第7話 人間アレルギー ~その4~

 どうして学校に行くのか。正直なところ、自分自身あまり深く考えずに生きてきた。だからいざ君に聞かれても満足な答えをできなかったことは謝らなくてはいけないと思う。遅ればせながら、君のその問いに対して、すなわち学校になぜ行くのか、その意義についてここで答えさせてもらおうと思う。

 端的にいえばそれは人間になるためではないかと考えている。一見すれば何を言っているのかと思われてしまうかもしれない。生まれた時点から生物学的にはヒト、すなわち人間であることには変わりはないではないかと。元々人間だというのに人間になるために何かをするというのはおかしいかもしれない。

 話が少しばかりそれてしまうけれども、教育に関する法律に『人格の完成』という言葉が出てくるのは知っているだろうか。天才小学生の君なら、ここまで記せばここから何を論じようとしているのか何となく察しがつくかもしれないね。

 学校では人間になるために必要な全般的なことを学ぶところなんだ。学校で得られることは教科書に載っている勉強に関することばかりではないんだよ。友達との会話や関わり、先生とのやり取り、運動会や修学旅行といった学校行事など様々な体験を通して、様々なことを学ぶことができるということは君には理解できるだろうか。

 おそらく君はここまで理解したうえで不登校になったんじゃないかと思っている。他人と関わることが大切だということを理解している。それゆえに他人と接することに慎重になり、考えすぎてしまった。そして次第に不安がわいてきた。

 クラスメイトや学校の先生など、自分以外の人間とどう関わっていいかわからないんじゃないか?

 科学の公式や法則のように必ずしも一貫した行動をとるわけではない人間に不安を覚えたんだろう?

 気がつけば人間から避けるようになっていた。まるで人間に対してアレルギーでも持っているかのように。

 いつも学校のプリントを持ってきてくれるクラスメイトのことは知っているね。では彼女たちが、学校に来なくなった君のことを心配していることは知っているだろうか。君とそんなにも長い期間、同じクラスで過ごしてきたわけではないのに、こんなにも気にかけてくれるというのは、周りの人にかなり恵まれている。彼女らは君の不登校対策委員担当を外された後も君が学校に来るのを望んでいるのだから。

 西本薪奈、学校に行きたいという気持ちがあるのだったら潔く登校すればいいじゃないか?



 読み終わったレポートを折りたたむと深いため息をついた。

「何ですか? これは」

「君の出した宿題への解答だ」

 薪奈は淡々と無感情に言う。

「まずこの問に対する最終的な結論は何ですか? 話がわき道にそれていて、そのまま戻ってきていないように思えます。そして最後にある『学校に行きたいという気持ちがあるのだったら潔く登校すればいい』というのは一体どういう意味なのでしょう。まるで学校に私が行きたいと思っているような書き方のように見受けられます」

「実際そうなんだろ」

「はい?」

「学校に行きたいんだろ? 君は」

「自分で勉強しているのですから学校に行く必要なんかありません。当然、学校に行きたいなんて思ってもいないです」

「学校に行く気がない奴が毎日宿題をきちんとやるかよ」

「どうして……それを……」

 これまで一切表情を表すことのない薪奈がこの時ばかりは動揺しているように見えた。

 西本薪奈は小学校で出た宿題をやっている。それは昨日、薪奈が居眠りしていた際に目の当たりにした。口では論文を書くと言って実際は小学校の宿題をしていたのだ。学校での勉強をする必要がなく、学校に行くつもりもないと本当に思っていたのならば律義に宿題などするはずがない。やったところで学校に行くわけでもないのだから先生に提出だってできはしない。学校のプリントを持ってきてくれるクラスメイトにも宿題を先生に届けてもらっているわけでもないようだった。

 では、なぜ薪奈は宿題をやるのか。

「宿題をやりながら、本当は思っているんだろう。明日こそは学校に行こうって」

 薪奈は学校に行くために宿題をやっている。けれども翌朝、決心がつかずに学校を休んでしまう。理由は他人が怖いから。

「宿題をやっているから私が学校に行きたいと思っている?」

「そうだ」

 迷いなく大きくうなずきながらそう答えた。

「そんなの暇つぶしのためにやっているだけに決まってるじゃないですか?」

「本当に?」

「本当です」

「本当に本当?」

「本当……です」

 いまだ薪奈は認めないらしい。さらに問い詰める。

「本当に本当に本当?」

「本当です。しつこい……ですよ」

「じゃあどうして君はそんなに悲しそうな顔をしているんだ?」

 薪奈の眼から降りた何滴もの涙が頬をつたって落ちていった。

「これは……その……でも、本当だもん! 学校に行きたいなんて思ってないよ!」

 いつもの小学生らしからぬ大人びた口調が初めて崩れた時だった。

「意外と頑固なんだな。長い期間休んで今さら学校に行きにくいと思っているんだったら、それはあまり気にしなくていいよ。自分も高校入学早々に欠席してそこから長期欠席していたけれど、今では普通にクラスに馴染んでいる。薪奈ちゃんはもっと簡単に馴染めると思うけど。周りの人に恵まれているみたいだし」

 本当に恵まれている。毎日学校からの配布物を届けてくれるクラスメイトがいるのだから。詳しく聞けば彼女たちは先生から頼まれているわけではなく、自主的に行っているのだというのだから驚きだ。

「でも……他の人とどう関わっていいかわかんないよ。他の人と接するのにあんまり慣れていないし」

「君は人間に慣れていないんじゃないんだ、君が人間に成れていないんだ。君が少しでも人間になろうとする努力をすれば自然と周りから関わってきてくれるよ」

「小池さんの言う『人間になる』っていうのはどういうことなの?」

「まずは人を拒まないということだよ。他人を受け入れるようにすること。例えば休み時間に一人で読書や勉強をするばかりじゃなくて他の人と関わる時間をとってみるとか、相手のことを考えて気を使ってみるとかそういう努力のこと。薪奈ちゃんは理系だよね。化学の共有結合っていうのは知ってるよね」

 薪奈は涙を手で拭いながら頷く。

「うん、知ってる」

「酸素原子一つだけだと不安定で存在するのは難しいけど二つだと安定する。化学で例えるとむしろわかりにくいかな。要するにまずは遠ざかるのではなく仲良くなろうとすることが大事だというだっていうこと」

「原子のなかには希ガスといって単一でも安定して存在できるものもあるけど」

「ああ、そうなの?」

 話の腰を折ってしまうすごく無駄な例えをしてしまった。理系の薪奈に理解しやすい説明をと思ったのだが、むしろ説得力のかけらもない説明になってしまった気がする。

 薪奈はレポートを封筒にしまうと、くすっと笑ってこう言った。

「このレポート、不合格です。再提出でお願いします」

「了解」


   ***


 あの一件から一週間が経つけれども、いまだに薪奈からのレポートの再提出はできていない。行き詰まりを感じたため薪奈から助言をもらおうと考えて、薪奈の家に向かっていた。すると見覚えのある小学生三人が下校している姿が見える。

 仲良く三人でとある話題で盛り上がっているようだ。その内容は救急車が通り過ぎるときどうして音が急に変わるのかというものだった。

「それはドップラー効果といって……」

 その天才小学生はもう誰もお人形さんみたいなどといわれることのない人間の笑顔を浮かべていたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る