171 「米価暴落」

「時田、各地の米穀取引所の様子はどう?」


 私は部屋に入って時田を見つけるなり聞いた。

 時田は答える前に私に恭しく一礼する。何しろ、時田は私の筆頭執事だ。そしてその様を、広いフロアにいる人々に見せるのも目的のようなものだった。


「予測より低調です。「米穀統制法」の影響と見るべきでしょうな」


「多少の抑止力くらいにはなっている?」


「それ以上ですな。最低価格とは言え、政府の無制限買入の義務は効いております。ただ、公定価格を政府がまだ決めかねているので、現状下がっています」


「大豊作すぎるものね。それじゃあ、「米穀自治管理法」の効果は?」


「そちらは、現時点ではほぼ見られません。これから自主的に動くところが、見られるかもしれませんな」


「総研の予測通りか。けど、これ以上は無理なのよね」


「はい、厳しいかと。ですが、この惨状を前にしては、二つの法案に文句を言っていた者達も肝が冷えている事でしょうな」



 鳳ビルの鳳商事が入っている区画は、喧騒に包まれていた。

 1930年10月2日、ついに日本の米価市場が暴落に転じたからだ。けど、私と時田が話しているように、恐らくだけど私の前世の歴史とは様相が少し違っている筈だ。


 私の前世の歴史では、米価の乱高下を受けて政府がこの騒動の数年先に「米穀統制法」と「米穀自治管理法」と制定し、さらに戦争中に「米穀配給統制法」、「食糧管理法」を作って、お米の価格を統制した。


 しかもこの「食糧管理法」は、戦後も食料安定供給という錦の御旗の元で維持され、なんと1990年代まで残っていた。制度が廃止されたのも、農作物を買えと言うアメリカ様の外圧によってだ。

 受験勉強で覚えた事を少し思い出す。


 それにしても、米価は江戸時代から変動相場制だ。それが昭和に入っても続いていたものが、大正時代の『米騒動』の辺りから「米穀法」で統制され始めて、戦時で統制が出来上がってしまうと言うのは、時代を象徴しているのだろう。


 それはともかく、米穀取り扱い業者や農家の多くが文句を言いたてた法制度の整備のおかげで、米価の暴落は緩和されている。勿論、鳳が直接何かをしたわけじゃない。仮に鳳単独で、金に任せて暴落を止めようとしたところで、1000万円程度では焼け石に水だ。


 日本の去年の米の取れ高は、約880万トン。豊作が予測される今年は、総研の調査で110%を上回る可能性が指摘されている。

 米価は、ここ数年だと大体1石が30円。1石=140キログラムとして、四捨五入で6300万石。米の取引総額はざっと19億円と、国家予算に匹敵する。実際の数字も、この数字に似たり寄ったりだ。


 そして、豊作の度合いを例年のプラス10%と仮定したら、極端に言うとこの10分の1の約2億円分を何とかしないといけない。けど、そんな極端な事を、一財閥が出来るわけもない。やるなら政府で、政府は最低価格の設定と買取をするという法を通した。


 鳳がしたのは、まずは高く買う姿勢を市場に見せる事。そして国の方針に従って、各所に備蓄施設を作ったり用意した事。加えて、長期保存前提の状態での購入を、名主など生産者に働きかける事。

 硫安やトラクター、乗用車を売り歩いているから、この話は庄屋や名主に夏頃から伝え回らせている。


 備蓄施設は、最大で米だと100万石の備蓄が可能な規模を準備している。倉庫は他の穀物にも適用できるし、少し手を入れれば他の用途にも使えなくはない。

 そしてこの倉庫の管理の為に、倉庫会社や食品会社も大きくした。


 とはいえ、鳳が100万石の米を買うわけじゃない。

 仮に100万石を暴落前の値段で買うと、これだけで3000万円の出費。そしてその程度だと、あまり意味がない。だから、地主が備蓄すると決めた場合に、低価格で倉庫を貸し出す事業を兼ねている。


 そして夏頃から呼びかけている鳳が買い込むコメは、来年もしくは再来年に起きる凶作の対策として籾付きのまま購入予定だ。既に購入契約も進められている。

 この米は売るのが目的ではなく、飢饉が起きれば政府に献納する予定なので、この分は完全な捨て銭になる。だけど、周りには人気取りと思わせておく。

 購入は、既に約束を交わした庄屋相手が中心になるし、市場の様子を見ながらだけど、最低でも10万石、最大で50万石まで買い進める予定だ。


 鈴木の方も、市場の流れに沿いつつだけど、買いを進めている。そして鈴木は米騒動での悪評があるのだけど、その悪名を逆に利用しての上手い動きを見せている。

 流石は、百戦錬磨の金子さんだ。


 さらに私としては、鳳の銀行による困窮する農家限定の超低利での融資、土建業などでの一時的な臨時雇用による収入源の確保、その後の工場建設による労働力吸収など色々と手立ては考えている。

 ただ、思っていたのと様相が少し違っていた。



「ねえ時田、農家の様子って分かる資料ある?」


「はい。取り寄せればすぐにでも。どうかされましたか?」


「農家の動きは少し変というか、私が思っていたのと少し違うというか、違和感というか、とにかく違う気がするのよ」


「(それは夢と違うという事でしょうか)」


 時田の耳元での囁きに頷き返して、さらに目を合わせる。

 そうして10分も待っていると、求めていた資料が、色んなところから沢山もたらされた。

 総合研究所(総研)、新聞、商社、銀行、流通、様々なところから見た情報だ。総研以外の情報があるのは、総研にまだ資料が回っていない分や、総研に回すまでもない資料を時田が持って来させたからだ。

