344 「昭和9年度予算編成」

 2月に入ると、来年度国家予算の審議が本格的に開始される。

 予算成立は3月末になるけど、与野党、陸海軍の熾烈な攻防戦の始まりだ。


 と言っても、そこは根回し民族の日本人。去年のうちに政府予算案が固まった時点で、大筋は決定したも同然だ。突発事態がない限り、細かい詰めの攻防を行うべくそのまま審議が進んでいく。


 そして今年は、特に波風が立つ要素がない。

 犬養内閣は順風満帆。国内情勢は安定。対外関係は良好。余計な出費は最低限。国内は好景気で沸いている。そして好景気が2年続いたので、国内総生産の増大、所得の向上に伴って、税収も大幅に増加。当然、国家予算も大きく増えている。



「今年もどっさり献金するのか?」


 鳳本邸の本館の居間で、お父様な祖父が私に問いかける。他にも大勢の大人達がいて、私に視線を注いでいる。

 雑談ではなく、本年度予算に関する報告を聞いたりする話し合いの場だ。鳳一族のほぼトップ会議で、一族からは私以外に麒一郎、善吉、龍也。虎三郎はこういう時来ないし、紅家の人もいない。

 他に、時田、貪狼司令がいる。私の側近候補たちは、使用人たちの多くと同じく別室待機。セバスチャンは、新入りのイケメンパツキンを教育中。


 そんな大人たちを前にして、私は首を横に振る。そうすると、表情を動かさない者以外は意外そうな表情になった。


「今年はすごい不作なんだろ?」


「うん。だから今年は、不作が見えてから一気に仕掛ける」


「そうなれば、軍人どもに金を取られなくて済みますな」


 貪狼司令が、楽しげに薄い笑みを浮かべる。そしてその言葉に前後して全員が納得した。

 

「幾ら出す? また金で1000万ドルか?」


「ドルは平価切下げしたから、もっと。状況見つつだけど、2000万ドル分」


「流石に多すぎやしないか?」


「私的には、少なすぎるんだけどね。とにかく今年は、東北が冷害で悲惨な事になるの。だからその金を担保に、国債増発してもらって、」


「お決まりの凶作対応か」


「それも勿論だけど、うちが抱えている150万石の備蓄米の政府買い上げをしてもらうの。そして東北を中心にして、食べ物の足りないところにタダでばら撒いてもらう」


「うちと鈴木の備蓄米は、約4000万円分だね。その金で国債を出したら1億5000万円って所だろうから、鳳へのいつもの非難は多少は緩和できる」


 善吉大叔父さんの少し具体的な言葉に、全員が認識を改める。


「そこまで酷くなるか?」


「夢だと一番酷いところで、例年の6割くらいの所もあったと思う」


「6割! どこだいそこは?!」


「え、えっと、酷いのは確か東北の太平洋側です」


「そ、そうか」


 善吉大叔父さんが突然大声出したので驚いたけど、確かこの人は山形出身だ。そして酷くなるのは、私が口にした通り太平洋側。特に岩手が酷かったという記憶がある。


「はい。それに原敬様には、もう内密に伝えてありますから、31年から根回しや準備はして頂いています」


「そうだったね。ところで、農林一号の影響は分かるかい?」


「そこまでは。夢にはない景色だから。けど、夢ではしていない事をしているから、ほんの少しでも緩和されると思う」


「そう願いたいところだ。それに鳳も最大限力を尽くそう」


「まあ、東北は、もはや鳳の縄張りだからな」


 お父様な祖父がそう締めると全員が頷く。

 そして全員を軽く見回す。仕切り直しって事だ。


「で、話を戻すが、概算で予算はどれくらいになりそうだ?」


「ハッ、ではご説明を」


 そう言って、さっきからずっと移動式の黒板の横に立っていた貪狼司令が、「カッカッカッ」と黒板をチョークで子気味良く鳴らしつつ、文字と数字を並べていく。

 そこには、こう書かれた。



 昭和9年度予算 :約32億3500万円


 陸軍費     :約5億3000万円

 海軍費     :約5億8000万円

 時局匡救事業費 :約2億8500万円

(軍事費割合は約34%)



