372 「実り少ない秋」
秋、実りの秋。その筈だけど、今年は大凶作が待っている。
夏は日本列島全域で冷夏だった。しかも東北は酷く、中でも太平洋側は最悪だった。
ただ、今年の凶作は、この冬から予測できた。
まず、冬の東北地方は大雪となった。この影響で、苗代の準備や播種(はしゅ)が遅れた。そこからも今ひとつな天候が続いたけど、7月末からの夏の低温は、東北地方に未曾有の冷害をもたらした。
勿論、冷害対策は可能な限りしてきた。31年の不作の記憶もあるから、農村も言うことをよく聞いていた。
そして政府には、冷害に強く美味しい新種米の『水稲農林一号』の普及に力を入れてもらった。また、原敬の東北などへの行脚は、それは熱心だったと聞いている。
そして32年頃から、評判を呼んで作付け面積は一気に増えた。それでも全体の半分を超える程度だけど、新種とそうでない場合の違いは明らかだったから、今後も普及は進むだろう。その為の準備も、さらに講じてある。
そして8月初旬に床次内閣が発足すると、三度目の破格の献金を実施。合わせて、それで増刷された国債で鳳が抱える150万石のコメを買わせた。
コメは去年が大豊作なお陰もあって、政府所有米もかなりの量があるし、他でもかなり備蓄されていたので、それも政府がどんどん買い上げていった。
そして1931年の不作時にも行われていたので、配給の手はずもさらに手際よく進められていった。
これで、取り敢えず食べるのは何とかなると言う段階にある。少なくとも、飢餓状態にはならない筈だ。
取れ高の大幅低下による収入の激減は、『水稲農林一号』で冷害の被害が少しでも軽減され、さらに市場での売れ行きも以前より良いので、31年よりマシになると予測されている。
ただし、栽培している農家だけ。従来稲を栽培しているところは、どうにもならない。セーフティーを、張れるだけ張るしかない。
その為の国債増発であり、凶作の酷い地域を重点的に緊急土木事業などで、政府や他の一部財閥とも連携して臨時雇用をばらまいていく手はずを整えた。
「それで、今度は何?」
「台風です」
電話で呼び出される形で鳳ビルの地下深く、鳳総合研究所の司令室で、そこを取り仕切る貪狼副所長が端的にお答えをくれた。
そして私を呼び出すと言う事は、夢で何か知らないかって事だ。けど、思い当たる節はない。というか、私は何でも知っているわけじゃない。主に歴女知識で、人よりこの時代の歴史知識が少し詳しいだけ。知らない事は多すぎて、森羅万象を知るには程遠すぎる。
「どんなやつ?」
「現在沖縄に接近中ですが、今まで見た事もない規模かもしれないとの事です。気象庁も、沖縄と周辺の船舶に対し、強い警戒を呼びかけております」
「大きな台風ねえ……」
言いつつ、記憶の奥底を覗き込む。
少し離れた場所では、お芳ちゃんが赤い瞳でそんな私を見ている。お天道様相手だから、会話に加わる気はないみたいだ。
(戦前の大きな台風って、何があったっけ? 学校で習ったのって、確か戦後ばかりだったような……)
「該当するものは御座いませんか?」
「当てずっぽうで言っていくわよ。大きな台風は確かに来る事もあるけど、いつ来るのか分からないの」
「天災ですからな。ですが、何か参考になるかもしれません」
「うん。特に大きな台風には名前に地名が付いているから、多分参考になると思う」
「なるほど。分かりやすくてよろしいですな」
「うん。『伊勢湾台風』『枕崎台風』『室戸台風』。『ジェーン台風』なんてのもあったわね」
「じぇーん? どこの地名ですかな?」
「確かアメリカでは、ハリケーンに女性の名前を付けるのよ」
「なるほど。では、フィリピン辺りの台風のようですな。ですが、他は日本の地名。枕崎はどこだったか……鹿児島か。室戸は四国の室戸岬、伊勢湾は言わずもがな。どこも、台風の定番進路の上にありますな」
「うん。でも、どれも沢山死者が出る台風だから。確か室戸台風は、京阪神で大きな被害が出た筈」
「では、枕崎は? 伊勢湾は名前通りでしょうが、鹿児島を通るとすると西でしょうか」
「ちょっと分からないけど、中国地方が危ないかも」
「確かに、廣島辺りも台風の通り道ですな」
「うん。けど、伊勢湾は外していいと思う。もう少し先の筈だから。あと二つは、ちょっと分からない。それとジェーンも少し先ね」
「枕崎か室戸。となると、伊勢湾より東は大丈夫そうですな」
「だと良いわね。けど、もう少し先にして欲しかったわね」
「はい。米の収穫後なら、少しはマシだったのですが」
