097 「中ソ紛争」

 7月半ば、シズと他数名のメイドや使用人、それに護衛をする者達が、先に船で渡米する。

 空からアメリカへ向かう私を、現地で出迎える為だ。

 予定では、シズ達は私の到着一週間前に到着して、先行している時田達と合流して私の出迎え準備を進める。そしてその時点で何かあれば、私の旅行自体を中止もしくは延期する。


 その間、大陸情勢が動いていた。

 「中ソ紛争」が本格的に戦闘へと発展していったのだ。


 満州入りしていた張学良率いる北洋軍閥ではなく中華民国軍は、7月初旬から中東鉄道(=北清鉄道)からのソ連追放を開始。

 これに対してソ連政府は7月13日に、中華民国政府に対して最後通牒を突きつける。元に戻さないと武力に訴える、と。

 しかし張作霖はこれを拒絶。対抗手段として、ソ連側は国交断絶を通告。外交官や商務人員、鉄道員に帰国命令を出す。明らかな戦争準備だ。当然国境には大軍を集結させた。

 そして7月下旬には中ソ双方の軍隊が睨み合い、一触即発となる。それでも戦端は開かれず、互いに軍事力を用いた示威行動が行われた。

 一方で中華民国国内では、反ソ連の市民集会、デモ、非買運動が行われた。


 その間張作霖は、列強からの支援を乞い続けた。

 そして英米は、直接対ソ連とは理由を付けずに、資金援助や一部兵器の売却なども実施。主にコミンテルンを対象として、反共産主義的な政治的発言、外交活動も実施した。

 しかし、近在にして張作霖に一番肩入れしている日本は、自分の権益にまで戦火が及ぶのを恐れ局外中立で動かなかった。

 ソ連が本気になっているのを最も正確に察知していたからだ。

 どうやら水面下では日本とソ連の間に秘密交渉があり、日本が動かなければソ連は満州の日本権益に決して手を触れないと約束したと言われる。




 戦端は、私がアメリカに旅立ってしばらくした9月に開かれた。

 表向きの兵力数は、ソ連軍が陸海空軍合わせて約8万、これに対して満州北部に派遣された張学良率いる北洋軍閥の精鋭が約10万。

 張作霖の兵力は、一緒に移動する家族込みで40万いると言われていたが、北京から南京にかけての支配の為に、動かせるのは張学良に渡した兵力が限界だった。しかも内実は、全く話にならなかった。

 ソ連軍は長い射程距離と大きな破壊力を持つ野戦重砲多数に、こちらも多数の航空機、さらには少数とは言え戦車まで用意したのに対して、貧弱な火砲と僅かな旧式航空機しか保有していなかった。


 ソ連軍はバイカル湖方面、ウラジオストク方面、ハバロフスク方面の三箇所から電撃的に進撃。

 一部で張学良軍は善戦するが、大勢としては各所で惨敗。馬賊や野盗に毛が生えた程度の軍隊ではまさに「残当」でしかなかった。酷い場所では、ソ連軍の姿を見る前に逃げ散ったと言う。


 一方で善戦した部隊がいたのだが、それが悲劇をもたらした。

 その善戦した部隊は主力部隊で、張学良が直接指揮していた。張学良は、意外に軍事的な才能があったのだろう。

 だがそれが、ソ連軍を「ちょっと」本気にさせてしまう。


 ソ連軍は激しい抵抗を示す張学良軍に対して、主力の野戦重砲部隊を並べて一方的な砲撃戦を展開。さらに各所に空軍機による空襲や爆撃まで実施した。

 これほど本格的な戦闘は、恐らく第一次世界大戦以来の事だろう。そしてこんな戦闘を仕掛けられるとは、張学良は予想だにしていなかったに違いない。

 砲撃によるものか爆撃によるものかは不明だけど、張学良は軍を指揮中に司令部諸共粉砕され、そしてその後行方不明になる。

 戦死でないのは、結局遺体が発見されなかったからだ。



 その張学良の事実上の戦死の情報を知ったのは、私も渡米した後の事だった。

 最新情報として、鳳商事などからの情報により聞いた私としては、この時思わず口をポカンと開けてしまった。その間抜けヅラを見ることが出来たのは、幸いなことにシズ達メイドだけだった。


「どうかなさいましたか、お嬢様」


 そのシズが、少し訝しげに私を見つめる。

 そう、これ程この事で驚くのは、前世の歴史を知っている私だけだ。

 しかし衝撃が少し大きかったので、口からポロリと出てしまう。


「張学良が死んだみたい」


「はい、大陸情勢はそのように伝えておりますね」


「うん。でも、私の夢では死なない人なの」


「張学良がですか?」


「うん。どうしよう? また人の運命を変えちゃった」


「お気になさる必要は全く無いかと」


 いつもの涼しげな表情のシズは、やはり口調もいつも通りだ。

 しかし、私としては言葉を続けないと気が済まない。


「けど、人が死んだのよ」


「人はいつか死ぬものです。また、失礼を承知で申し上げさせて頂ければ、逆にお嬢様は数え切れない人を救っておいでです」


「救ったのは紅龍先生よ」


 この時は滞在先のホテルの一室で、幸いというべきか紅龍先生はいない。他の者も同様だ。部屋にいるのはシズと、護衛抜きの普通のお世話をしてくれるメイドの一人だけ。私の醜態を見られたのが、身近な者だけで本当によかった。