 流石、時田。抜かりなしだ。


 そしてそれを、私自身が見ないといけない。夢、つまり前世との違いが正確に分かるのが、私しかいないからだ。

 それに今日は平日だから、お芳ちゃんは午前中は学校に行っている。私のように簡単にサボるわけにはいかない。


 セバスチャンとトリアは、このフロアにいない。居るのは、時田と常に私の側にいてくれるシズくらいだ。

 簡単に探して見つからなければ、総研に行って貪狼司令にでも指示して探させればいいだろう。

 けど、幾つかの資料を見始めて、ものの数分で違和感の正体に気がついた。


「あー、そういう事か」


「何でございましたか?」


 時田が軽く背を傾けて私に少し視線を合わせてきたので、そちらに軽く視線を向けて資料も突き出す。

 すぐに分かったのは、この体、悪役令嬢のチート頭脳の記憶力や解析能力のおかげだけど、これは私じゃないと分からない事だった。


「農村の雇用状況が、一部だけど少し違ってきているのよ」


「と言いますと?」


「小松が農業用のトラクターを作って売っているでしょ」


「ああ、そう言う事ですか」


 そう言った時田は、すぐに私と同じ答えに行き着いたけど、私は説明を続ける。


「うん。トラクターの方が、牛を飼って小作人を雇うより、安いし面倒も少ないから」


「はい。2年ほど前から売り始めましたが、今年は供給が追いつかないので、鳳の工場でも全力で生産しているほどです。また他社でも、似たような機材の生産と販売が始まっています」


「そっか。色々影響し始めているのよね」


 言いながら軽く腕組みをする。

 そんな私の顔を、時田が多分感心して見返す。


「はい。鳳としては小松にトラクターを売らせ、農家の余剰資金でノックダウン生産の自家用車を買わせると言う玲子お嬢様の作戦は図に当たりました」


「地主は経営者だから金勘定で考えるし、隣の地主よりもって思って、見栄も張ってくれるものね。それに車を買っても、さらに余剰資金もある。その反面で、余剰した小作人労働力を当面は土建業に投入させて、数年後にはうちの工場労働者にって算段だったけど、ここからは加速するでしょうね」


 自嘲込みの笑みを時田にしてみたが、時田の表情は澄ましたものだ。


「その点も盛り込み済みなのでは?」


「多少はね。けど、米価にまで影響するとは予想外だった」


「なるほど。玲子お嬢様がそうおっしゃるのなら、影響したのでしょう。それで、良い方なのですか?」


「うん。多分だけど、私の見た夢よりもほんの少しかもしれないけど、農家が米価の下落に耐えやすくなっていると思う。それと、評判を聞いた、まだ牛を使っている農家は、小松と鳳のトラクターをじゃんじゃん買ってくれるでしょうね」


「そうなると、機械を買いやすくする為、農業の会社化の指導も強めるべきですな」


「うん。あと、うちの銀行から農家、小作への超低率融資もね。けど、土起こし以外で人の手はまだまだ必要だから、他の産業に吸収していくのも問題なのよね。日本の農業に合った田植えや稲刈りの機械は海外にないし」


「それでしたら、虎三郎様の会社のどこかが、農家と共同で研究と開発をはじめておりますぞ」


「そう言えば、そんな報告も見たわね。確か、田植え機と稲刈り機の両方よね?」


「はい。あと、トラクター、耕耘機の方も無限軌道で動く大型ではなく、手押し前提の小型のものを開発し、今年からこちらもよく売れております。何しろかなり手頃な値段なので、自作農数軒が寄り合えば買える値段設定ですので」


「へーっ、そっちは知らなかった。最近、習い事とか溜まっていたから。けど、よく開発できたわね」


「発動機関連は、虎三郎様らが以前から取り組んでおられましたから、それが実を結んだ形です。もっとも、虎三郎様がおっしゃるには、馬力もいらず構造が簡単だから出来たのだそうです。大型車用の発動機となると、まだ稼働率、故障の問題があるなど色々おっしゃっておられました」


(私の知らないところで、色々連鎖反応が起きてるってことね。もっと報告書とか見とかないと、って今は米価か)


「えーっと、話がちょっと逸れていたわね。とにかく、既定の方針通り動いてちょうだいね」


「はい、お任せを」


「うん」



 その後10月2日に起きた米価暴落は、10月3日・4日の各米取引所営業停止へと繋がる。

 そしてその間に、政府は最低価格を昨年度平均の90%に設定。買入の為の臨時予算も、他を削って組んだ。

 それでも米価は下がり、昨年のおおよそ92%まで下落。鳳は30万石の米を買い集め、売却せずに1年間備蓄する事になる。



________________


豊作恐慌:

1930年は作況指数112の大豊作となる。

逆に翌31年は、作況指数90の大凶作を記録する。

米価は1930年で、1929年の約7割、31年で6割に下落する。1933年からは、米穀統制法の効果もあって9割程度に緩和される。



「米穀統制法」:

最低価格による、政府の無制限買入義務。

米の数量と価格を調節し、その流通を統制するため、政府が米価基準を設定して米の売買を行なうことなどを定めた。



「米穀自治管理法」:

過剰米の市場供給制限のため、産地貯蔵させるための法。

ただ、強制力がかなり弱い。



 耕耘機:

日本の小さな水田には、こちらの方が向いている。

それに何より安いので、自作農数家が出し合えば買える程度の筈だ。

大型の農業用トラクターは、この時代は足回りが履帯式もある。

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