385 「大陸情勢1935年初」
1935年、昭和10年になったけど、日本とその周辺はそれなりに平穏だ。ここ数年は、あまり大きな変化はないと言っても良いくらい。
世界情勢は3月16日に、ドイツがヴェルサイユ条約を破棄し、ナチス・ドイツの再軍備を宣言した。とはいえ、私にとっては『知っている事』に過ぎない。それに、直接すぐに何かができるわけでもない。
精々、日本とアメリカの世論に対して、『ドイツの現政権の行いは危険だ』と注意を促し、警鐘を鳴らす程度だ。
一方で大陸情勢は、安定と言うより混沌としている。10年前と極端な違いが見られないのは、私の前世の歴史と大きな違いだ。
実質的に日本が支配する満州臨時政府なんてものがあるけど、張作霖がいまだ主席の中華民国政府からの独立はしてない。旧清朝の他の地域と違い、張作霖への賄賂代わりの税もそれなりに納めている。
だから、欧州列強は強く文句を言ってこない。列強にとっては、上海や揚子江流域を中心とした自分達の利権に手を出さない限り、日本が万里の長城以南に露骨に軍事進出しない限り、あまり関心がない。
文句を言うのは、中華市場の解放を言ってくるアメリカのルーズベルト政権だけ。しかも欧州列強から、ルーズベルト政権は空気読めなさすぎと見られている。
そしてそのアメリカとも連携して、中華民国の通貨を安定化させる一件で日本も協力関係にある。
万里の長城以北には日本も華北を中心に進出して、繊維製品など多くのものを輸出しているけど、日本が支援する張作霖政府だし、日本を含めた列強が支援しているから、法外な関税障壁もない。
民衆の方も、関税障壁を設けないから外国製品が流れ込むと不満タラタラだったけど、通貨安定に列強が協力したので経済も安定に向かい、民衆の反発もかなり小さくなった。
そうして経済安定に向かっている張作霖の中華民国政府だけど、今や地盤となった華北の沿岸部地域から、勢力を拡大しつつある。3年以内に、影響力は揚子江流域に達するとすら言われていた。
張作霖も年ごとに元気を取り戻しているらしく、中華地域の再統合に向けた動きを強めている。
ただ、賄賂、腐敗などは相変わらず過ぎて、順調と行かないのがいかにも大陸情勢らしい。
一方で、南京臨時政府の蒋介石は、じわじわとジリ貧状態に追い詰められていた。
上海は、列強がいるから張作霖政府の経済圏内でもある。これに対して、300キロしか離れていない南京は、『高度な自治』を謳った政府のため、そして蒋介石が張作霖に頭を下げたくない為、新しい通貨制度の外にいる。
これには、蒋介石を支援する浙江財閥も苦言を呈していると聞く。その後ろの麻薬王サッスーン財閥も、かなり深い不満を溜めている。その上、主な軍事面での取引先のドイツは、タングステンなどの地下資源によるバーター取引よりも、安定した通貨による支払いを求める向きを日に日に強めている。
蒋介石は、広州臨時政府と連携する動きも見せているけど、それぞれ左右に分かれた国民党を母体としているから、イデオロギー対立が大きくて互いに敵視する姿勢が変化していない。
しかも広州臨時政府は、広州に近い香港、それに国境を接する仏印(インドシナ)との取引のため、限定的にではあるけど張作霖を受け入れる姿勢を見せていた。
そして蒋介石だけど、浙江財閥、サッスーン財閥さらに上海の列強からの支援をもらうためには、共産党を叩かないといけないのに、このところ負けが込んでいる。
これを挽回するべく、数年前からドイツから軍事顧問団も呼んで軍隊を編成しているけど、肝心の金が不足している。ドイツも大金の借款には躊躇(ちゅうちょ)している。
独立国家ではない、欧米から見ればただの地方政府だから、信用もなければ基礎的な資金力も低いのが理由だ。
だから上海の列強とサッスーン財閥は、一時的でも張作霖の軍門に降ることを勧めている。何が何でも支援するという姿勢なのは、中華資本の浙江財閥くらい。
ただし浙江財閥は、日本は勿論、ここ数年でアメリカからの受けが悪くなっている。
私が大陸の兄弟達、アメリカの新聞王ハースト、さらにはチャーチルにも、鳳が分析した資料を送ったり、ロビー活動してきた影響も少なくない。
この件では、蒋介石の攻撃も合わせて張作霖にも賄賂を贈っているほどだったけど、順調にジワジワと効いているようだ。
そういえば、蒋介石が『タイム』誌の表紙を飾ったと言う話は聞いていない。
初期の頃は、蒋介石が中華民国のトップになっていないからだろうけど、私の告げ口などが効いたのだろう。
それにアメリカでの知名度で言えば、一応は反共の指導者でもあり国家主席の張作霖の方が高い。
そして蒋介石の南京臨時政府が弱っているので、関係を結んでいるドイツも二の足を踏み始めている。
ドイツは張作霖が主権を握り、その後ろに日英米仏がいるので、大陸での商売相手として蒋介石と手を結んでいたけど、蒋介石を見限る動きすら見せつつある。
今のドイツは、特にイギリスとの協調姿勢を見せているから、あまり儲からない蒋介石との関係を、切るまでしなくても、薄くする方が得策と見ているからだった。昔から関係の深いドイツの軍部はそうでもないけど、金がない相手に出来る事は限られていた。
そして諸悪の根源である共産党だけど、基本的に揚子江南岸の各所の奥地にいるから、張作霖の中央政府が手を出せない。出すには最低でも、内陸の武漢方面に進出しないとダメだけど、そこはまだ蒋介石の縄張りになっている。
それに、その途中と周辺の中小の軍閥も張作霖と対立を続けている場合が多い。
