448 「2・14」

「おっ、バレンタインチョコの広告じゃない!」


 このところ、というか去年の12月くらいから、どうやら逃げられないクソ野郎な歴史の流れに取り組んでいたから、この広告を見つけた喜びは意外に大きかった。


 広告の出し主は、神戸モロゾフ洋菓子店。モロゾフは前世から知っているお店なので、転生してからいつかは自分で買いに行きたいと思っているお店だ。


 そしてバレンタインデーだけど、今までは広告や宣伝、噂話の類すら見た事はなかった。

 私が広めても良かったけど、前世の社会人になってからは白けてしまっていて、結局広めずじまいだった。それでも、ようやくこれを目にする事が出来たのはちょっと嬉しかった。


「もっと早く知っていたら、色々と準備したのに」


「何を準備なされるのですか?」


「14日に、愛しい人にチョコレート菓子を贈るのよ。もっとも、本当はちゃんとしたキリスト教の聖人を祭る日だけど、詳しい事はリズにでも聞いておいて」


「はあ、それでお嬢様は晴虎様にお贈りするのですか?」


「そうねえ。日頃の感謝も兼ねて、親しい人みんなに贈ろうかなあ」


「ではチョコレートを手配しましょうか?」


「本当は手作りが一番だけど、それしかないわね」


「手作りですか?」


「そうよ。愛を込めて作ったものを贈れば、相手に気持ちが伝わるでしょう」


「そういうものですか。ですが、調理はお控えください」


「ハイハイ、分かっています。あ、でも、メイド喫茶に伝えて、何でも良いからチョコメニュー用意、緊急で。バレンタインデーの話も伝えて。あー、でもちょっと待って。メモ書くから」


「畏まりました」


 そういうわけで、少しの間陰気な問題は忘れて、バレンタインデーに没頭する。

 けど、世の中、いや世の中の水面下では、既に覚悟ガンギマリな皆さんが動き始めていた。

 色々と私の前世の歴史から捻じ曲げ、未曾有の好景気でも押し流しきれなかった。

 だからせめて、2月14日くらいは明るく過ごそうと決意した。




「14日は金曜日で平日か。女学校で広めるには、もう時間がないなあ」


「お嬢、何をするの?」


「ん? 朝読んだ英字新聞に、バレンタインチョコの広告を見たのよ」


 女学校へ通う車の中で、同乗者のお芳ちゃんに私の知る日本の由緒正しいバレンタインデーについて、とうとうと説明する。


「とりあえず、市販のお菓子を送り合うのは? チョコレートなら結構な種類があるでしょ」


「せめて可愛く包装したい」


「また我儘言う」


「我儘ついでだけど、女子から男子に贈ってほしい」


「女学校と中学の間は無理筋でしょう。お嬢が小学校の生徒にでも贈ったら?」


「それは有りかもだけど、唐突にしたら混乱するでしょ」


「何を今更。お嬢は、今までも散々学校行事とか、クリスマスや誕生日会とか色々と引っ掻き回してきたから、みんな諦めてるよ」


「何それ。私が我儘お嬢様みたいじゃない」


「みたいじゃなくて、そのものでしょ。悪い事はしてないし、我儘や傍若無人とは言い切れないけど、周りを振り回している自覚は持った方がいいよ。ていうか、今まで自覚無かったの?」


 後半の煽り言葉と共に、ジト目で見返された。しかも前席のシズまでが深く頷いている。運転手のおっちゃんだけが、賢明にもダンマリだ。

 これは開き直るより他なさそうだと、「フンっ」と息を立てる。


「じゃあ、私の名前とちょっとした由来を説明して、小学校の全校生徒に配布しましょう。あと、学園内の購買部、学生食堂でも何かできるならしましょう」


「……やるんだ」


「今更とか言われた以上、引き下がってどうするのよ。私はお嬢様よ」


「あっそ。まあ、良いんじゃない。私もチョコレート好きだし」


 どうやらお芳ちゃんにもあげないとダメらしい。




「そう言うわけなんですけど、マイさんちはバレンタインデーしてましたか?」


「トラがジェニーに、メッセージカードを添えた花束を贈るくらいね。アメリカでしてたけど、今でもしているわよ」


 学校が終わり鳳の本邸に戻ってから仕事の合間にマイさんに聞くと、ちょっと乙女チックな仕草で返答があった。


「マイさんは?」


「涼太には、教えてからはしてもらったわね。あとは小さい頃、兄さん達からぬいぐるみをもらった事はあるくらいね。それで晴虎兄さんは、玲子ちゃんに何もしてくれないの?」


