651 「第一次? 珍宝島事件」

 満州国境で、ソ連と日本が小競り合いとは言い難い国境紛争の規模を拡大しつつある頃、マイさんが二人目の子供を産んだ。今度は男の子だった。

 ちょうど私が、お腹の子が現世にエントリーするのがあと二週間か三週間くらいだろうと病院の検診に行っていた時に陣痛が始まり、その日の夜に生まれた。


 一方の私は5月末頃に入院して、6月初旬の出産に備える事となる。

 そうした日常のビッグイベントの間にも、満州国境での紛争は続いていた。

 ただし私は、出産前の大事な時期にきな臭い話に関わる事を許されず、委細を知るのは出産が無事に済んで少ししてからとなった。


 5月20日、既に紛争地域に進出していた日本陸軍の九七式戦闘機の部隊が、国境深く越境してきたソ連空軍の偵察機を撃墜。

 これがこの紛争での最初の撃墜となる。

 そして日ソの国境紛争での最初の航空機の撃墜ともなった。


 それまでも、日ソ両軍の航空機の戦いは、大陸の武漢辺りでソ連軍志願兵部隊、日本軍の軍事顧問団が1938年辺りから頻繁に行なっていた。けどそれは、あくまで大陸の各勢力の代理やお雇い状態での戦闘。

 日ソ両国が直接関係する戦いではなかった。

 けど、今回の国境紛争での空中戦は、日ソ両国が関わる事件だった。


 戦闘は、地上というか国境となっているウスリー川の上でも発生。

 この川は北の大地らしく冬の間は凍結するが、春になると溶けた氷で大変な事になる。だから開発が進まないのだというけど、国境警備だから両軍共にしのごの言ってられないので、かなり無理やり活動しているのだそうだ。


 日本軍などは、北太平洋の方がもっと酷いと河川艦隊を煽って、陸軍は現地満州軍を鍛えているという。

 ソ連の場合は、まあ命令に従うか粛清されるかの選択肢しかないから、仕方なく頑張っているんだろう。

 だから、少なくとも双方の国境守備隊は、ウスリー川流域での戦いに慣れていた。


 そして珍宝島を占領するべく、川幅約300メートルを越えようとしたソ連軍に対して、既に警戒配置についていた満州軍の河川艦隊と日本陸軍の装甲艇複数が阻止行動に出た。

 これに対してソ連側は、極東の中心都市であるハバロフスクを拠点とするアムール川の小艦隊に属する砲艦や砲艇複数が、護衛と支援任務に就いていた。


 当然だけど防衛行動に出て、なんと川の上で「艦隊戦」が発生した。

 川幅300メートルは日本人の視点だと十分に大河なので、複数の船同士が動き回るには十分な広さがあり、搭載する大砲や機関銃を撃ち合う。また陸地からは、先に進出した日本軍の少数の砲兵が、支援の砲撃を実施。


 ソ連側は上陸作戦を行う兵士や戦車、大砲を満載した船を守りながらの戦いで不利で、自由に動いて攻撃する日満側が戦いを有利に展開した。

 また、陸地からの砲撃でソ連軍の上陸部隊を載せた船が攻撃されたのを受けて、ソ連側は一旦は撤退。

 この日の戦闘は終わった。

 

 互いに大きな損害は出さない戦闘だったけど、日満側が無傷なのに対して、ソ連側は水陸両用の装甲車1台と、兵士を満載した船を破壊され放棄している。

 当然、沢山の兵士が爆発に巻き込まれたり川に投げ出され、かなりの死傷者を出したと見られていた。


 その後、日ソ両軍は現地か現地に近い場所に、軍隊の駒を進めていった。日満軍は、係争地域の珍宝島とその周辺にさらに兵力を送り込み防衛体制を固めた。

 満州側からその中洲の島までの距離は、おおよそ200メートル。橋などはないので、船で送り込むしかない。

 しかも満州側には、中州の中心部辺りの対岸が一回り小さな中州になっていて、対岸と直接接していない場所が多い。

 この為、対岸からのルートがかなり限定されていた。


 ここで活躍したのが、大発動艇、通称「大発」と呼ばれる上陸用舟艇だった。船首部分がカーフェリーのように前に倒れて兵士や物資、車両が簡単に出られるようになった優れもので、なんでも日本陸軍の独自発明らしい。

