034 「蜘蛛の糸」

 その年の一月、紅龍先生の名声がさらに高まる事件が起きた。


 この時の首相加藤高明が、風邪を拗らせて肺炎を発症したのだが、鳳製薬が帝大に強引に提供していたペニシリンのお陰で事なきを得たという事件があったのだ。

 時を同じくして、秩父宮雍仁親王、徳川尾張侯爵など何だかいやーな予感のするやん事無き人達が、鳳が開発した新薬に関して改めて好意的な発言を行った。

 この人達は、それまでも鳳の新薬に関して流布に努めていてくれていたのだが、誰が絡んでいるかは言うまでもない。

 「あの」西田税だ。

 日本一の革命児も、たまには役にたつらしい。


 そしてこの一件が、マイナー新聞な鳳新聞だけでなく大手新聞各社の手によって世に広く知らせられる。大正デモクラシーな時代の中で、既に新聞が大きな影響力を持つようになっていたから効果は絶大だった。

 しかも合わせて、ここ2年ほどの鳳製薬、いや鳳紅龍という無名の研究医の画期的な発表を、帝大(東京帝国大学)と日本の医学会だけが故意に無視しているという話が露見した。

 さらにこの件は、紅龍先生や北里柴三郎達が、積極的に翻訳した論文を海外に発信し、さらに反応した一部の海外の医者や医療関係者が高く評価した話がようやく日本国内にも伝わる事で、国内が大騒ぎとなった。



「で、ここで何してるの?」


「ん? 見て分からなければ、聞いたところで分かるまい。ん、うまい!」


 また紅龍先生が、私のおやつをモリモリ食べている。

 それよりも、聞かなくても理由は分かっている。

 ブン屋、報道関係者が、紅家や鳳病院、鳳大学に張り込んでいるので、本家の本邸に逃げ込んできたのだ。ここなら敷地も広いし、誰も入れる事はないので、取り敢えずの巣篭もりには最適だ。

 だが、分かっていても、一言言いたくなる。何しろ私のショートケーキを食べているのだ。


「こんな所にいないで、帝大前で立ち上がった民衆の皆様の前に行ったらどうなの? みんな紅龍先生の味方よ」


「冗談ではない。玩具にされるだけだろうが。それに群集ほど怖いものはないぞ。それくらい覚えておけ」


「知ってるわよ。紅龍先生が一言煽れば、帝大を物理的に壊す事だってできるんじゃない?」


「お前、流石にそれはやりすぎだろ。……まったく、子供は容赦ないところが怖いな」


 お互い本気にしていないが、言い合っている事は悪役同士に似つかわしいかもと思う私がいる。

 そして私の口から紡がれる言葉は、あまり私らしくなかった。正確には、前世の私ではこんな事は間違っても言わない。鳳玲子、この体の主(あるじ)が言わせているような気がする。

 そんな気がしたので、体の精神衛生のために言っておくことにした。


「良いじゃない。鳳は、閥族、長州閥、華族、成り上がり、財閥、守銭奴とか散々言われてきたんだから。たまには言う側に立ったって」


 その言葉に紅龍先生が、「フッ」と苦笑して肩を竦める。処置なしとでも言いたいのだろうか。

 しかし悪い反応じゃない。


「確かにそうかもしれん。その上私などは、七光り、脛齧り、穀潰し、経歴詐称、ヤブ医者、頭でっかち、傲慢と加わるぞ。そして鳳の家の者は、その程度の嫉妬からくる戯言を、そよ風のごとく聞き流せ」


(そこまで言われてたんだ)


 思わず同情の視線を向けてしまうと、嫌な顔をされた。


「いや、そこは笑い飛ばしてくれないと、私の立つ瀬がなかろう。それと、いずれ財閥の上に立つお前への心からの忠告だぞ」


「はーい、わかりましたー」


「幼女の振りをして誤魔化すな。まあ、玲子が表に出るまでまだ10年以上ある。それまでに心を鋼のごとく鍛え上げ、心身ともに守ってくれる側近を揃えるんだな。私の見るところ、鳳の家の者は、側近を見つけるのと作るのが下手くそだ。この私のようにな。・・・何、目を丸くしている」


「あ、いや、それだけものが見えているのが、ちょっと意外で」


「だから、大人を舐めるな。それとだ、見えるのと出来るのは、近いようで荒れ狂う大河を隔てるほど遠い。

 あと、幼いお前を教え導く側近を見つけろ。特にお前は父母がいないからな。人は一人では決して育たない。どれほどの天才、秀才だろうとも、一人で歩いていると何かが欠けているものだ。

 と言っても、こうしてちやほやされるようになって、ようやく分かった事だがな」


(妙に色々喋るのね。今回の件で、何か思うところでもあったのかな?)


