364 「総選挙1934概況」
7月21日、1934年の衆議院議員の選挙戦がスタートした。
この時代、選挙で次の政権を国民に問うというのは少ない。大抵は、現政権を認めるかを問う場合が多い。新たに政権を作ってから選挙という場合もある。
けどこの10年ほどは、大正末期の政党政治の時代を迎え、真面目に民意を得て政権を得ている形が多い。
確か私の前世の歴史では、選挙で政権交代というのは珍しかった筈だ。しかも犬養首相が暗殺されてからは、軍部がでかい面をするようになり、挙国一致とかのお題目で政党政治が崩壊して、軍国主義路線真っしぐらになった。
そしてそんな状態でも、選挙で民意を問うた。軍国主義とか、とんだお笑い種だ。
けど現状は、政党選挙が健全な状態で維持されている。だから選挙の『顔』が大事だ。
今回の選挙での政友会総裁は床次竹二郎。副総裁は鈴木喜三郎。大方の予想に反して、宇垣一成が担ぎ出される事はなかった。これは民政党への不意打ちに近くなり、政友会には追い風となった。
対する立憲民政党は、若槻礼次郎が後ろに退いて町田忠治を総裁に立ててきた。
どちらも良くも悪くも普通の政治家、代議士で華がない。そうした中で、軍人から外務大臣となっていた宇垣一成が政友会から議員に立候補したのは大きな注目を集めた。
この時代の選挙は、1925年からは日本独自とすら言われる中選挙区制。1つの選挙区から複数名の議員を選ぶ。だから、政友会と民政党の議席の差は少ない場合が多く、勢力が比較的拮抗している事もあって、ちょっとした事で政権の交代も起こり得た。
そして今回の選挙だけど、宇垣無双の様相を呈した。
宇垣さんは、軍人としての高い実績があり、外相としても大陸利権を得てきたので人気が高い。自分の選挙は半ば放置状態で、選挙応援はどこに行っても黒山の人だかり。総裁より人気があった。
その点は床次総裁は気になるだろうけど、まずは選挙で勝つのが大事なので、むしろ宇垣さんとは固い握手って感じだ。こういうところは、政治家同士だ。
選挙全体の予測は、政友会の圧倒的優勢。
外交は安定しているし、満蒙を切り取って経営も順調だし、大陸情勢も落ち着いているし、しかも国内は未曾有の好景気だ。それに賄賂や腐敗も、政友会として見れば綺麗な状態。
唯一の懸念は、すでに予測されている今年の冷害だけど、すでに分厚い支援の準備も謳っている。
また、徹底した根回しによって、党内の結束は固い。政党政治に文句を言いそうな人達の大半も大人しい。流石は原敬、老いてなお抜かりなしだ。
立憲民政党は、対抗するべく貴族院議長で国民の人気も高い近衛文麿を担ぎ出そうとしたけど、近衛は今の民政党では勝ち目がないと考えたらしく、首を縦に振らなかった。
ならばと、平沼騏一郎にも声をかけたらしいが、既に平沼は政友会が調略済みだ。
こうなると元軍人に声をかけるしかないけど、海軍は1930年のやらかしからずっと、政治の表舞台に立とうとしない。そろそろ禊(みそぎ)も終わっただろうと説得したようだけど、それを決めるのは陛下だと誰もが固辞した。
そして陸軍に対しては、迂闊に手を出せなかった。
主流派が宇垣と手を結んだのは民政党も知っていたし、国粋主義者、精神論者が劇物や劇薬なのは良く知っている。そもそも議会政治を大事にする人達が重鎮と中枢にいるから、政治に口出しするような過激な軍人とは相容れない。
政友会同様に民政党にも、右翼の考え、国粋主義の考え、さらには全体主義的な考えの政治家はいるけど、一部にとどまっているし極端な者はいない。
それに民意は、共産主義など左翼は当然として、右翼的な国粋主義、全体主義にも否定的だ。特に、都市部ではその傾向が強い。貧困層の不満は無視できないし、彼らは現状打破による自分たちの救済を求めてはいるけど、極端に右寄りな人達を支持する動きは少数派にとどまっている。
この辺りは、多少はお金を散財してきた結果だと思いたい。
そして右寄りな人達が訴える対外脅威は、ソ連に対しては政友会と陸軍が手を取り合って対処するという事を既に知っている。そしてそれで十分だと考えていた。
満州は、満州臨時政府という中途半端な状態ながら、必要十分を満たした日本の完全な経済植民地だ。内蒙古の東部も同様だ。
中華民国は、中央政府の張作霖政権を支える方向で国際協調が進んでいるし、日本のテリトリーは張作霖政権の支配領域で、その安定が進むなら変える必要はない。
蒋介石の南京臨時政府、南部の広州臨時政府、それに中華ソビエト(中国共産党)は気になるけど、それは中華民国の敵であり、場合によっては日本を含めた列強全体の敵だった。
