170 「米価暴落前夜」

1930年の秋、9月には近年稀に見る大豊作が予測されていた。しかも日本列島だけじゃなくて、朝鮮半島でも同様の大豊作の予測だった。


 基本的に豊作は良い事だ。米の流通量が増えて、米の価格が少し落ちる。価格が落ちるのは農家にとって痛いけど、都市住民を中心として庶民は米を安く沢山食べる事が出来る。


 けど、今年は違っていた。近年どころか数十年、下手をすれば百年に一度の大豊作といった状況の予測が、8月くらいから各地から聞こえるようになっていた。

 そして米が豊作という事は、他の穀物も豊作だ。日本列島、豊作祭りだ。

 八百万の神様、今年だけ頑張りすぎだろ。そんなんだから、向こう5年調子が安定しないんだよと、文句の一つも言いたくなる。


 そして、日本列島および日本の勢力圏全体の状況が見える人達の多くは、真っ青になった。

 喜ぶのは米や穀物を安く買い叩けると踏んだ人達だけど、その人達ですら徐々に青くなっていった。


 このまま行けば、史上空前の豊作が待っていた。つまり、米を始めあらゆる穀物の暴落が簡単に予測できたからだ。

 まるで1年前のアメリカのダウ・インデックス市場の暴落のようだけど、この暴落は予測出来るのがせめてもの救いだ。

 そして多少でも対策を立てる事が出来る。


 そして市場と関係者が戦々恐々としていたのが、夏の終わり頃となる。幸いというか最悪というか、日本列島に大きな被害を与えるような台風がやってくる気配もない。

 そんな中、鳳グループの鳳商事を中心に、鈴木系列の各食品企業は、既に活況を呈していた。


 勿論、したいと思ったところで何でも出来るわけではないし、一財閥がするような事でもないし、事前に下手な手出しをして余計な事になってもいけない。

 それでも動いたらダメという事はない。


(ダウの時は、売り抜けの後は傍観したけど、あんな事は一度で沢山。けど私、米価暴落がどんなものだったのかもよく知らないし、米価暴落が何日かも知らないのよね)


 そう、多少の前世の歴史の知識があろうと、腐女子としてこの時代の男子達の事を多少知っていようとも、知らない事の方が多い。それを補填する為、転生してからせっせと勉強と情報収集を行ってきた。


 幸い鳳グループには、総合研究所や各種情報を収集する企業や組織がある。お陰で助かった事も一度や二度じゃない。

 けれども、及ばない事もある。だから動くと決めた以上は、予測出来る範囲で動くより他ない。


「お嬢様、ご懸念でも?」


 9月末日、鳳本邸の私の部屋に来ていたセバスチャンが、少し腰を屈めて椅子で踏ん反り返り休憩中の私に視線を合わせる。だから少し顔を上げるだけで、セバスチャンと視線が合う。


 部屋には、シズ、それにトリアがいるだけ。時田はこのところ鳳商事に詰めている。みんな、豊作飢饉に備えて動いている。

 お芳ちゃんは、米の事だけ関わっているわけにも行かないから、別件でリズに付き添われて鳳ビルに行っている。


「今出来る事への懸念はないわね。強いて言えば、動きたくても動けない事かなあ」

 

「待つのもビジネスです。繰り返しになりますが、鈴木と協力して既に日本各所に備蓄施設を建設しました。買い付ける準備も、商社や各食品系企業が進めております。また、既に値崩れを警戒する地主や業者との契約が、次々に結ばれております」


「諸々で、あぶく銭はどれくらい消えるんだっけ?」


「お嬢様が最初に設定された上限が500万円。そこまでは、最大限の想定をして準備しております。また、先日のオーダーに従い、さらに500万円の追加準備も始めたところです」


 ちょうどレポートを見ていたのか、セバスチャンの後ろにいたトリアが答える。私も重々知っている数字だけど、こうして聞いてみると財閥がドブに捨てる金額じゃない。

 そしてトリアの顔にも、一財閥がする事じゃないと書いてある。

 だから気分を変えてあげる為に別の事を口にする。


「前も言ったと思うけど、500万は状況を見てからね。それより、各地での土建業の状態は?」


「政府の税制優遇政策もあり、土木事業に手をつけ始めている地主がかなり出てきています。加えて、この数年の政府による公共投資、我が鳳グループの積極的な設備投資により、日本各地での建設機運はかなり上向きです。地方及び大都市郊外での臨時雇用は、かなり生み出せるかと」