 後半が、ちょっと強めのお言葉。不甲斐ない兄への気持ちがこもっている。だから慌てて否定する。

 そして、事の経緯を説明する。


「なるほどねえ。良いんじゃない。子供相手なら、お菓子はちょうど良いと思うわ。けど、どうして女子から男子なの? それももしかして夢の中の話?」


「そうですね。やっぱり、男子からの方が良いでしょうか?」


「私的にはお互いの方が良いと思うけど、性別はこだわらなくても良いと思うから、玲子ちゃんから学校の子供達にってのは賛成。あと、晴虎兄さんには電話入れておくから」


 やっぱりハルトさんへの言葉が強い。

 乙女にとって、こういうイベントはやはり大事だ。そしてマイさんは、結婚しても乙女なところは抜けきっていないらしい。


「アハハハ、お手柔らかにしてあげて下さい。ホント、そういう意図はないですから」


「ウウン。ちゃんとお互いが習慣を知っている婚約者同士が、それじゃダメよ。結婚前のこういう事は、何年経っても大事だってジェニーも言ってたから」


 どうやら、マイさんの恋愛脳なところは、お母さんのジェニーさんの影響もあるみたいだ。いや、虎三郎もあのごつい形(なり)で、意外にアメリカンな習慣や仕草を自然にしているから、父母の両方を見て育ったんだろう。ハルトさんも、そう言う面ではかなりマメなイメージがある。




「本当にゴメン。いや、申し訳ありません。バレンタインなど欧米の習慣は、家の中だけって思い込みが強くてね。でも考えてみれば、玲子さんは誕生日会やクリスマスを世に広める活動もしていたものね。舞に言われるまでもなく、気付くべきだった。本当に申し訳ない」


「いえ、全然構いません。それにこんなにして頂いて、ちょっとドキドキしています」


「それは良かった。急いで予約を取った甲斐があったよ」


 そんなやり取りをしているのは、鳳ホテル最上階のレストランの一角。VIP席で見晴らしも万全。日時も2月14日の夜。

 21世紀の大人な関係だったら、夕食を済ませてバーかラウンジでお酒を飲んだら、そのままベッドイン確定コースだ。


 私的には、もうそれで良いんじゃないかと思うくらいの気持ちだけど、結婚までは一線を越えないと二人の間で決めているから、今日は食事だけ。私が未成年だから、バーでお酒もなし。イチャイチャはするだろうけど、それ以上は後日のお楽しみだ。


 けど、前世の私的には、もう舞い上がりそうな状況でしかない。高級レストランで二人きりの食事。しかも相手は、パーフェクトスペックのイケメン。

 こっちも失礼のないよう、シズ達メイドを総動員して万全の体制で挑んでいるけど、釣り合っているか気になって仕方ない。


 体の主はともかく、私自身の前世はモブのオタク女に過ぎないから、こういう時はどうしても情けない事を心の片隅で思ってしまう。

 一方で、10年以上も大金持ちのお嬢様を演じてきたお陰か、ボロは絶対に出ない。それどころか、お嬢様の方が今の私だという感覚も十分にある。


 そしてそれ以上に、この人に相応しい人になりたいという、ある意味普通の感情が私の心のかなりを占めている事の方が、以前の私から考えたら私自身が意外だった。

 そしてそう思えるという事は、少なくとも私個人の破滅を私自身が大丈夫と思っているか、思い始めている証拠だと気がつかされる。


 けど、慢心したら即死亡フラグが待っているのが、この昭和初期だ。そして最大の山場の一つが、二週間以内に迫っている筈だった。

 その舞台となる場所が、窓の向こうの下界に広がっていた。

 そして、目の前の幸せを守る為にも、私は行動しないといけないと決意を新たにできた。

 その意味では、今日のバレンタインデーに感謝しかなかった。



__________________


バレンタインチョコの広告:

2月12日。神戸モロゾフ洋菓子店が、英字雑誌に日本初のバレンタインチョコレートの広告を出す。



神戸モロゾフ洋菓子店:

ロシア革命を逃れたロシア人が開いたお店。

ただし日本人出資者ともめて、創業者は店を追い出される。



市販のお菓子:

明治時代から、チョコレートメーカーの参入が増えて各社の製品が市場に流通している。

昭和初期にもなると、一般的なお菓子の一つと言える。

今も流通している板チョコも、かなりが既に存在している。

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