373 「対ソ連諜報活動?」

 9月、二人の軍人が日本を旅立った。


 一人は、野村吉三郎海軍大将。目的は『第二次ロンドン海軍軍縮会議』の予備交渉の首席代表として。1936年内で現在の海軍軍縮条約が期限切れになるので、次の軍縮会議を議論する為の予備交渉だ。

 英米同様に海軍大将を出すことに、日本側の意欲の高さを見せていた。


 また、副代表には、山本五十六少将が同行していた。他にも、様々な国際会議に出ている外交官の斎藤博が、駐在先のアメリカからロンドンに向かう事になっていた。

 政府も、床次首相は今ひとつだけど、吉田茂外相は英米協調路線を強く後押ししていた。


 なお、今までの軍縮会議の経験から、いきなり本交渉をするより、事前に意見を擦り合わせが必要と考えられた為、イギリスの提案で予備交渉を行うことになった。

 しかもヨーロッパでは、ドイツでナチス政権が成立し、アジア極東でも日本が満州を事実上切り離した。後者は主にアメリカだけの懸念材料となっていた。


 そして不安定へと陥りつつあるヨーロッパのイギリス、ソ連が気になって仕方ない日本に対して、不景気な事と主に日本の海軍拡張が理解できないアメリカとの溝を埋めるべく、予備交渉で妥協点を探り出そうという事だった。


 この予備交渉に際して、軍縮続行派が主に海軍中枢、特に海軍省を占めている海軍は、政府と歩調を合わせて会議を成功させ、『アメリカの軍備拡張に枷を掛ける』のを目的とした案で望む方向。

 と言っても、主な作戦は一番事態が切迫しているイギリスの取り込み。イギリスの主張に最大限沿う意思を示し、日英の連携でアメリカから譲歩を引き出すのが一番の狙いだ。


 また日本国内では、今までの軍縮で日本が枷を掛けられているという考えは一部で根強く、拡張派、造船会社などの意を受けた一部新聞も煽ることもあった。

 だから、そのガス抜きも多少は考えられていた。最低でも、交渉で粘る必要があった。

 そうしたところも含めて、日本は軍縮条約に積極的姿勢を示しつつも、英米から好条件を引き出すのを目的としていた。



 もう一人は、陸軍の辻政信。ソ連の首都モスクワに武官として派遣される。

 少し前にお兄様が、辻を陸軍内で何かさせるかもしれないと話していたけど、アメリカの反共姿勢もあるので、陸軍としては問題の少ない陸軍内での問題解決より、対ソ連活動を重視した結果だそうだ。


 なお辻は、軍内部では永田鉄山の子飼いの鳳龍也のさらに子飼いと見られている。さらに鳳龍也を慕う、服部、西田らの将校グループに属しているのも知られている。つまりは、軍の実務を担う漸進的改革派、総力戦派の尖兵として、辻はモスクワに派遣される事になる。

 だから、壮行会も手厚いものになった。



(だからって、なんで私がお父様の名代として、参加しないと駄目なわけ?)


 鳳ホテルの中くらいの宴会場の片隅に、メイドと執事服姿のエドワードを壁にして私は佇む。念の為、マイさんにも同行してもらっている。

 そうすればシズ以外の3人が、白人か白人とのハーフになるから、軍人どもは滅多なことでは私に寄ってこない。

 私の側も、最初にお父様の名代としてのごく簡単な挨拶をしておしまいだ。

 そうして壁を作っておいてから、人間ウォッチングと洒落込む。


(辻の周りは、あんまり見ない顔が多いし若いから、お兄様の信奉者ね。……永田さんの周りは相変わらずか。東條英機は、久留米で旅団長しているって話だけど、側にいないと違和感あるなあ。その代わりってわけじゃないけど、小畑がいる。まだ、仲違いしてないのは、結構な事よね)


 小畑敏四郎と永田鉄山が、袂を別つ原因となる中華かソ連のどちらを叩くかという争いはなく、チャイナが大人しいから二人の意見は対ソ戦備で一致している筈だ。

 それに小畑がいないと、皇道派となる人たちの参謀格がいないから、この世界では上手く形にならなかったんだろう。

 現に、いまだ『皇道派』という言葉は出てきていない。せいぜい、精神主義者止まりだ。


(あれが河本大作か。少将になったって聞いたけど、この人が参謀本部にまだ居るってのは歴史の変化を感じるなあ。ていうか、牟田口廉也とのツーショットとか色々頭がバグりそう)


