第12話 ●●病 ~その1~
「そうだ京都、行こう」
奥田菜月は突然そんなことを言い始めた。まさかこれから二人で旅行するとでも言うつもりなのだろうか。あともう少しで八月になろうというこの時期に、盆地の京都はさぞかし暑かろうに。
放課後、急に不登校対策委員会の事務所に呼び出されたのだけれど、奥田の雰囲気からすると思いのほかどうでもいい要件のようだ。
「っていうわけで明日から私、一人旅します」
なんだ一人旅か。そう思っているとさらに付け加える。
「不在となるんでよろしくね! 小池君!」
「はい?」
よろしく? 不在?
さてはてどういうことだろう? 早く詳細な説明を求めたい。
「京都に用事があるので明日から七日間、不在となります! なので不登校対策委員会の運営よろ」
よろ、と言われても困る。そんな簡単に「はい、わかりました」と答えるわけにもいかない。
「いや、そもそも正式な委員じゃないんだけど。ましてや委員会の運営だなんて……」
そう、不登校対策委員会の正式な委員というわけではない。これまで委員会の仕事をこなしてきたわけだけれど、それは奥田に頼まれてしぶしぶ手伝っていただけのことだ。つまり助っ人みたいな存在というべきか。そんな人物に委員会の運営を任せてしまうというのはいかがなものだろう。
「ダイジョブ! 小池君ならできるって」
「ははあ」
あまりに軽々しく言う奥田に対して唖然としてしまう。そんなことは正規の不登校対策委員に頼めばいいではないか。すると奥田は見透かしたようなことを言う。
「残念ながら他の委員ちゃんは今の時期、多忙で忙しいらしくてね。小池君しかいないんだよねー」
「そんなこと言われても……」
ん? 多忙で忙しい。表現が二重では?
という風に思っていると奥田は。
「違和【感】を【感】じました?」
なんて返してくる。相手の考えていることを察してわざと言っているところが何とも奥田らしい。
「はいはい、まさにそれ。違和感を覚えたよ」
「わっ! 二重表現警察だあ」
「二重表現という【犯】罪を【犯】すと逮捕ってか」
と、僕にしてはノリのいい発言に心を良くしたのか、奥田は手を叩き、はしゃぎ始めた。
すると急にしゃがみ、両手を床につける。ぐるりとその場で前転し始めた。全く何がしたいのだろう。
「【前】に【前】転」
「体を張ってボケるのは良いけどさ。怪我しな……」
急に事務所の片隅で前転し始めるので、ぶつけて怪我するなよと言いかけた時にはもう遅かったようだ。
「【後】ろに【後】転」
と、言いながらぐるりと後ろへ回転した時、近くにあった棚に頭をぶつけた。全く言わんこっちゃない。鈍い音が事務所内に響き渡る。
そんな【被】害を【被】った奥田に声を掛ける。
「おい、大丈夫か? 【後】で【後】悔しても遅いぞ」
こんな状況でも奥田のボケ魂は尽きることなく。
「頭痛でお腹がゆるい」
「それはただの胃腸風邪だな」
さすがに失敗したボケに寂しくツッコミを入れることしかできなかったよ。「いや、そこは【頭】【痛】で【頭】が【痛】いだろ」と元気よくツッコミを入れるのが情けだったかもしれないけれど、そんなツッコミ魂はない。
奥田は頭をさすりながら最後の力を振り絞り言葉を発する。
「旅【行】に【行】く」
何とかオチがついたところで閑話休題。
奥田いわく旅行している間、不登校対策委員会の運営をして欲しいのだとか。これまでやってきた不登校生徒のケアといった実務ではないらしい。
「引き受けるかはさておき、委員会の運営って具体的に何をするんだ?」
「不登校対策委員会の管理職としての仕事をお願いしたいと思います」
「管理職だなんて実務ですら数件担当しただけなのに、そんな人がやれる業務なの?」
「その辺りは安心してください。大丈夫。むしろ実務よりも管理職の方が業務は簡単なんです。まず委員会本部から送信されるメールをチェックします。不登校生徒の情報が送られてきていたら、対象地域の委員に連絡を取って対応の依頼をするだけですので」
確かに言う通りこれまでやってきた業務、つまりは見知らぬ不登校生徒の家に訪問することに比べればそれほど難易度の高いものではなさそうだ。パソコンでチェックするだけならそんなに手間もかからないだろう。それなら引き受けようかと思ったけれど、いや少し待てよとふと思う。
「そもそもそれだけの業務なのだったら、旅行先でも奥田が対応可能じゃないか?」
「個人情報のためこの専用のパソコンでないと対応NGなんです。毎朝八時半に一回、パソコンのチェックをすればいいです。お願いできませんか?」
時代はリモートワークが推進されつつあるというのに、こういうところは少しアナログではないか?