 そう思いつつも口から出たのは、別の言葉だった。


「紅龍先生は、私の導き手になってくれないんですか?」


「私が? 有り得んな。今の話での失敗作が私だぞ。それに蒼家と紅家は、深く交わらないのが習わしとなっている。多少は風通しを良くできればと、思いはするがな」


「そうですか。じゃあ別口を探します」


「そうしろ。ちょうど、その導き手の一人が来たぞ」


 紅龍先生は大柄なので、窓の外が座っていても見えるらしい。

 そうしてすぐにも玄関ホールから声が響いてくる。


(導き手って? 鳳の誰か?・・・あ、お兄様だ)


「そうだ。お前が何故かお兄様と言う龍也だ。あれほどの武士(もののふ)は、この日の本にそうはおらんぞ。眉目秀麗にして質実剛健、頭脳明晰にして文武両道、清廉潔白にして勇猛果敢。場合によっては、腹黒い事も厭わない肝の太さ。個人としての度量もあって、性格も申し分なし。その上、お上にまで名を覚えていただく程の武功まで挙げているのだからな。そしてお前を実の娘のように思い、一族の宝として大切に想っている」


 ペラペラと私のお兄様を褒めちぎる。

 そしてそれは正しいのだが、私が言いたいことは別だ。


「多少言葉が過剰かとは思うけど、それだけ他人の事が分かって、自分の事の分析も出来ているのに、どうして今まで・・・」


「言うな。理屈ではないのだ。魂が求めるから私は私である。そして玲子の言葉を最初に聞いた時、私は運命を感じた。だから私から接近し、根掘り葉掘り聞き倒した。だから、地獄に落ちるのなら私の方だ。お前は鳳を導き、お前自身の明日を開け。そして思い出したら、極楽から蜘蛛の糸で私を掬い上げてくれれば良い」


(あ、『蜘蛛の糸』は、もう世に出てるのか)


 紅龍先生が、言葉の最後に芥川龍之介の小説を揶揄したのを思い出していたが、それは私にとっては少しばかりの現実逃避だ。

 こんな事を言われるとは思いもよらなかった。

 多分だが、知性だけが早熟し過ぎているように見えるであろう私に、子供相応に振る舞えとでも言いたいのだろう。


「分かった。紅龍先生を助けられるように、精々善行を積んでおくわ。けど、紅龍先生は結果として沢山の人助けるんだから、蜘蛛の糸って事はないでしょう」


「そうかもしれん。だが、そうした慢心が失敗をもたらすものだ」


(うん、良く分かる。死亡フラグってやつだもんね)


「そうね。けど、私達は世間の悪役で、慢心は悪役の基本よ」


「フッ、そうかもしれん」


「やあ・・・何を、してるんだい?」


 そう言って、何故か二人してそれぞれが思う悪役の笑みを浮かべたところを、部屋に入って来た龍也お兄様が見て不思議そうに首を傾げていた。



 なお、帝大を囲んだ民衆の騒動の顛末(てんまつ)は、帝大医学長の引責辞任と謝罪、新薬の普及に努めるという謝罪会見により幕となった。

 相対的に鳳の名、特に鳳紅龍という今まで埋もれていた稀代の天才が世に出る事になる。


 もっとも、帝大を嫌っている紅龍先生と恩師と仰ぐ北里柴三郎先生は、意気投合して祝杯を挙げたのだそうだ。



_________________


加藤 高明 (かとう たかあき)

日本の外交官、政治家。外務大臣、貴族院議員などを歴任。

第24代内閣総理大臣。

1926年1月28日。肺炎をこじらせ倒れてから僅か6日で死去。

1860年生まれなので、肺炎で亡くならなければ、もう少し長生きしただろう。



ペニシリン(追記)

第二次世界大戦において、過半を供給した製薬会社がファイザー社だそうだ。



蜘蛛の糸 (くものいと)

芥川龍之介の児童向け短編小説。芥川龍之介のはじめての児童文学作品で、1918年に発表された。

児童文学だが、おっさんが読んでいても構わないだろう。

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