 河本大作は、張作霖を列車ごと吹き飛ばしていないけど、土肥原賢二とセットの謀略コンビだから、この世界では大抵満州を任地にしている。

 満州事変では郷里の旅団長をしていて満州不在だったけど、今も満州を根城にしている。今回は、ちょうど帰国していたから出席したとお兄様から聞いている。


(けど、何かあるんだろうなあ。ていうか、牟田口も大佐だからそろそろどっかの連隊長だよなあ。今の所支那駐屯の部隊とかいないから安心だけど、願わくばずっと軍官僚してて欲しいよね。書類仕事をする分には、優秀で常識家らしいし)


 そうして視線を進めていって、最後にお兄様のところで固定する。


(案の定、側に西田がいるよ。なんか、耳と尻尾が見えそうなくらい懐いてるなあ。二人の関係が永田さんと東條さんっぽいのが、ちょっとシャレになってないぞ)


 そう思ったところで、こっちを向いたお兄様と目が合って、軽くニコリと笑みを向けてくれた。そしてこちらも挨拶の笑みを返したところで、お兄様の笑顔に気づいた西田もこっちを見て、ニコリと笑顔。さらに小さく丁寧な会釈。こういうところが西田らしい。当然それにも、如才なく笑顔を返しておく。


 西田は最近というか年々、何というか革命の『色』が薄くなって、普通のエリート軍人に見える気がする。きっと、お兄様の薫陶宜しきを受け続けたお陰に違いない。

 そして西田が日本の革命運動から外れた影響で、少なくとも私の知る歴史とは違う景色になっている。しかも良い方向に違っている。

 過激な青年将校どもにまとまりがなくて勢力も限られているのも、つなぎ役となる西田がいないからの筈だ。


 懸念があるとすれば、お兄様の周りの連中の何人かは、恐らくだけど私の前世の歴史の上では、急進的な考えを持っている連中だ。全員、西田みたいに無害な方に変化して欲しいと、切に思ってしまう。


 ただ、革命とかそういう事はそっちのけで、危険人物もまだまだ多い。その最恐、最凶の一人が、私が観察する前で談笑をやめて行動を開始した。

 まずは、さっきまで話していた連中を含めた数人で、お兄様達に突入。そしてしばらくは和やかに話していたけど、そこから3人が離脱して私の方へと向かってくる。

 お兄様、西田、そして問題児の辻だ。


(永田さん達が一緒じゃないだけマシかなあ)


 そう思いつつ、3人の迎撃準備の為、心を整える。


「やあ、玲子。今日は済まないね。退屈だろうから、先に引き上げてもらおうかと思ったんだ」


 その言葉に右斜め後ろの西田が、にこやかに同意の笑みを浮かべる。多分、こいつの差し金、もとい配慮だろう。こういうところは、お兄様より気が回るし如才ない。ていうか、普通に良い人すぎる。

 それに対して、左斜め後ろに位置していた辻が半歩前に出て、ピシリと30度ほど頭を下げる。


「伯爵令嬢、改めましてこの度は小官の壮行会においで頂き、誠にありがとうございました」


 これだけなら、礼儀正しい別れのご挨拶だけど、頭を上げた表情が辻ーんだった。


「最後に、差し支えなければ、お聞きしたい事が御座いますが宜しいでしょうか」


「まあ、ソ連は敵地だ。少し付き合ってやってくれ」


「はい。お力になれるのでしたら、何なりと」


 お兄様のお言葉もあるから、私は首を縦に振った。


「ありがとう存じます。では、この時期のソ連で、何か注意するべき事は御座いますでしょうか。どんな些細な事でも構いません。参考にさせて頂きたく存じます」


「注意ですか……」


 そう答えつつ、少し考える。


(スターリンの大粛清って、まだ2年くらい先よね。あのロリコンがNKVDのトップになるのは、もっと先。エジョフも今は違う役職だったし、という事は……)


