へと入るルートが塞がってからね」
「地図で示して頂くと、色々と見えてきますな」
「夢の中の日本が徐々に打つ手を無くして、四面楚歌になるのが見えるだけよ」
「ある意味で現状と夢は真逆ですな」
「けど現実は、蒋介石が完全に孤立していなかった、と。けどなあ、張作霖に告げ口しても四川軍閥が簡単に言う事を聞くとは思えないし、下手に援助ルートを爆撃とかしたら寝返る可能性もあるし、難しいわね」
「はい。ですがご当主は、このままでも良いのではと」
「……敢えて好きにさせるメリットは?」
「主なところは、内乱を長引かせて張作霖により多くの武器を売りつける。軍事顧問団の獲物を増やす。四川軍閥へのガス抜きをする。ですが、面倒な支援でソ連が一番苦労するだけ、というのが一番の理由だそうです」
「えっ? それは二番でしょう。一番の目的は、大陸をこのまま分裂させて固定したいんじゃないの?」
私が素でそう返したら、セバスチャンが一瞬目を丸くして、次に頭を高速回転させる表情を見せた。
私は少しの間、みっちゃんの入れてくれたお茶を口にする。
「答えは出た?」
「恐らくは。深謀遠慮という奴ですな。感服しました」
「まあ、今は悪巧みの一つくらいで、成功したら御の字ってところだと思うけどね。それに考えたのは、お爺様じゃなくて日本陸軍か政府のどこか。いや、多分だけど、石原莞爾ね。宇垣様、永田様はそこまで悪党じゃないもの」
(それに満州を完全に切り離すチャンスになるからなあ)
「参謀次長の? それならば、日本陸軍全体の戦略なのでは?」
「永田様や龍也叔父様達の陸軍省、それに大陸にいる特務はともかく、参謀本部の兵隊将棋にしか興味ない参謀様達が、敵を利用して大陸をバラバラにしてやろう、なんて考えるわけないわよ。
陸軍の武藤章や他の秀才集団の陸軍省も、こんな博打みたいな事は考えないし、政府や外務省もお上品だから無理でしょうね。お爺様なら考えつきはするでしょうけど、今はそれどころじゃないし」
言いつつ、ナチュラルで同じ思考に達した筈の自分自身に軽くドン引きする。自己嫌悪を感じないところに、もはや私も救い難い境地に達していたと実感させられる。
けど、かなりの自信があった。
しかも大陸の中心にいる人達以外の全員が喜ぶ策だから、多分このまま事態が進むだろうとも感じた。
そしてもう一つの事に思い至った。
「それとセバスチャン、ソ連の援助の件、満州の紛争に利用出来るかもしれないわよ」
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日中戦争:
史実の1939年半ば頃は、日本海軍航空隊が中心となって重慶への無差別爆撃を激しく行なっている。
それ以外は、戦争は完全に泥沼化。
ソ連の援助:
史実の場合は、日本を中華民国との泥沼の戦争で消耗させるのが目的。この世界では、日本への牽制が数段弱い事になる。
金額は史実と同じと想定。
援蒋ルート (えんしょうルート):
日中戦争で、日本を敵視する英米ソが蒋介石を援助する為に用いた輸送ルートの総称。
これを断つ為に、日本はさらなる戦争の泥沼へと突進してしまう。
その終着点が太平洋戦争だった。
ソ連から見れば「計画通り!」かもしれない。
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