「正直言いますと、政府にもうひと押しして欲しいところです。いや、愚痴でした」


 セバスチャンが私の意を汲んで口にしてくれたので、かぶりを振る。


「ううん。それは私も思っている。けど、濱口内閣が安易に公共投資を拡大するわけないものね。インフレは確かだし。税制とかの優遇だけでも維持してくれただけで御の字よ」


「オンノジ?」


「ありがたいって事」


「有り難がる事でしょうか? 鳳の献金や提言で動いた上に、政府としては当然の動きと思いますが?」


 中身が合理主義なキャリアウーマンっぽいトリアは容赦ない。けど、私もその通りと思うから、苦笑いしか出てこない。

 そして二人の表情からも、今日はそろそろ潮時だと感じる。


「愚痴っていても仕方ないわね。今日はここまでにしましょう。二人ともご苦労様。事が起きたら忙しくなるから、それまでは十分に英気を養っておいてちょうだい」


「ご配慮痛み入ります。ですが、お嬢様こそ十分にご休息をお取りください。まだ10歳の身では、お身体にさわります。シズさん、くれぐれも頼みますよ」


「はい、セバスチャン様。勿論、努めさせて頂きます」


 セバスチャンが言葉の最後を振り向きながら言うと、扉のそばの小さな椅子に腰掛けて待機したままのシズが、立ち上がるといつもの綺麗で音のしないお辞儀をする。




「で、お嬢は、そろそろ暴落が来ると? 夢に見てないのに?」


 寝室に来ても、同じ話題。この春から本邸にいる時は定番と化しつつある、女子会とも言えない小さな憩いのひと時なのに、辛気臭いことこの上にない。


「そう。市場はもう戦々恐々だし、政府も対策の準備をするだけ、うちも安易には動けず。そもそも米価市場なんだから、他の財閥は市場に任せる動き。それどころか、どうやって買い叩こうか考えているゲスも少なくないし」


「ゲスは言い過ぎ。市場原理でしょ。けど、そこまで酷くなるのかな?」


「多分だけど、半島で生産している連中が、内地に注ぎ込んで来る。半島は、政府の政策で内地に移出する大前提で余分に生産しているから、この流れは止めようがない」


「そうだね」


「お芳ちゃん、何がそうだねなの?」


 自らの長い髪を櫛で梳いているみっちゃんが、不思議そうな表情をする。これが普通の反応。大人でも、専門分野じゃないと似たようなものだろう。

 なお、同じ側近候補の輝男くんはいない。そろそろ男の子を同室に入れるのをシズや他のメイド、使用人が厳しい目で見はじめているから、寝巻きに着替えた後で呼ぶ事はない。それに輝男くんは、夜や夜中に庭でよく稽古をしているのを私は知っている。

 稽古はみっちゃんもしている事が多いけど、今日はもう遅いので、仕事上がりが遅かった私とお芳ちゃんに付き合っている。


「もうすぐ、多分一週間以内に米価が暴落するって事」


「そうなの? じゃあ、おっとう達大変だろうなあ」


 みっちゃんが悲しげに呟く。

 幼い頃、鳳に事実上の身売りをされたと言っても、人それぞれ。お芳ちゃんは捨てられたに等しいけど、みっちゃんは家が貧しいから売られたパターンだ。

 だからこうして家族への情を持っている。


「みっちゃんの家って、どこ?」


「えーっと、東北のどこかです。家を離れた時は小さすぎたから、詳しく知らないんです。大人の人が東北だって言ってました」


 さらに胸に突き刺さる一言。この時代、こんなのばっかりだ。と言うか、私の周りの子供達は大抵似たようなものだ。

 けど東北となると、向こう5年間悲惨な状況が続く。

 東北が悲惨な事になるのは前世の歴史知識で多少は知っているから、色々対策の準備はしてはいる。けれど、いざ身近な人の話が出て来ると、胸をぎゅーっと締め付けられる。


 そう思っても、今以上の事はもうできない。出来る事はしてしまっているか、これからする予定も決まっている。

 それに、私はみっちゃんの実家の事を知らないし、多分だけど知ってもいけない。みっちゃんの家の事は、鳳がかなりの金を渡してあると思うしかない。

 それでも、何かこう叫んでストレスを発散したくなる。ただ、大声で叫ぶわけにもいかないから、別のことへと救いを求める事にする。


「ねえ、お芳ちゃん。総研で、何か明るい話題なかった?」


「えっ? ああ、そうだなあ、明日東海道線で『特急燕』が運行開始するよ。平均時速66キロメートル。東京=神戸間が12時間近くかかったのが、9時間で結ばれる」


「知ってる。他には?」


「それじゃあ、春に騒ぎに騒いだ統帥権干犯問題の大元だった『ロンドン海軍軍縮条約』が、枢密院本会議で可決予定。これにて一件落着」


「ああ、そうか。もう明日から10月か……10月、十月、神無月。……お芳ちゃん、シズ!」


「ハイ、お嬢様」


「は、はいっ?!」


 ピンときた。だから叫んだ。多分この直感は間違いじゃない。だから確信を込めて口にした。


「明日の朝から、米穀市場とその周りの警戒を強化。朝一番で良いから、みんなにも連絡回しておいて」


「はい、畏まりました」


 扉の側の衝立の向こうで控えるシズが、音もなくお辞儀するのが分かる。お芳ちゃんの方は、ベッドを四つん這いで移動してきて、私の目の前にドアップになる。

 淡い光に照らされた白い髪と白い肌、それに赤い瞳が幻想的だ。


「お告げでもあった?」


「ない。これは半分くらい直感。多分3日以内に来ると思う」


「そっか。了解。オーダー承りました」


 そう言って私の手を取り、その甲にキスをする。

 何かの儀式だろうか。


「何?」


「初仕事の験担ぎ。じゃあ、明日は早くなったから、寝るね」


「うん。おやすみ」



 そしてその後、10月1日には動きはなかった。

 しかしさらに翌日、誰もがいつ来るかと戦々恐々としていた米価の暴落が始まる事になる。

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