「確か水稲農林一号は、台風が弱点なんだっけ?」
「そう聞いています」
「それで呼んだわけね」
「お手数をおかけします」
「それは全然構わないわ。けど、台風対策といっても、水辺に近づくな、土砂崩れに警戒しろ、くらいしか思いつかないんだけど」
「沢山死者が出るとなると、水害でしょう。台風上陸と高潮が重なれば、沿岸部は危険です」
「堤防とかで防げないの?」
「どうでしょう。その辺りの正確な情報が御座いません」
「そっか。けど、防潮堤とかあんまり見た覚えはないわね。それと、中国地方だと土石流も注意しないと」
「どちらも難題ですな。ですが、東日本、東北の稲作の被害が軽そうなので、その点は安堵しました」
「確かに気になるわよね」
「はい。台風で多少の犠牲者が出るのは毎度の事ですが、この時期に大型台風が列島縦断などされては、目も当てられません」
「ただでさえ冷害で不作確定だってのにね。八百万の神様は何してんだか」
「八百万の神々が気まぐれなのは、天地開闢(てんちかいびゃく)以来ってやつですからな。言っても聞いてはくれますまい。地面に這いつくばるしかない人間様は、争(あらが)うのみです」
「至言ね。じゃあ、せいぜい今回も争いましょうか」
その数日後、日本列島を襲ったのは後に『室戸台風』と呼ばれる台風だった。
鳳からは、総研の分析情報としてグループ全体を始め、公開情報として、さらに気象庁への注意喚起として、高潮への警戒を呼びかけた。
分析していたら、上陸が高潮にビンゴしそうだと分かったからだ。
ただ、この時代の気象情報では、事前に掴める情報に限界があるので時間が限られていた。
そして「関西風水害」と後に呼ばれた通り、高潮による大阪での大規模な水害と、猛烈な風による大きな被害が出た。
特に、古い木造の学校や寺社建築の被害が多く、これを契機に大阪中の学校は急速に鉄筋コンクリートに建て直すか、建て替えられていくことになる。
けど、台風による作物への被害は大したことはなかった。近畿を抜けたあと東北北部に再上陸したけど、冷害に比べるとごく軽い被害で済んだ。台風が近畿横断した時点で、エネルギーのかなりを使ったからだろう。
一方大凶作の方だけど、8月から政府により精力的な動きが見られた。
好景気の影響と、財閥が社会風評を強く気にするようになって社会貢献の度合いを強めた影響もあり、多くの資金が政府の元に集まった。
これを財源に政府は、約2億円の国債を増発。
困窮地域を中心とした米の無料配給、政府による低金利融資、東北を中心とした緊急の公共事業と、中長期的な大規模公共事業、産業振興など多くの政策が実行された。
これらの政策のおかげで、少なくとも欠食児童という言葉を聞く事は無かった。少女が身売りするという話も、社会問題とされるレベルでは阻止できた。
それでも未曾有の凶作なので、被害ゼロ、影響ゼロとはいかないのが現実だった。
私は免罪符欲しさに、身売りの女性を大量に買い上げて工場で働かせようなどと考えたけど、口にしただけで周りから強く止められた。
特にお父様な祖父には、厳しく叱られもした。
「人を『買う』など思い上がりだ」、と。人を物として考える時点で、例え動機が何であれ人の尊厳を踏みにじる行為だからだ。
鳳の一族と財閥自体が、そうした事に昔は、そして今も水面下で手に染めているので、厳しい一線を敷いているのだ。
そんな私の愚かさはともかく、一方では製造業への就職、建設業などへの転向がさらに進んだ。当然、貧しい小作農の農村離れが大きく進みすぎて、地主支配の強い東北地方ではその後の働き手が大きく不足するという、別の問題が起きたりもしている。
そして翌年はトラクター、耕運機などがバカ売れしたという。
ただし東北での不作は翌35年にもあり、多少軽いながらも発生し、農民の多くの救済は出来たが、多くの離農者を出すことになった。
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1934年凶作:
記録的な大凶作。特に東北の青森、岩手、山形は、5割か5割を切る大幅な減収になった。
なお、東北の凶作は35年も襲っている。
『伊勢湾台風』『枕崎台風』『室戸台風』:
昭和の三大台風。伊勢湾台風が最も大きな被害を出した。
ジェーン台風は、占領軍のいる間の台風なのでアメリカのハリケーンと同じ命名。
そして1934年は、室戸台風が襲来。
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