そして南部の広州臨時政府は、国民党の左派が中核のかなりを占めているから、共産党に対して甘い。一部では内通している者もいる。
だからこそ、瑞金という一応は都市に共産党が本拠を置けているわけだ。
しかも共産党は、南京周辺部はともかく他では徐々に勢力を拡大している。ソ連の直接の支援は物理的に無理だけど、人とごく一部の密輸の武器なども流れている。
当然だけど、瑞金から逃げ出したりしてないし、『長征』も行なっていない。
「それで、また満州へ行くのか」
「油田の追加調査と、一応様子を見にね」
「ま、いいだろ。いつ行く?」
「春先かな」
「学校が終わってからか」
「学生の本分は果たさないとね」
「そういえば、女学校は割と真面目に行っているな。友達でも出来たか?」
お父様な祖父が、お願いした事以外で興味深げだ。
「多少は話す子は増えたわね。マイさんのアドバイスのおかげかも」
仕事中に資料などを見て決めたことを聞きに行ったので、離れの居間でお父様な祖父とそんなやり取り。私の言葉に、少し後ろに控えている秘書スタイルのマイさんが、お辞儀する気配がする。
そして私の言葉に、お父様な祖父が笑顔を向ける。
「良い事だ。舞も、こいつをもう少し年頃の女らしくしてやってくれ。でないと、お前さんの兄貴が不憫に思えてしまう」
「晴虎兄さんは、今の玲子ちゃんも十分好きのようですよ」
「それは有難いな。教育は俺じゃあダメだから女中や家庭教師に任せたが、結果はこの有様だからな。晴虎がいてくれて良かったよ」
「そう言って頂けると、兄も喜びます」
「うん。こんな事なら、もっと早く虎三郎の家族と親しくさせるんだったと思うよ。同い年の子供連中がいれば十分だろと思いすぎていた。今後は、もう少し一族内の子供の垣根を下げても良いかもな」
「ホントっ!」
会話に割り込むように大声をあげたけど、鳳は世代が10年ほど違うと子供同士も中々合わせてもらえないので、許されると思う。
だからお父様な祖父も、「喜びすぎだ」とは咎めるけど怒ってはいない。
「だって、同じ屋敷にいるのに小さい子達とは滅多に会えないし、私は気安く他の館に行ったらダメだって言うし、せめて屋敷内だけでももう少し自由にさせてよ」
「そうだな。それは真剣に考えよう。それで話を戻すが、3月中だけで4月には戻って来られるのか?」
「あ、うん。満州までは飛行艇で行くから、日程は余裕」
「ああ、川西の新型か。万が一を考えると、危ない乗り物には乗せたくはないんだがな」
「もう1年近く運行しているし、安全性は十分でしょ。それに、飛行機は乗り慣れているから平気よ」
「……夢と現実を混同しすぎるな」
「あっ、ハーイ」
お父様な祖父はもう慣れっこだけど、マイさんが軽く驚いている。
けどマイさんにも、夢は現実に体験するのと違いはないと説明してあるから、それほど大きくは驚いていない。それにマイさんが私と行動を共にするようになって、この春で2年が経とうとしている。私が妙な事を口走るのには、ずいぶん慣れていた。
「まあいい。それで、行くのは満州の二つの油田のどっちだ?」
「両方。それと余裕があれば、帰りに瀬戸内あたりの工場を駆け足で見てくるつもり。水島の石油化学コンビナートが、もうすぐ出来るって聞いているから」
「忙しいこって。観光はしないのか?」
「そうね、できれば新京がどうなってきたか見たいし、何より川島さんには会いたいかなあ」
「川島って、あのお転婆殿下にか?」
川島芳子に対して、エライ言いようだ。けど、そのまんますぎて、苦笑してしまう。
「そうよ。うちが呑気に満州で油を掘っていられるのも、満州臨時政府が関東軍に対して頑張ってくれているからでしょ。一言くらいお礼を言っておきたいじゃない」
「手紙は出しているとはいえ、金や物だけじゃあ不義理ではあるな。分かった。まだ先だし、諸々の手配はさせておこう」
「お願いね」
「ああ。だが、側近と幹部連中は連れて行けんぞ。三月後半じゃあ、忙しすぎる」
「うちは商人だもんね。それに油田を探しに行くのが一番の目的だから、私だけで十分よ」
言葉を返しつつ、前世での年度末の忙しさを振り返りそうになる。
「それもそうか。まあ、油以外にも何かあれば探しておいてくれ」
「他にねえ。満州以外なら、見つける自信あるけど」
「どこだ?」
「オーストラリア」
「……飛行艇で行くのか?」
「一気に行けないし、船で行く方が無難じゃない?」
「まあ、そうだな。それで鉄以外に何があの大陸にある?」
あまり興味なさげに聞かれたけど、前世の歴史の受験勉強などで見た景色を思い浮かべる。
「石炭、ボーキサイト、追加の鉄鉱石、あと何があったかな?」
言いつつ、前世の記憶の授業なんかで見た、地理の資料本を思い浮かべる。
「色々あるんだな。だがまあ、豪州は行くとしても夏にしとけ」
「うん。大抵は沿岸部だから、船で回って行けばいっぺんに探して回れると思うし、その方が良いかもね」
「ああ。それにしても、相変わらず花咲か爺さんの犬もびっくりだな」
「ワンワン!」
「ジャれるな。用はそれだけか?」
可愛く返したのに、手をヒラヒラと振って邪険にされる。マイさんは小さく笑ってくれたのに、お父様な祖父は大抵こんな扱いだ。
それに無駄話を延々とするほど暇でもない。何しろ、今は政治家として忙しくしている。
「うん。じゃあね」
「ああ、晩飯でな」
それで離れの居間を後にしたけど、これで春の予定は決まりだ。
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