389 「ラスト・エンペラー再び(1)」
「お待ち申し上げておりました、鳳玲子様」
奉天のヤマトホテルに着いたら、予定外の人が待っていた。
慇懃に礼をして言葉も畏まっていたけど、川島芳子その人だ。相変わらずの男装が、ヅカのスターみたいに映えている。
「頭をお上げ下さい、殿下」
「頭を上げたら願いを聞いてもらえるかな?」
頭を下げつつ、少しだけ顔を傾けて私を見てくる。その目は、意外に真剣だ。
(これは旅が1泊延長だ)と、内心で軽くため息をつく。
川島さんが頭を下げる理由など、そうそうある筈もないからだ。
「明日1日だけなら時間を取ります。それ以上は、仕事があるのでお許し願えますか」
「それで十分だ。流石は玲子。話が早くて良い」
そう言うや顔をあげるだけでなく、半ば強引に私の両手を取り満面の笑みを浮かべる。
「それにしても、久しぶりだな。2年ぶりか。また大きくなったな」
「この春で15になりますから」
「もう元服か。それに、見た目はすっかり淑女だな」
「はい。ただ周りからは、見た目だけだとよく言われます」
「私と同じだな」
言い終わると豪傑笑い。そして「まずは飯にしよう。もう準備させてある。といっても、玲子達はここで泊まるのだから、内容は同じだろうがな」と続く。
そうして夕食会となったけど、川島さんは上機嫌なのかよく喋った。また、私の話も聞きたがった。だからかなり長く話すことになり、夕食だけでなく、その後サロンに移動して深夜まで色々と話した。
そうして分かったのは、かなり寂しそう、という事だった。
けど、まだ内蒙古のカンジュルジャップさんとの夫婦関係は続いているし、2人ほどお子さんもいると聞いている。私の前世の歴史とは、随分と違う筈だ。
ただし子育ては使用人に任せ、当人は溥儀の女官長という名目で実質的に大臣をしている。また、旦那が内蒙古臨時政府の重鎮なので、パイプ役にもなっている。
一方で、関東軍との関係は年々薄れていた。
私の前世の歴史上で私が知っている限りだと、満州国が出来てしばらくは日本のマスコミなどに持ち上げられたが、その後は関東軍と対立して追いやられていった。
ちょー可愛い李香蘭と知り合うのは、もう何年か先の北京か天津にいた頃の筈だ。
もっとも、こちらの世界では、満州事変自体が大きく違い、満州では国は成立せずに自治政府である臨時政府のままだからか、日本のマスコミが大きく川島さんを取り上げたり、持ち上げたりしていない。「東洋のマタ・ハリ」、「満洲のジャンヌ・ダルク」などと呼ばれる事もない。
川島さん自身が、関東軍とも一定の距離を開けたままだ。
けど、マタ・ハリもジャンヌ・ダルクも末路は悲惨だし、今の方が余程良い筈だ。
「ん? どうした玲子? 菓子はもう食べ飽きたか?」
「いえ、夜に食べ過ぎると、身につきやすいので」
よく見れば、マイさんもあまり菓子には手をつけていない。代表して私にだけ聞いてきただけだ。
けど、川島さんには大笑いされてしまった。
「まだ子供だろ。体重など気にしてどうする。食べなさい。それに、飽食するのは金持ちの特権だが、その反面で義務みたいなものだ」
言い切って、大きく口を開けて月餅を頬張る。
(月餅は、胃にくるから数は食べられないんだけどなあ。もうゲップ出そう。うん、話題を変えよう)
「義務ですか、確かにそうですね。けれどお菓子ばかり食べていては、明日にも響きそうです。明日の話はいつしていただけますか?」
「ん? 酒を飲まないから後でも良いかと思ったが、忘れないうちの方が良いな」
「申し訳ありません」
「いや、強引なのはこちらだ。だが、玲子が来るらしいというので、陛下が会いたがってな」
(関東軍じゃないとすれば、そりゃあ溥儀しかないよねー)
内心諦めの遠い目になりそうだけど、少しだけ気持ちを強く持つように鼓舞する。
「陛下は今どちらに? やはり新京ですか?」
「新京は街ごと作り始めてまだ2年で、ある程度の形になるまでまだ2、3年はかかるそうだ。関東軍が新京の仮皇宮に移ってはと進めるから視察には行ったのだが、陛下はお気に召さなくてな」
「何か問題でも?」
「仮とはいえ、なかなかの邸宅だった。だが、新京は満州臨時政府の都ではない。あれは、関東軍が用意した日本の為の満州の都だ」
(まあ、そりゃあそうだよね。街の建設費用も日本が殆ど出してるし)