 当然軍事機密扱いで、報道する事も禁じられていた。

 この時の使用も、ソ連側に見られないように行ったと聞いている。

 しかもこの戦いの後半では、『九五式重戦車』に合わせた大型タイプが投入されて活躍したと記録にある。


 なお、珍宝島もしくはダマンスキー島は、川に沿ってほぼ南北の細長い形で、長さ1700メートル、幅500メートルしかない。

 戦闘をするにしても、数百名同士がせいぜい。周辺部を含めて何とか万単位。ただし、周辺を含めて人の手が入っておらず、原生林と荒地、それに湿地が広がっているだけの土地だ。


 ウスリー川流域の大半が似たような状態とはいえ、よくもまあこんな辺鄙な場所で戦闘する気になったものだと呆れてしまう。

 けど、それぞれの陣営は呆れている場合ではなく、戦闘はさらに拡大していく。


 戦闘再開は23日。ソ連側が増援を受け、推定で2000名以上を集中して再開された。

 この増援には、長距離射撃ができる野戦重砲、戦車、装甲車、水陸両用装甲車を揃えたもので、特に川を渡るという事で多数の水陸両用装甲車が集められた。

 加えて陸軍部隊には、戦車や装甲車も多数用意されていた。

 さらに空では、戦闘機の護衛を付けた偵察機が飛び、当然のように係争地域を超えて越境してきた。


 対する日満軍は、満州軍が国境警備隊2個中隊と河川艦隊の船3隻。主力となる日本軍は、新京近辺から派遣された支援部隊を付けた1個大隊。合わせても2000名ほどで、数ではソ連軍とほぼ互角と見られていた。


 だが支援として、戦車1個中隊、野戦砲兵1個中隊、速射砲1個中隊、装甲車を装備する捜索中隊があって、日本軍の部隊規模を考えれば重装備だった。

 歩兵部隊も近代化が済んだ部隊なので、同数ならソ連軍との戦力はほぼ互角だ。車両装備があまり活かせないのは残念だけど、それはソ連軍も同じだった。


 そして日満軍には、地の利があった。珍宝島は満州側により近く、しかも先に日満軍が進出して陣地を作っていた。

 守るのが日満軍、攻めるのがソ連軍という図式だ。

 しかも、ただでさえ地上戦は守る側が有利なのに、ソ連軍は攻めるのが難しい川を渡り、上陸しないといけない。


 だからソ連軍としては、航空機、重砲など支援できる戦力を充実して攻撃するべきなのに、大規模といっても小競り合いの域を超えていない国境紛争の為、大規模な支援は無かった。

 この事から考えて、今回の国境紛争の規模拡大は、少なくともウスリー川周辺で起きたことはソ連側にとっても偶発的だったと推測されていた。


 けど状況は、偶然だけで済まなくなっていた。

 戦闘は日に日に激化し、川を挟んでの銃撃と砲撃の応酬が続き、空では散発的ながら空中戦が行われた。

 互いにかなりの戦力を投入したので、安易にソ連軍は川を渡れないだろうという楽観論も出るほどの激しさだった。

 けど、ソ連軍は諦めていなかった。

 

 そして28日、多数の武装船と水陸両用装甲車を動員して日満側の装甲艇を阻止し、その間に別方向から上陸に成功。最初の上陸は多数の水陸両用装甲車で強引に行い、その後で船による上陸が行われた。

 そして見晴らしは悪くない川からの上陸だから、当然のように激しい反撃にさらされた。


 日満軍も戦車、重砲は川の対岸で待機して砲撃による支援だけだったけど、野戦重砲6門、野砲の代わりもできる『九五式重戦車』、歩兵砲の代わりもできる『九五式中戦車』による砲撃で、ソ連軍は上陸前と直後に半数以上に損害を受けてしまう。


 そして普通の軍隊ならそれで退却するけど、強い命令が出ているのか強引に上陸。そのまま中州を守る守備隊との戦闘に入る。

 ここで日満側で活躍したのが、『九四式重装甲車』。中洲の上でも高い機動性を発揮し、アメリカ生まれのいかつい重機関銃は、小型の水陸両用装甲車を次々に撃破した。


 ソ連軍も船を使って上陸させた『BAー10装甲車』という、トラックに戦車の大砲を持つ砲塔を載せた装甲車で対抗。装甲車だけなのは、少なくともこの時は戦車を運べるだけの大きさの揚陸に使える船が無かったかららしい。