「短期的にはともかく、長期的な協力者、情報網の構築は、するだけ徒労に終わる筈です」


「と、申されますと?」


「ちなみに、辻様の任期はどの程度のご予定ですか?」


「慣例通りなら、2年程度かと」


「そうなると1936年の夏頃でしたら、まだ大丈夫でしょう」


「大丈夫? 一体どれ程の事が起きるのですか?」


「この夏、ゲンリフ・ヤゴーダを初代長官としてNKVD、内務人民委員部が設立されましたよね」


「チェーカー、秘密警察ですな」


「はい。ですが、より酷い組織とお考えください」


「酷い。何をしでかすのですか?」


 最初から真面目だったけど、言葉を重ねると共に真剣味を増していく。私がロクでもない事を口にしているから、辻ーんもそうでないと困る。


「龍也叔父様には既にお話しておりますが、ソビエト連邦で大規模な粛清が数年後に開始されます。ヤゴーダとNKVDの名が出てきたので、ほぼ確定でしょう。早ければ、数カ月以内にソ連国内の重要人物が暗殺されます」


「なんと! その人物とは?!」


 疑いもしてないのは、こちらが警戒してしまいそうになるけど、ゆっくりと首を横に振る。


「誰かまでは。ですが、共産党幹部の誰かです。それとヤゴーダもそうですが、汚れ仕事をする大抵の者は、数年で排除されます。なので関係を深めても、長期的には徒労に終わるでしょう。どうしても秘密警察に太いパイプを作りたいのでしたら、ラヴレンチー・ベリヤが一番長持ちします」


「長持ち、ですか。分かりました。……それで、一体何人ほどが粛清で投獄や暗殺されるというのでしょうか?」


「大規模になるのは、恐らく辻様がモスクワを離れた後になるでしょう。あの国は、一度事が動き出すと止める者が実質いないので、行き着くところまで行きます」


「……暗殺、投獄、処刑などによる大規模な粛清が発生すると言う事ですな」


「そうです。ですが、今辻様がご想像された百倍、千倍、もしくは一万倍を想定なさっておいて下さい」


「なんとっ!」


 大声で目を大きく見開いて、マジ驚きしている。

 大ボラと思われないだけいいけど、部屋中に声が響き渡ったから、多くの人がこっちを凝視する。

 けど、お兄様は平然として、さらに付け加えた。


「この話は、永田さん、東條さん、他数名は既にご存知だ。辻にも、向かう直前に伝える予定だった。だが、以前聞いた話は、ここまで詳細ではなかった。ヤゴーダとNKVDが登場したからだね、玲子」


「はい、叔父様。叔父様にも、近日中にお伝えする積りでした」


「そうでしたか。いや、これは大変良いお話をお聞きしました。俄然、やる気が湧いてきましたぞ!」


 口先だけじゃなくて、全身本気モードだ。目が爛々と輝いている。体からオーラが沸き立つのが幻視できそうなほどで、ちょっと怖い。


(へ、変なスイッチ入れちゃった? 変なフラグ立ててないわよね、私)


 そんな私の不安をよそに、あろう事かお兄様がいい笑顔でさらに煽る。


「辻、危険が多いが、存分にやってこい。鳳も可能な限り支援する。権力闘争なんて馬鹿な事に興じる連中を引っ掻き回してこい」


「お任せを!」


「……龍也叔父様、部下の方をけしかけるのは、如何かと思います」


 私にはもうそんな言葉しか出てこない。

 それなのに二人は生き生きとしている。軍人って度し難い。


「あ、いや、これは参ったな」


「ハハハッ、鳳少佐殿にも敵わぬ相手がお有りなのですな」


 これは、特大の地雷を踏み抜いたと覚悟しておいた方が良さそうだ。


(マジごめんなさい、赤いロシアの皆さん)


__________________


『第二次ロンドン海軍軍縮会議』の予備交渉:

史実でも同じ時期に行われている。

首席代表は山本五十六。日本側のやる気のなさが、首席代表が少将という低い階級に現れている。

当然交渉は決裂し、日本は海軍の軍拡へとなだれ込む。



辻政信:

この時期は、東條英機の指示で士官学校に潜入し、皇道派潰しのスパイをしていた。

『二・二六事件』の主要メンバーの幾人かが、「陸軍士官学校事件」と呼ばれる謀略で軍を追い出されて事件へと邁進してしまう。

この話がなければ、辻はモスクワ駐在の予定だった。



あのロリコン:

ラヴレンチー・ベリヤ。主に大粛清後のNKVDの長官。

凄く控え目に表現して、大変な漁色家として有名。



NKVD (エヌ・カー・ヴェー・デー):

内務人民委員部 (ないむじんみんいいんぶ)。

刑事警察、秘密警察、国境警察、諜報機関を統括していた。

後のKGB。



重要人物が暗殺:

1934年12月に共産党幹部のセルゲイ・キーロフが暗殺される。そしてこれが、大粛清の発端となったと言われる。

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