 そして部屋にいた二人は揃って首を横に振る。ただその後、口を開くのはシズだ。


「お嬢様がいらっしゃらなければ、夢見の巫女でなければ、紅龍様は何も出来なかったと伺っています。道を示されたのはお嬢様です。そしてお嬢様は、道を示す事で様々な事が変化する覚悟をしておられたのではないのですか?」


「そ、そうね。ありがとうシズ」


「いいえ、差し出口を申しました。お許し下さい」


 いつものように慇懃(いんぎん)に頭を下げるその頭を見つつ、冷静さを少し取り戻した。同時に、今更狼狽えるほどじゃないと自身を鼓舞する。

 張学良だけじゃない。数年前から大陸情勢は大きく変化しているのだから、既に多くの人の生死、運命が変わっている。蒋介石だって、権力を失った上に結婚が伸びている。

 そうして私は直ぐに平常心を取り戻したが、そうも言ってられない人も当然いる。


 一番衝撃を受けたのは、父親の張作霖だった。

 長男の戦死に大きなショックを受け、そして怒り狂って徹底抗戦を命じていた。かくして張学良の戦死で引っ込みがつかなくなり、双方の戦闘は激化する。

 普段軍閥とは、少しでも形勢不利なら逃げ散るものだけど、この紛争ではかなり激しく戦ったという。

 けれども現場司令官を失い、もともとまともな軍隊でなく、しかも重装備のない中華民国軍に勝ち目はなかった。満州入りしていた張作霖の奉天軍閥は、壊滅的打撃を受けて北京へと敗走。ソ連軍は、ソ連に服従したコサック兵を用いて、一部で包囲戦を行ったと言う。

 かくして10月には、紛争はソ連の一方的勝利で収束する。


 なお、張作霖の軍が本来の拠点の奉天に逃げ込まなかったのは、関東軍が戦火を恐れて南満州鉄道沿線に入れなかったからだ。

 そしてその影響で、北京に逃げられなかった者達が、さらに満州南部各地に散り散りとなり張作霖軍閥の南満州での統制は半ば崩壊してしまう。



 そして紛争の結果、中華民国内では張作霖の権勢が失墜した。

 張作霖自身は、張学良という彼から見て有望な後継者を失って意気消沈。

 しかしそれでも、国家元首の地位とそれに付随する国際的地位に固執する。だから北京と南京の維持に汲々として、自らの軍閥の拠点である満州南部すら疎かにするようになっていく。

 日本としては、半ば願ったりな状態だ。

 その後、中華民国とソ連との間で11月にハバロフスク議定書を交わすが、交渉で国民政府は言を左右にする「チャイナルールな外交」を展開して、政治的には何も解決しなかった。


 一方で中華民国国内では、張作霖が積極的に中央政治に関わらなくなったので、蒋介石が南京を基盤として盛り返していく。

 だが張作霖が失脚したわけでもないし、列強は張作霖を中華民国の元首と認め続けた。そして列強の支援も続いているので、張作霖の軍事力も経済力というか資金力も維持され、蒋介石が国の実権を握ることはできなかった。


 日本の田中義一内閣も、ソ連に喧嘩を売ったのは悪手だが、張作霖を見限るまではしなかった。張作霖については、彼が中華民国の元首であり妙な動きをしない限り「神輿」として担ぎ続ける事を決定。

 その方が、当面ではあっても日本にとって利益があると考えられたからだ。


 また一方では、張作霖の勢力は大きく減退するも、中華地域の分立状態が張作霖の相対的な優位で当面固定化されたと日本では考えられた。

 この為、陸軍の「統制派」と呼ばれる中堅幹部将校達を中心として一部に起きつつあった「対支一撃論」は一旦は収まり、陸軍全体として対ソ戦備の強化で意思統一されていた。殴りつける必要もないと判断された結果だ。

 それに、軍閥相手とはいえソ連の力を見せつけられた以上、日本陸軍としては大陸よりソ連への備えと対応が第一だった。


 一方では、中華民国を一応は牛耳っている張作霖が弱すぎては話にならないので、張作霖軍閥に軍事支援を行うと同時に、多くの軍事顧問を送り込む。

 目的としては、近代的な軍を作らせると同時に日本がコントロールしやすくする為だ。

 そしてソ連に対抗する為中華民国を強化するので、列強各国も取り敢えず日本の動きを支持。

 私から見れば少し奇妙な状態のまま、大陸情勢は一応の沈静化を見ることになる。


 それが1929年内の大陸情勢の顛末だった。


________________


統制派

大日本帝国陸軍の派閥の一つ。当初は皇道派も一緒だったりと、意外にカオス。

時代が進むと、国家社会主義的な「高度国防国家」に向かう。

そして中心となる永田鉄山が相沢事件で殺害されたのを切っ掛けとして瓦解。




対支一撃論

1920年代は少し穏便。

この対案となる「対ソ戦備」の対立、「南進(支那)」か「北進(対ソ)」かの対立で永田鉄山と小畑敏四郎が袂を分かった。

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