「去年より3億近く増えたか」


「はい。ですが、去年の鳳が多くの関税を納税しておりますので、実質的には4億円近く増えた事になります」


 まずはお父様の確認の言葉が続き、それに貪狼司令が答えていく。


「4億か。今回も国債増し増しだろうが、経済成長率は?」


「現在の概算で、約14%という数字が出ております」


「話は前から出ていたが二桁か。信じられんな」


「昨年は約8%でした。好景気が、日本中に浸透、そして拡大した結果と考えられております」


「今年も伸びるか?」


「間違いなく。総研の早期予測では、15%を超えとの数字が出ております」


「皮算用にならなければ良いがな。それで、インフレは大丈夫なのか?」


 そこは私も大いに気になるところだ。既に資料は幾つか見てはいるけど、最新のものはまだ見てない。


「景気拡大に比例して所得、給与の伸びも大きく、特に問題は見られません。ただ物価上昇は、一部懸念されております」


 「フム」一旦言葉を切ったお父様な祖父の横から、私が首を少し伸ばして貪狼司令を見る。


「ねえ、時局匡救事業って、もう少し何とかならなかったの? 景気も拡大しているなら増額しても良いでしょうに」


 いつ言っても、めっちゃ言いにくい。ニューディールみたいな名前が本当に欲しくなる。


「そうは言われても、三カ年計画で既に決まったものですから、政府としては変えようがありません」


「そんなの増やせるでしょ。海軍の計画だって、好景気で予算が増えたら増やしているのに」


「それは海軍予算自体が増えたので、海軍の連中がその枠内で予算を配分しているだけですので、単体の予算枠ではなんとも」


「それはそうだけど」


「ですが、商工、農林など経済と関わる省庁は、景気対策に多くを投じる予定です。また政府も、予備費を1億円近く確保しております」


「その政府予備費って、だいたいは万が一の出兵に備えたものでしょ。大陸情勢は流動的だから、仕方ないとは思うけど」


「はい。ですが、年度末近くまで何事も無ければ、景気対策などに周ります。現に昭和8年度予算の、余っている予備費は多くが景気対策のテコ入れに投入されております」


 その言葉に、善吉大叔父さんとお父様な祖父が頷く。


「2月くらいから、公共事業計画がいくつも立ち上がっているからね。うちの関係部署も、突然仕事が増えた状態で、大わらわだよ」


「土建と不動産は、鳳でも規模が随分大きくなったからな。どっちも資本金を倍に上積みだろ。それにしても、日本はどこに行くんだ?」


「『所得倍増』『列島改造』でしょ。2年前にお父様達が勝手に使いだしたんじゃない」


「そうだったか? でもまあ、随分前の話だ。あの頃は単なる景気付けの言葉だと思っていたが、実現してしまいそうだな」


「そうだ、じゃなくてするのよ。大きな戦争がない限りは、健全な状態で達成可能な筈よ。それだけお金使ってきたし」


「周りから気味悪がられつつな。おかげで、国家予算も潤沢という事だ。だが、この勢いだと10年かからんな」


「毎年15%の経済成長率が続くと仮定すると、5年ですね」


 それまで殆ど口を開かなかったお兄様が、何となくと言った感じの相槌をうつ。



「あと4年で? 流石に信じられんが、そうあって欲しいな。……だが、それを邪魔をするのが、戦(いくさ)というわけだ。貪狼」


「ハッ。では、国家予算の3分の1を占める、軍事費についてご説明させて頂きます」


 貪狼司令が応え、次へと話が進んでいく。

 日本は平和で好景気なのに、蔑ろにできない話題だ。



__________________


※1934年の史実の予算:

24億8000万円

陸軍費4億5900万円

海軍費4億8300万円

(軍事費割合38%)

時局匡救事業2億3500万円



※史実のGDP成長率(名目GDP):

1930年:△15%

1931年:△7・2%

1932年:4・1%

1933年:9・9%

1934年:9・3%

1935年:6・7%

1936年:6・3%


※当時の経済成長率は資料によって違いがありますが、この物語のたたき台はこの数字を基にしています。

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