323 「ラストエンペラー」

 奉天ヤマトホテルで一晩滞在した翌日、午後に満州自治政府執政の溥儀に御目通りするべく、瀋陽故宮に参じた。

 瀋陽故宮は、奉天の旧市街、古い城壁で囲まれた清朝の古い離宮だ。その一部の内装を整えて、満州自治政府の執政府として使っている。


 執政府と言っても、政府は別の場所でお仕事なので、執政を首相と扱うならば首相官邸になる。しかし清朝最後の皇帝溥儀の住まいで、満州の人が『陛下』と呼ぶように、『仮皇宮』とも呼ばれる。


 奉天ヤマトホテルから車で2キロ程進んだ場所にあり、1キロ四方くらいの古い城壁の真ん中にその宮殿はある。

 広さは約6万平方メートルだそうだ。



「いかにもチャイナな建物ね。私、こう言うの初めてかも」


「玲子様は暢気ですね。今から執政閣下にお会いするのですよ」


 宮殿の正門前で、マイさんと二人して門を見る。

 後ろでシズとリズも似たような感じ。

 見るからにチャイナな建物群。赤い壁と柱に赤みがかった黄色い屋根瓦。その屋根の一部は緑の縁取り。まるでタイムスリップしたか、映画のセットの中みたいだ。

 なんでも、清朝時代の建物で、紫禁城の次によく残された宮殿なのだそうだ。ただし、紫禁城と比べると大きさはかなり劣る。


 なお、私だけじゃなくてマイさんも、鳳一族という事で謁見に加わる。断ろうとしたけど、向こうとしては粗略には出来ないらしい。

 そして私達の衣装は、川島さん達が用意してくれたもの。清朝風のものかと思ったら、意外にも完全な和服。マイさんの事もリサーチ済みらしく、ちゃんと二人ぶん。しかもサイズも、完璧とは言わないまでも十分ぴったり。

 チャイナドレスを期待したけど、まああれは上海で流行り始めた近代風アレンジだから、こういう場に相応しくはない。落ち着いているけど高級な着物が、私たちには相応しいだろう。


 ただし女性用の和服だと、チャイナ風の高貴な人に対する礼、要するにチャイニーズドゲザが難しいわけだけど、公式の場じゃ無いからノープロブレムだという。

 そして本当に無礼にならないのか、などと思いつつ施設内の目的地を目指す。


 そして目指す場所は、なんと後宮の中。「私達囲われてしまうの?」などと頭の片隅で一瞬思ったけど、要するに金がないのが理由だった。住んだり仕事場にする為に手を入れる事が出来たのが、後宮だけなのだそうだ。

 だから後宮と言っても、何か事件の一つも起きそうなチャイナなハーレムじゃなくて単なる住居。優雅な姿の女官も宦官もいない。

 そのうち応接間に当たる部屋で、こう言った私的な御目通りがあるわけだ。


 私達は、その昔ホンタイジが政務を執ったという、崇政殿と呼ばれる大きめの建物を通り抜け、後宮の入り口となる鳳凰楼と呼ばれる3階建ての大きな門をくぐる。

 そうして中に入ると、確かに後宮の中にだけ人の気配がある。人が暮らしている気配だ。

 そして建物の一つ、多分昔々に後宮の妃の一人が使ったであろう建物を改修した応接間に通される。


 その部屋に溥儀の姿はまだなく、伝統的衣装の使用人に案内されるまま椅子へと腰掛ける。

 立ち会うのは川島さん一人で、ワンさん達は後宮の外で待っている。だからシズ達も外で待機だ。

 そうして待つ事10数分。人の気配が近づいてくる。だから川島さんの目配せを受けて立ち上がり、この宮殿の主人への礼を取る準備に入る。


 そして主人が入ってくる瞬間に、頭を深々と下げる。ただし、立礼で良いとの事だから日本風の深いお辞儀をするだけ。映画なんかで見た事のある、チャイニーズドゲザの叩頭礼はしない。