そして大陸方面以外だと、主な貿易相手である英米との関係はそれなりに良好だ。特にドイツでナチス政権が誕生してからは、イギリスの側から日本に協調を求めてきている。
アメリカのルーズベルト政権は、中華民国ばかりか満州も市場開放しろと五月蝿いけど、列強外交の上で言えばルーズベルト政権の方が頓珍漢な事を言っているだけなので、列強は基本日本の側に付いている。
何しろ、アメリカの無理筋を通したら、自分たちの大陸での立場も危うくなってしまう。
そして日本から見たルーズベルト政権というよりアメリカだけど、私の前世の状況とは大きく変化した。いや、変化させた。
アメリカ国内は反共の声が渦巻いていて、ルーズベルト政権の社会主義的政策の多くに厳しい目を向けていた。スタッフにも厳しい目が向けられ、スパイやシンパもかなりの頻度で炙り出されている。何名か、有力な閣僚やスタッフも、追い出されるかお縄についた。
貿易面で見れば、アメリカから日本への石油の輸入は、機械の整備用油とごく一部の高品質油を少し輸入するだけ。くず鉄の輸入はまだ続いているけど、年々減少中。数年以内に無くなる予定。
私の前世の世界の日本の対アメリカ死亡フラグは、へし折ったことになる。
それに1933年で鳳の大きな買い物は終わったので、機械類の輸入も激減。逆にアメリカは、世界恐慌以後に日本からの生糸の輸入を大きく減らした。
お互い、依存度というか貿易関係の希薄化が進んでいる。アメリカからの輸入品で重要なのは綿花くらい。輸出の方は、その綿花を使った繊維製品が主力。あとは玩具、自転車あたりが日本の主な輸出品でしかない。
アメリカから見ての貿易相手としての日本は、石油もくず鉄も買わないなら正直どうでもいい相手だ。
これに対して、日本とイギリスの関係は、主に鳳がオーストラリアなどで採掘する鉄鉱石の大幅な輸入増加などもあり、日本経済が発展すればするほど関係が深まっている。
それに鳳に関係なく、日本の原料資源の輸入先の大半は、多くのレアメタルを含めて英連邦のどこかだ。しかも繊維製品を作るための原料綿の輸入先はインドで、英連邦も繊維製品の輸出先だ。
正直、イギリスとの関係が絶たれたら、この世界の日本は死んでしまう。鳳グループなど、即死状態だ。
日本の外交が詰んだら、アメリカを無視してイギリスに宣戦布告する事になるだろう。
南雲艦隊は、ハワイじゃなくシンガポールを爆撃しそうだ。
そんな中での、今回の選挙戦だ。
そしてその中で、鳳に資金や新聞以外での選挙協力、要するに国民に人気のある人を出してくれないかという打診が当然のようにあった。
けど、紅龍先生は絶対に出せない。陛下のご進講をしているような人を政治に駆り出したりしたら、西園寺公が何を言うか分からない。その辺りをよく理解してないおバカさんの要請だったから、原敬など政友会の重鎮の人達にきつく言ってもらっておいた。
それ以外で顔が売れているといえば、財閥総帥の善吉大叔父さん、鳳の宣伝もしているマイさんとサラさん、それに私だ。何しろ鳳から政府への莫大な献金は、私のわがままで行われている事になっている。
異世界ファンタジーなら、聖女様真っ青のポジションだ。
凶作対策の莫大な献金についても、政党や政治は関係ないと半ば公言してある。それでも利用しようとしたお馬鹿さんがいたので、政友会と民政党の上の方々に了解を得た上で、徹底的に晒し者にしておいた。
「今回の選挙、順調すぎて慢心してしまいそうね」
「何か仰いましたか?」
「なんでもない。さ、そろそろ、学校に行きましょうか」
「はい、お嬢様」
シズの応答を聞きつつ、それまで読んでいた報告書を置いて、選挙とは無縁の女学校へと今日も通う事にした。
もちろん、慢心したら即死フラグが立つ昭和初期だから、学校で息抜きをしたらまた根回しや密会が待っている。
「学校だけが、今の私の癒しだわ」
「それは良うございました」
「そうかな?」
「はい、お嬢様は女学生。学業が本業ではありませんか」
「そういえばそうだったわね。何だか、自分が学生だって忘れてしまいそう」
「それならば、学校では学業に励まれて下さい」
「ごもっとも。勉強でもして、気を紛らせるわ」
マイさんが既にスタンバっている駐車場への屋敷内での道すがら、シズとのいつもの軽快なトークも今の癒しだった。
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