「まあ、そういうことなら仕方がないね。わかった。やるよ」
「よっしゃー! 京都観光楽しむぞー」
そうか、忘れていたけれどこの人、旅行するのだった。不登校対策委員会の出張みたいな感じであれば仕方がないと思えるけれど、完全に個人の予定で、しかも観光ともなれば自分が引き受ける必要もなかったかもしれない。
「【後】で【後】悔しても遅いですよー」
「お、お前って奴は……」
あっかんべーをしながら言うその姿は最高にうっとうしいことこの上ない。頬っぺたをつねってやりたい気分だ。
「いはいよぉ~。いっはらないでぇ―」
というか、もう既にしていた。
それからというもの奥田は態度を改め、いたって真面目に不登校対策委員会の管理職らしく引き継ぎを行った。パソコンのIDやパスワード、委員の名簿の場所、連絡先など業務をするうえで必要となることを三十分ほどかけて伝える。
「まあ、ざっとこんな感じですね。大体わかりましたか?」
「うん、まあやることはわかったよ。もし何かイレギュラーなこととか、わからないこととかがあったら奥田に連絡すればいいよな」
「えっ? 旅行中は私、一切電話取りませんけど」
いたって真顔。「何言ってるんですか、あなたは」といったように当然のごとく平坦に答えた。一瞬、こちらが間違ったこと言ったかと思ってしまう。けれどそんなことはないだろう。
「旅行中は連絡取れないの?」
「取れないというか、正確には取らないです。当たり前じゃないですか。プライベートの時間になんで仕事の電話をうけなきゃいけないんですか」
その考えに対して一つ二つ思うこともあったけれど、もうこの際どうでもいい。電話に出ることを強要するのも面倒くさい。もうそういう時代なのかもしれないと思うことにした。
「わかった。連絡しないようにするよ。確認だけどやることは朝にこの事務所に来てメールのチェックと依頼があったら委員への実務の割り振り、そして対応依頼の連絡だけでいいんだよな。他には何かあったりするのか?」
「そうですねー。あっ、最重要業務がありました。言うのを忘れるところだった。危ない危ない」
「まさか面倒なことじゃないだろうな」
最重要業務? 本来ならそれを最初に話すべきだろう。なぜこちらが聞くまで言い忘れているのだろう。全く困ったものだ。
「安心してください。大丈夫です。それほど面倒なことじゃないと思います」
「ふうん、そう」
「旅行中、タイムラインに投稿するので『いいね』押しといてください」
「思いのほかどうでもいい仕事だった!」
絶対に『いいね』なんて押すものか。
事務所の窓から外を眺めると、空は鮮やかに橙色に染まっていた。ザ。夕暮れという感じの光景だ。高層ビルだからこその眺めだろう。オフィス街に鮮やかな光が反射してきらきらとこちらを照らしていた。
「さてそろそろ帰ろうかな」
「え、あっはい。そうですね」
事務所の明かりを消し、部屋を後にする。扉はオートロックのため鍵を閉める必要はないようだ。
「私、鍵を返してくるのでここでお別れということで」
「ああ、そうなの」
そういえば事務所の鍵をどこで手に入れるかを聞いていなかった。
「鍵は一階の受付の人に言えばもらえます。不登校対策委員会の事務所の鍵をくださいと言ってください」
「それだけでいいの? そんな簡単に鍵をもらちゃうのやばくない?」
セキュリティ、ガバガバである。偽ってしまえば誰でももらえるというのはいかがなものか。
「最後まで聞いてくださいよ。続きがあります。不登校対策委員会の者と名乗ると受付のお姉さんが『合言葉は?』と言うはずなので『ひらけごま』と言ってください」
「ひらけごま、ねえ」
現実の世界で合言葉を聞かれる機会はこれが初めてだ。ましてや合言葉が『ひらけごま』だなんてありきたりな感じもするけれど、それでも不思議とワクワクするものがあるではないか。
「するとお姉さんはもう一度『合言葉は?』と言ってくるはずなので、すかさず『おびゅんびゅん』といいます」
明日になると忘れてしまいそうなので、急いでスマホにメモしておく。ひらけごま、おびゅんびゅんと打ち込む。
「ようは合言葉を二つ言えば鍵を受け取ることができるというわけか」
二段階認証というやつだろう。いや、それはまた違うか。そんなことを考えているとどうやらまだ続きがあったようだ。
「いえ、それだけではセキュリティは万全とはいえません。誰かが聞き耳を立てている可能性だってありますから」
「なるほど確かに」
「二つ目の合言葉を言い終わったら、お姉さんがフリーズするので、三秒以内に『上、X、下、B、L、Y、R、A』と……ふふふ、すると壁にめり込むので……ふふふ」
忘れないようにスマホに入力する。上、X、下、B……なんだって?
顔を上げて奥田の方を見てみれば腹を抱えて笑っている。ここにきてようやく理解が追いついた。
「さてはふざけてたな。どこまで本当なんだよ」
「ははは、全部嘘ですよ」
「全く律義にメモしていた自分が恥ずかしい!」
よくよく考えてみれば最後のやつは格闘ゲームの隠しコマンドではないか。
「実際は受付の人にこの委員証を見せればもらえます」
そう言って奥田は運転免許証くらいの大きさのカードを渡してくる。そこには『不登校対策委員会 委員証』と書かれており、自分の氏名が記載されていた。
「正規の委員じゃないのにこんなのもらっていいのか?」
「ええっと、まあ……委員証がないと委員であることは証明できませんし」
「うん確かに」
得体の知れない人物に事務所の鍵を渡すことはできない。一時的に証明できるものを用意したということか。
「では明日からお願いしますね」
「ああ、わかった。またな」
「さようなら」
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