 そしてこの装甲車も、トラックみたいなやつなので装甲は薄く、アメリカ製の重機関銃で十分撃破できた。


 というか、広くはない中洲だと近い距離での戦闘になり、何が当たってもかなり危ない戦闘だったのだそうだ。そうした状態だから、取り回しが楽でいかつい重機関銃が最も戦いに向いていたらしい。

 また日満側は、急造でも陣地に簡易の塹壕や穴を掘っていたり盛り土をしていたから、そういった遮蔽物の差も大きい。

 そしてそうした場所に配備されていた小さな対戦車砲は、巧みな戦いを行って多くの戦果を上げていた。


 もっとも一方的な戦いではなく、ソ連軍は対岸から中洲に向けて盛んに砲撃を行い、日満軍にも相応の損害が出ている。お互いではあるけど、武装艇、装甲艇にも損害が出ていた。


 いっぽう空では、日本陸軍航空隊が無双状態だった。

 日本側は1機も失わず、ソ連空軍を何十機も撃ち落としたという。もっとも、空での戦闘は誤認が付きものらしく、龍也叔父様曰く実際は報告の半分も撃ち落としていれば御の字だろうという事だった。


 そうして戦闘は日満軍優位で運んだけど、28日の戦闘をピークに急速に終息。上陸前後と中洲の中での戦闘で殆どの装甲車両を失ったソ連軍は、損害が大きい事もあって後退。

 またこの時期のウスリー川が規模の大きな戦いをするには状態が悪いのも、規模が拡大しないまま収束した要因となった。


 かくして、30日にソ連軍は対岸から撤収したのを見届けてから、日満軍も最低限の監視だけを残して31日には撤収。

 戦闘は終息した。


 ただしソ連中枢は、『日米英防共協定』の影響で日本だけでなく、米英がどう動くのかを見ていたと考えられる。

 そして今回の国境紛争で米英は、極東の辺境での地域紛争、ましてや日本の勢力圏の満州での紛争なので日本に丸投げ。まったく動きは見られなかった。


 後日、吉田茂に確認したら、紛争なら好きなだけしろ、戦争だけはしないでくれ、と釘を刺されたという話があったと聞けただけだった。


 前世の歴史をなぞるように、紛争はまだ続きそうだ。



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いっそのこと、三人称による叙述文にした方が良かったかも。

日時は第一次ノモンハン事件に合わせました。


なお、珍宝島での戦闘は、普通ならこの程度の規模の戦闘が、場所的には精一杯の広さしかない。空では、互いに領空侵犯しまくりの事だろう。


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「第一次珍宝島事件」:

中洲自体は小さいが、戦闘地域の規模自体は史実で大規模な戦闘があった張鼓峰事件の張鼓峰周辺と同じ程度。

強引に集中すれば、互いに師団規模の戦力投入は可能。



装甲艇:

戦車の砲塔などを載せた小型の河川用戦闘船舶。

1927年に最初に試作され、主に日中戦争で活躍。アムール川にも配備されていた。



大発動艇、通称「大発」:

史実通り、本編内の通りの日本陸軍の独自開発の上陸用舟艇。

1925年に初期型が開発され、今回登場したのは太平洋戦争でもよく使われた1932年型。

大型のものも「特大発動艇」として存在するが、これは15トン対応なので、この世界はより大型となる。



水陸両用装甲車:

ソ連軍の「Tー37」、「Tー38」。

小型で機関銃しか装備していない軽装甲車。水陸両用という以外では、豆タンク以下の戦力価値しかない。

どちらもノモンハン事件で使用された。

あまり役に立たないけど、ソ連陸軍だからどちらも1000両以上生産されている。



アメリカ生まれのいかつい重機関銃:

ブローニングM2。一世紀以上第一線で使われている名銃。

史実では九三式十三粍機銃があるが、ソ連の装甲車や豆タンク相手には有効だった。

人に向けて撃ってはいけないくらい威力がある。



小さな対戦車砲:

九四式三十七粍戦車砲。この時代なら優秀な対戦車砲。

「小さな」と言う言葉から、九〇式野砲が戦車砲に採用されただけでなく、対戦車砲としても存在している事になる。

もしくはボフォースの75mm砲が、対戦車砲としても採用されているのかもしれない。

この時代では過剰な火力だけど、金があれば揃えたい装備。

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