 そのお辞儀は、主人が上座の椅子に腰掛け、そして声をかけるまで続ける。


「よく参られた、お客人。頭を上げられよ」


 意外にも声をかけたのは、主人その人だった。後ろにお付きを従えているけど、御目通りであって謁見などではないから、欧米風の客をもてなす主人というスタイルなのだろう。

 そして頭を上げて視線を正面に向けると、ネットの海で見覚えのある写真より少し若いイメージの顔があった。

 確かにラストエンペラー、溥儀だ。


 その後、しばらくは型どおりの挨拶を交わし、溥儀の口から座るようにという言葉を受けてから、ようやく着席する。


「顯㺭から話は聞いていたが、本当にまだ子供なのだな。時代も変わったものだ」


「はい。本来でしたら、女の身で陛下の前に……」


「良い。朕が会いたいと望んだ。それに鳳には、深い恩がある。本来なら、私の方が頭を下げねばならぬと思っている」


「勿体無いお言葉です」


「いや事実だ。そして今後も期待したい。良いか?」


 偉そうな言葉だけど、まあこの辺りは育ちの関係だろう。ただ、期待されすぎても困る。私は商人の子だ。


「陛下、お答え出来ぬ事をお許し下さい」


 私の言葉で一瞬の間が部屋を支配したけど、それも1、2秒だった。


「……そうだな。そなた等は商人だ。しかも日本人だったな。鳳という名なので、つい大陸の者かと勘違いしそうになる。……一つ戯言を聞いても良いか?」


「なんなりと」


「うむ。そなた等の先祖は、本当に大陸の者ではないのだな」


「我が高祖父が大陸に流され、一時期暮らしていたのは事実です。ですが、日本に先祖を持つ日本人で間違い御座いません」


「……そうか。だが、仮にそなた等の先祖が大陸人であっても漢族になるだろうし、朕にとっては異民族だ。埒のない事を聞いた。許せ」


「滅相もございません」


「しかし、そんな日本人のそなた等が、何故このように動く。大陸の知人縁者たちの為か?」


「一部には、おっしゃられる通りです。ですが、私どもは日本の為に動いております」


「そうか。そうだな、当然であろう。続けて埒のない事を聞いた。ただ、そなた等の働きには感謝しているし、期待もしている。その事を伝えたかった」


 それだけ言うと静かに席を立ち、こちらは最初と同じように頭を下げる。そして音と気配が消えるのを待って、静かに顔を上げる。

 そして小さいけど深い呼吸をする。

 それを見て、脇で全て見ていた川島さんがニヤリと笑う。


「玲子でも緊張するのだな」


「しますよ。って、軽口をするのは後にしませんか?」


「そうだな。宦官どもが見ていないとも限らん。行くか」


「エッ? 宦官がまだいるんですか?」


 ずっと黙って控えていたマイさんが、ようやく口を開く。事前の打ち合わせで、特に語りかけられない限り、私だけが話す事になっていたからだ。

 そして宦官という言葉には、私も強い興味がある。聞いたことはあるけど、実際目にした事がない人達だ。

 そんな私達二人を見て、川島さんが再びニヤリ。


「冗談だ。朝(ちょう)の最後の頃に紫禁城にいた連中はまだ生きているだろうが、ここにはいない」


 そんな少しゲンナリとさせられる言葉を最後にして、溥儀の入る宮殿を後にした。

 そして再び奉天ヤマトホテルへ。すでに午後も大きく回っているし、大連を立った今日の特急は、もう全て通過してしまっている。



「明日の朝出発か?」


「そうなりますね。殿下も同行されますか?」


「そうしたい所だが、そうもいかん。今の私は自由の利かない身だからな。玲子達が羨ましい」


「そうですか。では、吉報をお待ち下さい。それに、帰りにまた寄ります」


「両方とも待っているよ。それより、今日も夕食を共に食べないか」


「私達は構いませんが、殿下は大丈夫なのでしょうか?」


「むしろ、客人をもてなすという事で、窮屈な場所にいなくて済む。私を助けると思え」


「畏まりました。夕食だけと言わず、一晩中でもお供致します」


「一晩中は、さすがに叱られてしまうな」


 そう言って嬉しそうな笑みを浮かべてくれた。

 この世界では、関東軍のおもちゃにもされていないし、宣伝に駆り出されてもいないけど、王族なんてするのはやっぱりストレスなんだろうと思える笑みだった。

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