078 「災害対策」
昭和4年(1929年)が明けた。
明けてすぐに、私の執事でありフェニックス投資信託の事実上のボスである時田は、抱えている膨大な株の売却指示のためアメリカへと渡った。
時田とは、夏のうちに現地で再会予定だ。
一方の私は、日本での仕事に精を出す。
私はまだまだ幼女なのに、何故か仕事をしている。もう、一族の誰も私が鳳一族や鳳グループの事で口出しするのを不思議に思わなくなっていた。
それどころか、それが当たり前と思っている。
子供を働かせている事に色々思うところがあるだろうけど、それはそれ、的な考えで動いている。
「お兄様が恋しい」
「何をおっしゃっているんですか」
私の心からの言葉にシズの容赦ない声。
ジト目で見てやるが、白い目で見返された。
「えっ? いや、子供として親とまでは言わないけど親族の温もりがちょっと欲しいなあって思っただけよ。いや、マジで」
思わず前世言葉になる。
シズ相手だともう、取り繕う必要もないので気楽でいいのだが、年を増すごとにシズの私への態度がぞんざいと言うか適当になって来ている気がする。
それはともかく、私もシズもそんな話し方なように、今日も今日とて私のもう一つの部屋、実質的に私の仕事部屋となっている方の部屋で、せっせと働いている。
何をそんなにしているのかと言うと、「これから起きる」天災への備えだ。
1930年は豊作飢饉、31年は東北・北海道で大凶作、32年も凶作、33年はまた豊作飢饉、そしてトドメの34年の東北大凶作が待っている。
米の価格は激しく下がり、東北を中心にして農家は酷い困窮に喘ぐ事になる。
さらに信州、南東北、北関東など日本各地の重要な収入源である繭(生糸)は、29年の大恐慌で海外需要が激減。そして35年にはアメリカでナイロンが発明され、36年からは今までパンティストッキングの材料とされていた絹の輸出が壊滅的に減って絹は大暴落。これで養蚕農家も壊滅してしまう。
どこかの誰かが『日本には米と繭しかない』と言ったが、その二つが酷い有様になるのだ。
これこそが日本にとっては大恐慌に等しい。
しかも東北は、1933年3月9日に大きな津波が起きた三陸沖地震がある。
地震はそれだけではなく、43年の鳥取地震、44年の東南海地震、45年の三河地震、46年の昭和南海地震、48年福井地震という大地震が連続して控えている。能天気に大戦争などしている場合じゃない。
三陸沖以外の地震は起きるとしても10年以上先だけど、知っているのに対策ゼロというわけにはいかない。特に33年の地震までもう4年しかない。
しかしその前に、豊作と凶作の壮絶なコラボを少しでも何とかしないといけない。
これが日本全体が悪い方向に向かった大きな原因の一つだからだ。
幸いというべきか、曾お爺様に何年も前に話していたおかげで、「米穀統制法」と「米穀自治管理法」が去年、1928年の秋に公布された。
私の前世なら「米穀統制法」は1933年、「米穀自治管理法」は1936年成立だ。内容は、前者が米価の安定、後者が一定数量の米の強制貯蓄を生産者側に課す法律になる。
そしてこの法案が通った背景には、私がして来た事、してもらって来た事が、政治に少し影響していた。
日本の工業化、産業化が、私の前世よりほんの少しだけ先に進んでいるので、農業従事者以外への食糧安定供給と、農工間の格差解消を行うという方針が政府に認められたからだ。
しかし、1924年、25年あたりの不作と、「米騒動」が政治家達の頭の片隅にあったのは間違い無いだろう。
ただこれらの法は、すぐにも米穀業者の反感を買ってしまった。何しろこの時代の米は、江戸時代同様に相場で値段が決まる。それなのに政府が、米の供給高と需要高を一致させて高い水準で米価を維持しろと言っているのだ。
だから、この時点での日本で、これ以上の法律は難しい。
米穀業者より遥かに強い農協でも作らないと、特に貧しい農民を守るのは無理だろう。
そして当時日本の生産高の半分以上を農業生産が占めており、国民の多数も農民なので、可能な限り農業生産は守らないといけない。
けど、できる事は限られている。
政府による固定価格でのコメの買い上げや農協の話をしてみたけど、曾お爺様、お父様な祖父に話した時点で止められた。
完全な価格統制は政治的に無理。そもそも社会主義的で危険と取られる。農協、農業協同組合についても、緩やかな組合はともかく強力な組織は似たようなものだった。
それなのに、第一次世界大戦以後の政財界は農業を軽視しがちだ。声高なのは、食料自給率の向上や農業生産量の拡大くらい。
主な理由は重工業化の進展を推進、推奨しているから。いずれ農業生産、農業人口が他の産業に変わっていくと予測しているからだ。
そして政府としては、これから縮小、衰退する分野に安易に国費と政治の努力を傾ける気はない。
だだ、鳳も大きな事は言えない。
産業振興として重機やトラクターの開発と生産をしていたけど、それが28年辺りから徐々に普及し始めていた。
硫安を売り歩く時に、営業マンにカタログ持たせたり試乗会をしたりと、鳳が積極的に営業した結果だ。
