CASE1 誓約書と小日向家




「終わったぁぁ…………! って、あれ…………?」


ようやく最後の書類を片付けて、気がつけば午後6時。

教室を見回しても織原以外の姿は無い。

西日で茜色に染め上げられた室内には、俺と彼女の二人だけだった。


「聖良と朱音は?」

「いまから10分ほど前に、理科の先生と一緒に出て行きました。明日の授業で使う資材の運び出しを手伝って欲しいとのことです」

「ああ、そういうことか」


それは妥当な判断だな。

手が空いてるのはあの2人だけだったし。


「じゃあ、今日はこれで解散だな。織原も気をつけて帰れよー」


そそくさと帰り支度を整え鞄を持って席を立つと――織原が入り口を塞ぐようにして仁王立ちしていた。


「会長、来週から期末考査ですね?」

「ああ……そういえばそうだったな……」


俺がやる気のない返事をしたのは、本当にやる気がないからだろう。


なぜなら俺はもう三年次を首席で迎え、学費免除を確定させたこの期に及んで成績トップを維持する必要はないし、いままで特待生維持のために縛りに縛られた学園生活を送ってきた俺としては、いまさら試験勉強なんて詰め込み主義に付き合ってやる義理もない。

学生なんてのは、いつだって試験という出鱈目な定規が生み出す比較の被害者なのだ。


「今回はずいぶんと余裕が感じられますね」

「今年の春からまったく勉強してないからな。今回ばかりは織原に抜かれてもしょうがない」

「……では、この誓約書はまだ有効と考えても?」


織原は鞄から一枚の紙を取り出し、それを俺に手渡した。


「せいやく、しょ……?」


俺は目を点にしてその紙に書かれている文字に目を通す。


『私、小日向悠人(以下「甲」という)は、実力テストで織原藍莉(以下「乙」という)に敗れた場合、甲は乙に対しなんでも一つ願いを聞き届けることをここに誓います(拇印)』


「……………………なにこれ」

「2年前、私と会長が交わした誓約書です」

「……………………」


だんだんと思い出してきた。

2年前の春、首席入学を目指していた織原はポッと出の俺に首席の座を奪われ、俺に一方的なライバルを宣言をしてきたのだ。

その後も何かと俺に突っかかってくる彼女を黙らせるために、わざと挑発に乗って書いてやったような気がする。


「では重ねて聞きますが、これはまだ有効と考えてもよろしいのですね?」

「あ、はい。……って、んなわけあるか! そんなん無効だ無効」

「しかしこの誓約書には『有効期限』も無ければ『いつ・どの』実力テストを指す文言もありませんが?」

「……………………」


俺はもう一度目を凝らして文字に視線を走らせると、確かに織原の言う通りだった。


「い、いっておくが、大金よこせとか、願いを増やせとか、身体の一部が欠損するような願いは断じて受け付けないからな……?」

「……会長が普段どんな目で私を見ているかよく分かりました」


俺を睨みつける織原の鋭い視線に、ぞわりと背筋が凍るような寒気を感じた。


いまの今まで俺は無自覚なまま、こんな爆弾を抱えた状態で試験を受けていたのか……。


「と、とにかく俺の五体と懐で賄える範囲でだな……」


こんな穴だらけの誓約書、本来なら即刻破り捨ててしかるべきだが、本当にそうすると後が怖い。

織原に、貴様だけはこの身に代えても的な恨みを買っている覚えはないのだが、無自覚で人を怒らせることに関しては学園随一と自負するだけに、あらかじめ予防線を張っておく事にこしたことはない。


