383 「昭和10年度予算編成(1)」
毎年のことだけど、1月半ばくらいになると来年度国家予算の審議が開始される。予算成立は3月末だ。
「臨時利得税?」
「はい、玲子お嬢様。言葉通り『臨時の超過とされる利得に課せられた税』を新たに設ける予定です」
私の疑問に、時田がいつもの調子で言葉を返してくれる。そしてそのまま、新ネタのQ&Aをしばらく繰り返す。
「要するに、余分に儲けた分だけ国が分捕るって事?」
「概ねその解釈でよろしいかと」
「それで、どの辺りに線を引いているの?」
「1931年以前3箇年の平均利益を超過する場合」
「うちを狙い撃ち?」
「我ら鳳グループより、何年か前に為替で儲けた財閥、銀行の方が、頭を抱えるでしょうな」
「なるほどね。高橋様も大変ね」
「はい。それで高橋様からは、鳳には大変申し訳ないとのお言葉を頂いてございます」
高橋様がうちに言っても仕方ないので、その言葉に笑みだけ返しておく。
けど、笑っていられるくらいに、鳳が儲かっているのも確かだ。
「それで、お上は何割分捕るの?」
「法人で1割、個人で8分」
「まあ、そんなもんか。貧乏人から毟り取るより、国債山積みするより余程良いし、高橋様への援護射撃と思っておきましょう」
私が笑みを浮かべてみんなの顔を見ると、それぞれが笑み返すなり、苦笑するなりの反応を見せる。
一千万円単位での税金上乗せなので、私ほど割り切れない人がいるのは当然だ。
けど、それより私には気になる事がある。
「そんなことより、時局匡救事業はもうしないのね」
「その代わり、各省庁の予算配分で公共事業などの予算が大きく取られます」
「要するに、時局匡救事業は各省庁の縄張り争いには向いてなかったって事か」
「それもあるが、陸海軍が自腹で民間発注を増やしていたのに、他の省庁は少ないじゃないかって文句をつけたのも、水面下での理由の一つだ。貴族院ですら、結構喚いているからな」
私の質問には時田が、愚痴にはお父様な祖父が返す。
場所は鳳の本邸の居間。例年のように鳳一族の大半と一族に近い財閥関係者が集まっている。
一族として状況を把握する為だけど、国家予算に対して集まるあたりが財閥一族と言える。また、何より情報を重視するからこそ、こうした情報が出てくる時には情報の共有を重視している。
この点はお父様な祖父が、日本陸軍の作戦至上主義とも言えるドイツ型の方向性に、強く疑問を抱いた結果だと聞いた。
鳳財閥では、情報、物流(補給)、そして計画(作戦)の順で重視している。
情報と物流に従い計画が立てられ、その計画を情報と物流の優れた専門家が妥当かを判断するのだ。そんな財閥だから、総合研究所なんてものがあるし、情報を集める事を最優先目的とした新聞社なんて持っていたりする。商社も、情報収集機能が優先されている。
そんな鳳財閥の状態は、セバスチャンなどアメリカ人スタッフに聞くと、当然だろうと言う反応しかない。つまりは、英米的な考え方という事になる。
ただそうなると、私の存在はイレギュラー過ぎる。異次元レベルで先読みできてしまう『天才軍師』、つまり作戦特化に等しく、鳳のシステムには合わない。だからこそ、日本人が受け入れやすい『巫女』という呼び方にしたのかもしれない。
また一方では、『先読み』というチート的に情報に特化してもいるわけだから、重視しているとも言える。
そんな私の事はともかく、情報の共有の為にこうして鳳の大人達は集まってブレーンストーミングを行う。
麒一郎、善吉、龍也。今年は珍しく虎三郎も来ている。ハルトさんとマイさんも、鳳一族の大人の一人として参加しているからだろう。
また今年からは、私の世代の玄太郎くんが参加している。龍一くんも資格が出来るけど、全寮制の幼年学校だから参加できない。
紅家は、学園や病院はともかく製薬業は大きく規模を拡大しているから、紅家の人も呼ぶべきかと思うけど、創始者の薫陶よろしきにより、紅家は紅家で似たような事をしているらしい。