そして地主や多少裕福な自作農から見れば、トラクターとそれを扱う労働者にかかる経費は、たくさんの小作農と農業用の牛馬を維持するより安くつく。しかも文句を言う者も激減する。
いっそのこと、自分達だけで農作業の多くが賄えてしまう。
だからかなりの勢いで、半ば鳳系列となった小松製作所で作る、アメリカに比べると随分小型のトラクターがかなりの勢いで普及し始めていた。
それでも小麦栽培と違うので、水耕稲作には人出が必要だけど、十分にお釣りがくるらしい。そのお釣りで、うちがノックダウンしたり輸入販売する車の売れ行きも好調だった。
こちらは生活の為ではなく他者に「おらが車」を自慢する為だけど、だからこそ近所、近隣への対抗意識が出て売れ行きは良い。
国産車も、小型乗用車の量産まであと少しだ。鳳がノックダウン生産以外にも産業車の開発に力を入れている一方で、鳳ががっつりテコ入れした松田はオート三輪の開発と生産を進めているし、うちとは関係のないダット社も四輪を開発中だ。
一方のブルドーザーを始めとする重機だけど、鳳が小松製作所で輸入品を見本として作らせた重機が少しずつ納入され始めていた。小松にはまだ足りない技術もあったらしいけど、虎三郎大叔父さんが中心となって色々している鳳でカバーもしたので、早期の量産に漕ぎ着けたそうだ。
そしてブルドーザー1台で100人分の仕事をすると言われるので、人夫の需要が減って建設業者からは大変好評だ。目ざとい業者からは引く手あまたで、小松では需要に応えられないからと悲鳴があがったので、ジャンジャン設備投資の金を渡していた。
一方で重機は雇用の減少になると言うので、政府の方からは今ひとつ受けが悪い。まさに、『彼方を立てれば此方が立たず』だ。
それでも公共投資は雇用の拡大になるので、それなりに政府からの受けも良かった。何しろ政友会への献金だけでなく、政府予算への献金までしている。そうでなくては困る。
そうして行ってもらったのは、護岸整備。特に鳳の大学と総合研究所で研究させた資料を見せて、入り組んだ海岸地形での津波の危険性を訴えた。
それでも大規模には無理だったが、幾つかの危険な場所での試験的な大規模堤防の建設が行われている。特に、政府も被害を受けたら大変だと認識している釜石での建設は重視された。
これらは31年には完成予定との事なので、防災の大切さを教えてくれる事だろう。本当は全ての海岸にしたいけど、ない袖は振れなし、鳳が勝手にするわけにもいかない。
だから啓蒙活動という形で、津波の恐ろしさを伝える活動を政府にも各行政にもしてもらっているのだけれど、効果は芳しくないとの事だった。
また一方で、公共投資という点で、重要な社会資本となる舗装道路建設を訴えてもらってみたけど、お前らも原敬と同じなのかと言われただけだった。
開発の遅れている東北開発が中心という事で、まだまだお元気な原敬が妙に親身になって支援してくれたけど、それも裏目に出てしまっていた。
しかし鳳としては、原敬など今まで疎遠だった東北の政治家、一部軍人とつながりが深まったのは収穫と言えるだろう。
何しろ鳳は、一応長州閥で旧賊軍の勢力圏の方々とは疎遠だ。
そして鳳としては、さらに先を見据えた動きをしないといけなかった。その為の社会資本の整備だからだ。
「春になったら、関西に行きましょう」
「春休み中にですか?」
「ええ。行くのは関西だけじゃないけど、鳳の地盤って場所と、関東以外の鳳が手を出した会社を一度見ておきたいの」
「しかしご隠居様は、もうあまり外出されるお年ではございませんが」
「手を出した相手が相手だから、知り合いが多いって言う虎三郎大叔父様に一緒に行ってもらうわ。まあ、私の顔見せもあるけど」
「では、鈴木様にも?」
「そうね。一通り会う約束取り付けてくれる」
「畏まりました」
シズが恭しく一礼する。
これで私の春の予定は決まりだ。
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米穀統制法
売買に際し米価の最高価格及び最低価格を定め、米穀の輸出入を許可制とする法律。
米穀自治管理法
管理委員会が定めた一定数量の米の強制貯蓄を生産者側に課すことで過剰米の統制が行う法だ。
その上で公定の最低価格を割る場合は産業組合が自治的に過剰米を統制する仕組み。
米騒動
1918年米騒動。
1918年に日本で発生した、コメの価格急騰にともなう暴動事件、米騒動。
鈴木商店がかなり酷い目に遭っている。
まあ、教科書なり見てください。
原敬と同じ
原敬は利益誘導政治家で、郷里(岩手県)を中心に道路などの開発に力を注いだ。
財界から賄賂の金は求めるが、大半はそうしたものに使ったらしい。
だが国の金をあまり必要ないものに公共投資するので、「そんな道を作って誰が使うのか?」と責められたと言う。
原敬は1856年生まれなので、1929年だと73歳。
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