「では、新京には移られていないのですね。しかし満州臨時政府は、既に新京に移っていると聞きますが?」
「官僚が増えると、建物やら色々と必要だが、奉天にはそれがないからな。だが、総理の鄭孝胥(ていこうしょ)も陛下と共に移る事に反対して、まだここに残っている」
「では、瀋陽故宮に?」
「うむ。陛下はな。だが、前に玲子が来た時よりも、色々と余裕が出来たし整える時間もあったので、住みやすくはなっているぞ。それに大きいだけの新しい建物より、瀋陽故宮の方が皇宮には相応しいだろう」
「確かに、そうかもしれませんね」
「うん。それに関東軍の参謀どもは、陛下はいずれ大陸全土に再び号令を出すお方と持ち上げているから、後々の為にもかつての先祖も使った瀋陽故宮のままの方が相応しかろう」
そう結んでニヤリと笑みを浮かべる。
それに、自分でもやや力ないと分かる笑みを返すけど、これで奉天で川島さんに捕まった理由が少し分かった。
それに奉天で待たれていたのは、満州臨時政府の情報収集能力も高いという事になる。私が満州に来ることは、川島さんには知らせていなかったからだ。
けど、その辺に探りを入れる前に話を続ける必要があった。
「御目通りはいつ? 私達は明日の「あじあ」号に乗る予定で、手配を済ませています。もし時間が」
とそこで、川島さんがお釈迦様のように右手を胸の前に出す。
「存じている。色々聞きたいだろうが、満州臨時政府もそれなりのものだと、そこは汲んでもらいたい。それでだ、そちらの旅路を邪魔する気もないので、明日の朝10時に面会。遅くとも12時までには終える。そうすれば、汽車には間に合うだろ?」
そう聞かれても私は詳しくは知らないので、秘書でもあるマイさんに視線を向けると強めに頷き返された。
それなら問題ないらしい。
「明日の午前中は特に予定もありませんので、問題ございません」
「うん。突然押しかけて悪いな」
「いえ、陛下のお望みとあれば。……一つお伺いしても?」
「陛下が何故玲子を呼びつけるのか、だろ。当人には色々と深刻で真剣な理由はおありなのだが、要するに愚痴と文句を言う相手が来たので、相手をして欲しいんだよ。こっちがごねるから、陛下が日本を訪れる話も無期延期状態だしな」
少し言葉が口調ごと乱れたけど、色々とぶっちゃけすぎだ。隣でマイさんが引いている。
そして何より、川島さんが溥儀の相手にウンザリ気味なのが分かった。
「本当にそれでよろしいのですね。ただ話すだけ。それ以上はなしで?」
「ああ、構わない。陛下は鳳に勘違い、いや思い込みで期待されているだけだ。何しろ、石油の上がりを随分と頂いているからな」
ウインク付きで話てくれたけど、苦笑いで返すしかなかった。
満州の油田の収益から税金と採掘権のお代あたりを払う以外に、満州臨時政府にはある程度包んでいた。満州臨時政府が、関東軍の紐付きにならない為だ。
そしてその金は、鳳が表立って出しているという形を避けるべく、色んなところを経由して渡されている。
勿論、様々な関係各所は知っているけど、円滑に石油を採掘する為のショバ代や賄賂という認識を持たせている。実際のところも、文句を言わせない為の金だ。
そのお金は、石油採掘量の増加に伴って鰻登りで増えている。溥儀の生活その他の周りが整う理由の一つにもなっているだろう。
けど、正直なところ、これ以上求められても困る。無理だし、やる気もない。
だから敢えてため息をつく事にした。
「ハァ。今回は、持ち合わせがないんですけどね」
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李香蘭:
李香蘭(り こうらん)。本名山口淑子。
満州映画で活躍した女優。波乱万丈の人生で、戦後はかなりの期間、参議院議員にもなった。
1937年に川島芳子と知り合う。1935年だとまだ女学生。
陛下が日本を訪れる話:
史実では、溥儀は満州国皇帝として2回日本に来ており、1回目は1935年4月。
新京は街ごと作り始めてまだ2年:
史実通りだと1934年度から始まる5カ年計画で、ほぼ新しい首都を大規模な計画都市として作り始める。現在も残る主要な建物が揃ったのは1939年前後。
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