ただ紅龍先生の話だと、瑞穂大叔母さんが強すぎて蒼家のようにバランスよく行かないとボヤいていた。
そしてバランスがいいらしい蒼家の一族以外は、時田、貪狼司令、セバスチャン、それにエドワードと涼太さんも末席にいる。また同じく末席には、お芳ちゃんも今年から座っている。
他は、シズもだけど別室待機で、例年通り。家令の芳賀は控えているけど、役割が違うから控えているだけに過ぎない。
そしてみんなが見ている資料には、一番目立つ場所にこう書かれている。
昭和10年度予算 :約35億5000万円
陸軍費 :約6億0000万円
海軍費 :約6億4000万円
(軍事費割合は約35%)
「去年から幾ら増えた?」
「3億円強ですな」
「去年より増え幅が少ないのか?」
「厳しい不作なのを除けば景気は大変良う御座いましたが、景気が良い分だけ国債発行額をかなり減らしました。それに昨年度は、鳳はアメリカでの買い物も以前ほどしておりません」
「そういう事か」
お父様な祖父の言葉に時田が返していく。そしてそれを他の者が聞く。疑問や文句がない限りは、まずはこうして淡々と進む。
そして増え幅が大きい理由は、手に持つ紙面の別の紙に書かれている。
経済成長率(名目):
1932年度 :約 8%
1933年度 :約14%
1934年度 :約18%
高橋財政下で、時局匡救事業が行われた3年間の成果だ。加えて、30年から32年にかけては、鳳が呆れるほどの買い物を主にアメリカから行った成果も多く含まれている。
さらに言えば、私が大きな資源を見つけた影響も少なくないだろう。少なくとも、石油を自前で賄える事は、徐々に大きな経済効果を発揮しつつある。
そして昭和9年度、1934年度の経済成長率に全員が大きな感情を見せている。
30年、31年の世界恐慌の影響による不況の反動もあるけど、この経済成長率は前の世界大戦以来のものだ。
世の中では、数年前の『昭和恐慌』に対して『昭和景気』と呼んだりしている。ただ私的には、前世の歴史の勉強で見かけた『神武』とか『岩戸』になって欲しいと思う。けどまあ『高橋景気』が一番しっくりくる。
しかし時局匡救事業は終わり、日本経済は次のフェーズと言える。
けれども、時局匡救事業を止めるからと言って、公共事業、産業への政府投資は大規模に続くので、余程の不測の事態が起きない限り、景気拡大は止まらないと予測されている。
繊維産業を中心として輸出も好調だ。鳳グループでは、日本での労働コストの安さを武器に、トラックや一部機械も輸出するようになってきている。
そして日本中では、未曾有と言える建設活況が続いている。しかも大きな右肩上がりで。
景気は今年も大きく拡大するだろうというのが、既に語られているほどだった。
また、少し前から数字に表れていたけど、一部医薬品の向上に伴う人口増加曲線の上方修正、軍事活動の減少による動員数の減少、結核による労働力の長期リタイアの大幅な減少が全体の景気、所得、税収に影響を与えていた。間違いなく、全て私の前世の歴史よりプラスの筈だ。
ただ前世のそんな細かい数字は知らないので、薬がなかった場合の予測との比較という事で、その辺りの影響を知ることができる。
そして報告の中に、1935年中に植民地を除く日本の人口が7000万人を超えるという資料があった。
1926年に6000万人を超えたので、9年で1000万人増えた事になる。
そしてこのまま、徐々に合計出生率が下がりつつ人口が増えた場合、30年後には日本人は1億人を超えるという予測数字もあった。
そんな先の事はともかく、人口増加が景気、所得、そして税収に影響しているのは間違いなかった。
そして大きな好景気を反映して税収も大幅に伸びており、さらに国債発行も躊躇がないので今までにない大きな予算編成となった。
ただ、予算編成には愚痴にしかならないと分かっていても言いたい事もある。