「条件はそれだけでいいですか?」

「そこで念を押されると不安しか無いんだが……」


その後、俺は条件に『他人を巻き込まない・当事者同士で完結する』ことを付け加え、それが受け入れられことに少しばかり安心したところで学園を後にした。









その日の夜。


俺はリビングでくつろぎながら、今日の出来事を家族に話していた。

もちろん誓約書の件は除いて、だが。


「悠人も大変ねえ。でも、人から頼りにされるのは良いことよ?」


俺の話に応えてくれるのは俺の母親――小日向真由美。こひなたまゆみ都内の音楽教室でピアノとヴァイオリンの講師をしている、アクティブで芸術家肌な人だ。

そして他人同士の繋がりを大切にする性格。なのでその反応もだいたい予想通りだった。


「ある意味朱音さんには安心しましたが、それでもお兄様に顔を近づけた点はマイナスですね」


それに対し、少し不満げに返す聖良。

ソファで寛ぎつつ、それでもきっちり聞き耳を立てていたようだ。


「母さんの言う通りだぞ悠人。頼りにされた以上は、それに応えてやらねば男が廃るだろう?」


リビングのテレビでドラマを見ていた父――小日向祐二ゆうじも話題に入ってくる。


父は書類とパソコンに追い回される毎日を過ごし、休日のゴルフと風呂上りの生ビールを楽しみとする、商社勤めのサラリーマン。

母が言うにはすごいやり手らしいが、家にいるときののんびり屋な振る舞いを見ていると少し疑ってしまう。


「そういえば悠人に預けておくものがあったんだ。ちょっと取ってくる」

「ん? なにかな」


一緒にテレビドラマを見ていた父がそう言い出し、2階へと上がっていった。

そして鞄を手に戻ってくると、中から封筒を取りだし差し出してくる。


「なにこれ? ……宝くじ?」

「職場にギャンブラーのやつがいてな、この間付き合いで自分で数字を選ぶタイプのくじを何枚か買ったんだ」

「えっ、まさか当たってんの?」

「いや、確か明日が抽選日なんだ。だから父さんの代わりに見といてくれないか?」

「別にいいけど……それくらいなら父さんがやってもいいじゃん」

「父さんは勝負運ないからな。悠人が見た方が当たりやすいだろう」


どういうオカルトなんだそれ。誰が見るかで結果が変わるわけがない。


「あらいいわねぇ。ちなみに1等っていくら? 何に使えるかしら」

「家のローン完済してもまだ残るぞー、夢が広がるなぁ」


……宝くじなんてのは結局、当選金の倍以上をまとめて買うか、あらかじめ当選番号を知ってでもいない限りは1等なんて当たるはずがないというのに。


「はぁ……」


俺の腹腔からため息が押し出される。

母さんといい、父さんといい、まったくのんきな家族である。





その後、俺が一人で学園から帰宅したことを聖良に咎められたので、後日3倍にして埋め合わせすると適当に口約束してから自分の部屋へと戻った。






「はぁ…………」


山のように積まれた参考書を前にして2度目のため息。それも先ほどより大きいやつ。


こいつらはもう用済みとばかりに押し入れの奥深くにしまい込んだはずなのに、それをわざわざ引っ張り出して春から世話になったゲーム機に別れを告げたのは他でもない、誓約書のことだ。


正直いって今回は、かなりこちらの方に分が悪い。

なぜなら俺は今年の4月から今日まで試験勉強という勉強をまったくといっていいほどやってこなかった。

それは、いまさら勉強なんぞしなくても上位には確実に食い込めるという日々の積み重ねたあったからに他ならないのだが、誓約書の件がある以上その『上位』では意味を成さなくなってしまったのだ。


はたして、いまから試験勉強してあの織原に勝てるだろうか?


「……………………」


向後の不安に苛まれて気を遠くしていると、ドアの向こうから俺を呼ばわる声。


「……お兄様、少しだけお時間よろしいですか?」

「聖良か。入っていいよ」

「失礼します」


控えめなノックと声のあとに入ってきた聖良の顔は、心なしか不安げだった。


「どうした? 埋め合わせの件なら念を押さなくてもちゃんとするって」

「いえ、その件ではなくてその……今日、帰宅してからのお兄様はずっと心ここにあらずといった感じでしたので……」

「えっ……?」

「わたくしと朱音さんが先生に呼ばれて生徒会室を出ていったあと、藍莉さ――……ごほん、副会長と二人きりになりましたよね? その際、お二人の間でなにかあったのではと……」

「……………………」


俺は言葉に詰まった。

まさかこの妹には何もかもお見通しだったのだろうか?


「わ、わたくしでよければご相談に乗りますが……? (あの雌狐……ッ! まさかわたくしを差し置いて抜け駆けをしたのでは!?)」


どことなく落ち着かない様子の聖良。

俺は誓約書の件を正直に打ち明けるかどうか迷ったのだが、話したら最後、取り返しのつかない事態になるのではないか、という直感的な恐怖を感じた。


「……いや、織原とは特になにも無かったよ。ちょっと小言をいわれただけ」

「そうですか……(まあ、あの藍莉さんが自分から告白なんて出来るはずもありませんし、仮にしたとしても、いまのお兄様相手では玉砕も目に見えてますしね。それこそお兄様が断れないような状況を作り出さない限りは……)」

「ハハ……俺にはデリカシーが足りてないんだとさ……」


確かに嘘はいっていない……はず。


「ふふっ、お兄様はそのままでいいのですよ?(おかげでプランBを実行せずに済みましたし)」

「そ、そうか?」


くすくすと口元に手を当てて上品に微笑む聖良だが、目が一瞬だけギラついたように見えた気がしたのは俺の勘違いだろうか?


その後、四方山話もほどほどに、おやすみの挨拶を交わして部屋を出る聖良を見送り、俺は改めて参考書の山と向き合った。

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