「軍事費が、毎年全体比率で1%ずつ増えているわね」
「満州、上海の駐留費の増加と、ソ連の脅威に対抗する為の近代装備更新の為とされています。それに海軍は、大型艦の大規模な改装を精力的に進めています」
私の不満には、時田ではなく貪狼司令が答えた。
「それにしても、陸海軍合わせて1億3000万円増ってのは、増え過ぎじゃない?」
「陸海軍は、これでも大きな不満を持っておりますがな」
「なんで? こんなに増えたのに?」
「多すぎると言う高橋元蔵相の声を受けて、今の三土蔵相が国債発行を渋り、軍事費が連中の予定より大きく下がりました。それでも1%増は譲歩したわけですが」
貪狼司令の言葉に、前世の悪い記憶が過ぎる。
そう、この年の予算で軍事費の増額を抑えたので、高橋是清は『二・二六事件』で暗殺対象とされた。
「どれくらい削ったの?」
「連中の求めは、合わせて全体予算の4割」
「5%、さらに9000万円ずつも増額を求めてたって事?」
「はい。昨年度よりの増額要求は、6割以上削られた形です。海軍は以前のやらかしからの遠慮があるし、半ば陸軍への張り合いから予算増額を求めただけでしたが、それでも海軍の一部は不満を持っていると見られています」
「問題は陸軍の急進派、特に若手の一部?」
「そうなりますな。ただ、それ以上に、天皇親政を唱える精神主義の連中ですな。政治家は、自分たちは私腹を肥やす一方で、経済など上っ面の言葉で予算を自分達の好き勝手にして、真に国防に必要な予算を認めようとしない、と」
「なっ! この貧乏国での過剰な国債が何を意味するか知っているの? その度し難いほどの大馬鹿は!?」
「知識としては、もしかしたら知っているかもしれませんな。とはいえ、ああ言った連中のお題目は、正しい道を知る国民は真の国防の為ならば当然受け容れる筈だ、といった風になります」
貪狼司令の言葉は容赦ないけど、私の視界の先ではお兄様が苦々しい表情を浮かべている。説得はしたけど、馬の耳に念仏だったんだろう。
「まあ、既に決まったも同然の事だ。ここで言っても始まらんだろ」
全てを察したお父様な祖父の言葉で、私もお兄様も表情を改め気持ちを切り替える。
だけど、それでもため息は出てしまう。
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臨時利得税:
臨時の超過とされる利得に課せられた税制。
大恐慌以後に、軍需や円・ドル交換で儲けた連中から徴税する事で、国債を減らすのが目的。
この税は、法人の普通所得および個人の営業収益で1931年以前3箇年の平均利益を超過する場合の超過部分に対して、法人10% 、個人8%の割合で課せられた。
そして3年期限のはずが、日中戦争勃発で継続。1946年に廃止された。
※1935年の史実の予算:
25億3200万円
陸軍費4億9700万円
海軍費5億3600万円
(軍事費割合40・3%)
※史実のGDP成長率(名目GDPより):
1930年:△15%
1931年:△7・2%
1932年:4・1%
1933年:9・9%
1934年:9・3%
1935年:6・7%
1936年:6・3%
※資料によって違いがありますが、この物語のたたき台はこの数字を基にしています。
※なお、史実の1937年夏からは戦時財政に入るので、通常の比較は意味をなさない。
総人口:
史実で総人口が7000万人を超えたのは、1937年。
この世界は2年前倒し状態。様々な新薬と好景気の影響による。
なお、好景気による影響は、主に海外移民(満州含む)・海外居住が史実より減っている事も影響している。
徴兵数の変化も重要。史実では、1933年から合計特殊出生率が大きく下落し始めている。
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